――水明荘の午後。
縁側には春風が吹き込み、障子の影がゆらりと揺れる。庭の池には小さな鯉が泳ぎ、鹿威しの「カコーン」という音が、時折その静けさを破っていた。
「ただいまー、氷と炭酸とポテチ、買ってきましたよー!」
その静寂をぶち壊すように、駿が玄関の戸を開ける。両手に買い物袋。炭酸のボトルがジャラジャラ鳴った。
「おかえりー」
台所から麻衣の声。味噌汁の匂いが、鼻をくすぐる。
「寿司もとったんですね」
「そうよ。今日は、特別な日、だからあぁ」
「入寮見学会でしったけ? てかもうできあがってんのかよ。仕事しろ仕事しろ」
「ありのままぁを見せるのが水明荘のルールよ」
陽気な声が響き、いつの間にか寮母の早苗も現れていた。38歳にして妖艶さを湛え、ゆるやかに揺れる黒髪と柔らかな笑顔で場を包み込む。
「あ
「歌うな! やめろ! 怒られるから!」
ほんとやめて。近所迷惑だから。著作権とかも絡んでくるから!
「はいはい。余計なこと考えてないで、ほら駿君もここ座って。はい、お箸」
「あ、あざまっす」
出された茶碗と箸に手を伸ばす――
「ん?」
箸に、何か書いてある。よく見ると、マジックで「2」と数字が。
「……は?」
その瞬間、奥の和室から歓声があがった。
『王様ゲェェェェェム!』
「じゃん、王様は……あたし!」
カードを掲げて笑ったのは、黙っていればクール系美人、風間麻衣。だが今の顔は、悪戯をたくらむ猫そのもの。
「命令。『2番は、王様の愛読書を読みなさい』。ふふ、さあ誰かしら?」
「……うわ……」
俺――駿は、天を仰いだ。
このパターンは。
「いやです」
「少子化ポリスウーマンの羞恥心を読みなさい」
何読ませる気だよ。
「大きな声で音読、しなさい」
「命令に命令を重ねるのは反則だろ!」
「うるさいよー
おい、思春期の中学生。これが国語なら世も末だぞ。
お前はこれが、官能ものだと知らんのか?
「早くしてよ。王様ゲームはテンポが命なんだよ」
「なんでお前が王様ゲームのノウハウ知ってんだよ」
どこからその知識習得したの? ネット小説?
視線を落とし、手の中の紙片を見つめた。
そこに書かれた文字を読み上げるべきなのだろうか。それとも、ただ黙っているべきなのか。迷う心と冷たい指先が、ささやかな震えを伝えてくる。
微かな空気の流れが頬を撫で、寮のざわめきが遠のいたように感じられる。
――そして、俺は口を開いた。
「はい、それじゃ、彼の性癖が晒されたところで次いこっかー」
冤罪である。
「はいはーい、引くよ~」
そう言って箸を引いたのは、俺の従妹である小林友里。ちゃらけた笑顔の中に、企みの光がある。
「じゃあ命令! 『1番は、4番の膝枕で5秒間目を閉じる!』」
その瞬間、全員の目がテーブルの番号に注がれた。
「……1番、オレ……」
「4番、私」
重たい沈黙を破ったのは、毛布に包まれた社会不適合者、二ノ宮かおり。地味なカーディガンの下には驚くほど整ったラインが覗き、控えめでいながら、どこか視線を引く存在感があるがくるまってしまう。
「……やるの? 本当に? 他人の顔って描くのは得意だけど、間近で見るのは苦手……」
かおりさんは、頬をほんのり赤らめながらも、無言でぽん、と太ももを叩いた。
「し、失礼します……」
俺が膝に頭を乗せた、そのとき。
「待って!!」
突然、風間先輩が叫んだ。
「それは神の領域!! 神さまのひ、ひざ……はぁはぁ……くっ、ダメよ駿くん、そんな無防備に……!!!」
その目は異様に光っている。というか、鼻息が荒い。
「風間先輩、鼻血出てます……」
カオスな膝枕劇の余韻が部屋を包む中、武藤猛はひとり、そっと立ち上がって窓際へと移動した。
「明日、〆切……しめ。きり。」
二ノ宮さんは、もう虚ろな目だ。
すると、毛布の中から、一枚、また一枚と原稿用紙が飛び出した。それは無造作に散らばり、床に舞い落ちる。
「ひっ!」と驚いて駿が一歩後ずさると、二ノ宮かおりが慌てて毛布を引き寄せた。悶絶する風間先輩。
「……見ないで。締め切り前なんだから……!」
彼女の顔には恥ずかしさと焦りが入り混じり、そばかすがほんのり赤みを帯びている。
床に散らばった原稿には、細かいペン線で描かれた華麗な人物が目に入り、瞬間、部屋の全員が息を呑むほどの迫力を放っていた。
「ふっ……青春って、眩しいな……」
ぽつりと、詩人めいた言葉が吐き出される。
それを聞きつけた早苗が首をかしげながら声をかけた。
「むっくん、何してるの?」
「……ただ、眺めてただけです。青春ってやつを」
どこか遠くを見るような眼差しで、武藤猛は床にゴロリと横たわる。その手には、開封済みのスナック菓子が握られていた。カサカサと袋が鳴る。
「……いいんだ。俺には床がお似合いなんで」
言いながら、スナックをひとつ口に放り込む。
「王様ゲームに浮かれる若者たちの、その影で静かに眠る。
そういう“床担当”って役回りも必要だと思うんですよ。
人生ってのは、選ばれる側と、見守る側でできてる」
「大学生のセリフじゃねぇ」
唐突に始まった武藤の人生論。彼は耳を貸さず、天井を見上げたまま、静かに続ける。
「……今日、フラれました」
部屋が一瞬、静かになった。
友里が声をひそめるようにして訊いた。
「えっ……彼女、いたの……?」
マジ顔である。失礼だぞ(笑)
「ああ、いたよ。ちゃんと写真も交換したし、週末には会って。あっちから連絡くれることも……。趣味も合ったし、笑い方が可愛かったな……」
どこか懐かしそうに語るその姿に、一同、意外な表情を浮かべる。
「俺のことタイプだって言ってたのに……」
哀愁ただよう空気に、麻衣はつい言葉をこぼす。
「それって……マッチングアプリでしょ?」
言葉が心に突き刺さる音が、誰の耳にも聞こえた気がした。
武藤はほんの少しだけ口角を上げた。
「マジだったの!?」と麻衣が半笑いで叫ぶ。
彼はもう笑っていなかった。ただ、淡々と続けた。
「彼女に言われたよ。重いって。情が湧いてきてめんどくさいからって、アプリごとブロックされました」
握りつぶされるスナック。
「通報もされ、垢バン。監視社会は厳しいな」
頬から零れる雫。
「雨か……」
誰も何も言えなかった。
「人生って、王様ゲームに似てるよな……。
命令される側と、されない側。
それから、最初から指さえ向けられない、圏外の人間。
……俺はたぶん、三番目だったんだろうな」
ぽそりとつぶやき、再び床に寝返りを打つ武藤。
その背中はどこか、哀愁と自己完結した孤独で満ちていた。
「……床だけは、裏切らねぇな……」
静かに、スナック菓子をひとつまみ、ポリッと噛み砕いた。
うん。しばらくそっとしておこうか。
軽く息をついたその直後、和やかな空気を壊さないように、早苗さんがふわりと場に入ってきた。
「王様はぁわたし……じゃあ命令は」
一同がごくりと唾を飲む。
「全員、声をそろえて言ってくださいね。『王様の命令は~?』」
「ぜったぁぁい!!」
友里と麻衣はウェイウェイ。俺はそんな彼女らを俯瞰し、二ノ宮さんと一緒に虚ろな目をしていた。
「はーい、よくできましたっ♪」
にこにこと満足そうな早苗さん。ノリノリだぁ。
もうひとつ命令を追加する。
「もう一つ命令です~。もうすぐ入寮する子くるから、とびきりの『ドッキリ』でお出迎えしてくださ~い。駿くん、よろしくぅ?」
(数字はどうした? 指名かよ)
「私の命令が聞けないの?」
視界に入る、ほてった顔。そうか、これが、傾国の美女。
思わずハッとする俺。いや、待てよ。時の皇帝も惑わされたわけだし、俺だって仕方ないじゃないか。
こんなさ。誘ってますやん。もうしょうがないじゃん。
目の前の「絶対君主」に、いっそひざまずこうかと考えた。だが次の瞬間、その君主が「あれ、服にポテチの欠片ついてる……」とつぶやき、そのまま渡してくる。
「色つけたよ?」
「やります!」
即返事。元気になってしまった。どこかなんて聞かないでくれ。
数分後――水明荘の玄関にて
チャイムが鳴る。
「きたっ!」
俺は派手な羽織にサングラス、そして口にはパーティーホイッスルをくわえ、気合い満々で玄関の戸を開け放った。
「ようこそぉぉぉぉ!! 驚きの館・水明荘へぇぇぇぇッ!!」
ドン引きしたのは、制服姿の女の子だった。肩までの黒髪がふわりと揺れる。手にはキャリーケース。
「えっ……?」
驚きのあまり一歩引いたその拍子に、キャリーケースのキャスターが玄関の段差に引っかかった。
「わっ……!」
次の瞬間――スローモーションのように彼女が宙に浮き、キャリーケースが凶器と化して迫ってきた。
ああああああああああ――ッ!
見事に急所にクリーンヒット。俺はその場に崩れ落ちた。
足をがくがくさせながら、顔を上げる。
そこにいたのは、真っ白なブラウスに青いリボン、そして紺色のスカート。あどけない姿が、ふわりと目に飛び込む。
涙を浮かべた瞳は、どこか儚げで、純粋そのもの。まるで天使のような無垢さが、静かな空気に溶け込んでいた。
「だ……誰?」