十五歳の少年ミナトはワンルームの床に直接敷いた布団の中で死にかけていた。
普通なら助かる風邪のような病気である。
だが、金欠で、ごはんを食べられず、栄養失調気味のミナトにとって致命的だった。
あと一日でも早く病院に行っていたら、助かっただろう。
だが、世帯主である親が国民健康保険料を払っていなかったので病院には行けなかったのだ。
病気になり、仕事を休んで、寝ている間にあっというまに肺炎となってしまった。
もう立ち上がる力も無い。
喉が渇いたが、水道は先週に止まった。電気とガスはずっと前に止まっている。
救急車を呼ぼうにも、固定電話もスマホもパソコンもない。そもそもネット回線がない。
「くぅーん」
苦しむミナトに寄り添うのは、生まれた頃から一緒の大型犬タロだ。
タロは、かつて一緒に住んでいた父がどこからかもらってきた大型犬の雑種である。
タロは灰色の長毛種で、体の大きなとても可愛らしい犬なのだ。
タロは心配そうに咥えてきたドライドックフードを枕元に数粒置いてくれる。
食べてということなのだろう。
「……大丈夫だよ。タロこそ大丈夫?」
大丈夫だというように、タロはその大きな体をそっとミナトに寄せる。
先月、タロも病気になった。胃拡張捻転という手術しなければ死ぬ病気である。
その治療費を捻出するため、ミナトは全ての貯金を使い果たしたのだ。
「…………母さんが来るのは給料日だから」
母はミナトの給料日にやってきて、お金を受け取るとどこかに行くのだ。
「それまでタロが生きられれば……きっと母さんが……タロを」
もうろうとした意識で、ミナトはタロのことを考えた。
自分が死んだとして、タロは大丈夫だろうか。
もうタロも老犬なのだ。先月手術したばかりで体力だって落ちている。
給料日まであと十日、いや七日? 五日かもしれない。
もう、日付もよくわからない。
とにかく、それまでタロのドッグフードはもつだろうか。
「タロ。お腹が空いたらぼくを食べていいからね」
ミナトはタロの頭を優しく撫でる。
「…………」
熱でもうろうとしたミナトは、おもむろに枕元にあった目覚まし時計を掴んだ。
そして、窓に向かって投げつけた。
熱で弱っているミナトの力で時計は窓に届かなかった。
「わふ?」
困惑しながらもタロはその時計を咥えて戻ってくる。
ミナトが投げてくれたボールを取ってくる遊びであるかのように。
「……まどをわらないと」
あまりの高熱に、ミナトにはせん妄の症状が現れはじめていた。
ここは一階だし、窓さえ割れば、タロは外に出て、誰かに助けて貰える。
そう熱に浮かされ、判断力の無い意識障害の中で考えたのだ。
遊んでくれているのだと思ったタロが拾ってくる時計を、ミナトは窓に向かって投げる。
投げると言うより転がすといった方が近い。
ミナトは自分の力では窓を割ることすらできないことすら判断できなくなっていた。
ミナトが三回目に投げたとき、時計がぶつかったお皿が割れた。
その音を聞いて、ミナトは微笑む。
「……よかった。タロ、これでだいじょうぶ」
せん妄の中で、窓が割れたと思ったミナトは安心して、ふうっと息を吐く。
「……くぅーん」
「…………」
ミナトはタロを力なく抱きしめると、そのまま深い深い眠りについた。
そして、楽しい夢を見た。
夢の中で、ミナトはまだ子供で、タロは子犬だった。
行ったこともない森の中で、ミナトとタロは走り回って楽しく遊んだ。
◇◇◇◇
夢を見ているミナトから、タロはそっと静かに離れる。
犬のタロでも、ミナトの状態が良くないと言うことはわかった。
ミナトは昨日もその前の日も、何も食べていないのだ。
ドッグフードを食べさせようと枕元に運んでも、食べてくれなかった。
ミナトは喉が渇いているから、ドライドッグフードは食べられないのかも知れない。
公園で汲んできた水が昨日つきたので、ミナトは昨日から水を飲めていないのだ。
このままだとミナトが危ない。
そう考えたタロは、器用に鼻先を使って静かに鍵の掛かっていない窓を開けた。
せん妄で意識障害に陥っていなければ、ミナトもタロが窓から外に出られると気づいただろう。
タロは空のペットボトルを咥えると、開いた窓から外に出て公園へと向かう。
時刻は夜。冷たい雨が降る中、人通りのない道を歩き、タロは公園へとたどり着く。
タロは犬なので、公園の水道を使えない。
だから、水たまりの泥水を一生懸命ペットボトルへと入れる。
雨で体が濡れるのは嫌だが、雨が降っていたのは幸いだった。
ペットボトルに半分ぐらい泥水を入れた後、水がこぼれないように気を付けながら部屋へと戻る。
「くぅーん」
まだミナトは目を覚まさない。
枕元にペットボトルを置くと、再びタロは外に出る。
ミナトのご飯を手に入れなければいけないからだ。
公園のゴミ箱をあさり、食べ物を探す。
そして、底の方にあったクリームパンを見つけ出した。
それは開封済みで、一口かじった後があり、雨で濡れていた。
消費期限はとっくに切れているし、少し傷んで、変な臭いがしている。
たがタロにとってはごちそうだった。
これを食べたらきっとミナトは元気になる。
そう思った次の瞬間。
「この野良犬が! ゴミ箱をあさりやがって!」
タロはお酒の臭いのする男に棒で殴られた。
「きゃうん」
「このやろ! このやろ!」
酔っ払いはタロをボコボコに殴る。酔っ払いは一人でない。
揃いの服を着た五人の男たちはタロを囲んで楽しそうに殴り続けた。
男たちは、この公園で試合をしたあと酒を飲んでいた草野球チームの者たちだ。
普段からゴミ拾いなどをして公園の美化に強い思い入れがあった。
だから、彼らにとってゴミを漁る野良犬を叩くことは正義だったのだ。
「きゃうんきゃうん」
叩かれてもタロは抵抗しなかった。逃げ道を塞がれているので逃げることも難しかった。
昔、ミナトを助けようと、いじめっ子に向かって跳びかかり転ばせたことがあった。
そのとき、怒られたのはミナトだったのだ。
だから、タロは抵抗しない。ただ、菓子パンを咥えて、必死に耐えた。
「あ、まて! クソ犬が!」
やっとの思いでタロは隙を見て逃げ出した。
体中傷だらけになっても、傷んだクリームパンだけは、絶対にタロは離さなかった。
部屋に逃げ帰ったタロは、ミナトの枕元にクリームパンを置く。
「きゅーん」
ミナトはまだ目を覚まさない。
ミナトが小さい頃、たまに帰ってくるミナトの母がたくさんの菓子パンを置いていった。
それをミナトと一緒に食べるのが、タロはとても好きだったのだ。
ミナトもタロも、甘すぎる菓子パンが犬の体にあまり良くないことは知らなかった。
ただただ、分けあって食べるのが嬉しかった。
タロとミナトの楽しくて幸せな思い出だ。
「……きゅーん」
棒で殴られて痛む体を引きずって、タロはミナトの顔を舐めた。
先月手術した縫合痕が開いて、血が流れているが、タロは気にしない。
美味しいパンを食べれば、ミナトは絶対元気になるはずだ。
ミナトの熱は下がったみたいで、いつもより冷たい。
あれほど苦しそうだった呼吸も静かで、まるで息をしていないように感じるほどだ。
きっと、ミナトは回復しつつあるのだ。
そう信じて、ミナトが寒くないようにタロはしっかりと体を寄り添わせた。
ミナトが目を覚まさないまま、朝になった。そして、昼になり、再び夜になった。
ミナトは冷たくなり硬くなった。
やっと、タロはミナトがもう目を覚まさないことを理解した。
「……う、ウォォぉぉぉぉぉん」
タロは、ミナトが聞いたことのないような鳴き声をあげた。
◇◇◇◇
三日後、無断欠勤について説教してやろうとミナトの職場の上司がやってきた。
上司は安らかな顔で死んでいるミナトと、ミナトに寄り添う血塗れ老犬の死体を発見した。
上司の目には、老犬がミナトをかばい抱きしめているかのようにみえた。
ミナトの枕元には泥水の入ったペットボトルと、腐ったクリームパンが落ちていた。