翔馬の部屋は、誰がどう見ても普通の男子高校生のものだった。乱雑に積まれたゲームソフト、壁に貼られたバンドポスター、勉強机の上には開きっぱなしの教科書。特に目立つものといえば、ベッド脇の三脚に固定されたスマートフォンぐらいだ。
そのスマホのレンズが今、奇妙なものを映していた。ベッドと壁のすき間に出現した、銀色に波打つ楕円形の「穴」――どこかに続いているらしいそれは、まるで鏡を溶かしたように揺らめいていた。
「マジで開いてんじゃん……。昨日のバグじゃなかったのかよ」
翔馬は唸るように呟き、スマホ越しにもう一度確認した。映像でも、やはり同じものが映っている。光の加減でも気のせいでもなかった。彼はソファにドカッと座り込み、顎に手を当てた。
「これ……配信したら、バズる?」
その一言で、彼の目が変わる。好奇心と期待と、そしてほんの少しの焦り。地味な日常を変えたくて、選びたくて、彼はこの夏の初日を待っていたのだ。
翔馬は即座にスマホの配信アプリを起動し、タイトルを入力した。
【配信タイトル】
\俺の部屋に異界ゲート!?/高校生がリアルダンジョン探索してみた【初見歓迎】
「開始っと……。映ってるな、よし」
小さくガッツポーズをすると、彼はレンズに向かって微笑んだ。
「よう、みんな。今日から夏休みってことで、俺、翔馬がちょっと変わった企画をやる。――部屋に、変な“穴”ができたんだよ。ガチで。……で、今から、そこ入ってみる」
コメント欄がすぐに賑わい始めた。
《は?》《また釣りタイトルか?》《部屋の掃除しろ》《怖いってw》《行け行け!》
《どうせカーテンの影とかだろ》《高校生でこれってYouTuberの素質あるな》
「信じてねぇな、お前ら……いいよ、だったら――」
翔馬は自撮り棒の先にスマホを固定し、三脚のもう一台を布団に差し込み、もう一台を壁の高所に粘着マウントで固定した。三画面配信の構成が完成する。構図も悪くない。
彼は深呼吸し、手を伸ばした。銀の“穴”に。
指が、壁を突き抜けた。
ざわつくコメント欄。驚きの絵文字、止まらぬ《うそだろ》《加工?》《CGじゃねーの!?》
「……行ってきます」
そう言って、翔馬はそのまま全身を“穴”に滑り込ませた。
画面が切り替わる。自撮りカメラが映す彼の背後は、もはやベッドでも教科書でもなく、赤茶けた岩肌と空洞の世界だった。鈍色の空に、赤銅色の霧が漂う。第一層〈錆色の空洞〉。
翔馬の鼓動が、マイクを通じてかすかに聞こえる。
「やべぇ……マジで、異世界じゃん……!」
コメント欄は爆発した。《景色本物っぽい》《どこのCG?》《VR体験?》《やらせか本物かどっちだよこれ》《BGMないのが逆にリアル》
「ていうかこれ、金になるんじゃね……?」
その瞬間だった。
ガシャン――と、岩陰から鉄が軋むような音。
翔馬が振り向くと、そこには錆びついた巨人――ゴーレムのような影が、ギィギィと音を立てながら立ちはだかっていた。
彼は無言でスマホの自撮り角度を調整し、つぶやいた。
「おい、マジか……“最初の敵”って、そういうこと?」
ゴーレムは、全身が赤錆に覆われていた。鉄の板を無理やり縫い合わせたような構造で、節ごとに軋みを上げながら近づいてくる。目に当たる部分には、鈍い橙色の光が揺れていた。
「え、待て、武器とか何も……!」
翔馬はあたふたと辺りを見回す。足元には鉄の破片、崩れかけの柱、埃にまみれた何かの残骸。手に取ったのは、長い鉄の棒だった。重く、バランスも悪い。が、今はこれしかない。
ゴーレムが唸るように腕を振り下ろしてきた。翔馬は咄嗟に横っ飛びに避け、鉄棒を振る。ガンッという金属音だけが響いた。
「……硬ぇ!」
画面越しに《ドンマイ》《逃げろ!》《回避すげー》《やられるぞ!》などのコメントが流れる。翔馬はそれを横目で確認しながら、壁際へと下がる。
視聴者が――見ている。誰かが、ここにいる自分を見ている。
それが、彼に妙な覚悟を芽生えさせていた。
「だったら、かっこ悪いとこ見せらんねぇだろ……!」
鉄棒を構え直し、ゴーレムの背後に視線を移すと、少し盛り上がった床の裂け目があった。もしや――。
「お前、そこに落ちろ!」
叫びながら突進し、ゴーレムの足を狙って横薙ぎに鉄棒を叩きつける。金属のきしみとともに、足元が少しよろけた。
「もう一発!」
次の一撃を加えようとした瞬間――突如、視界の隅で何かが跳ねた。
「翔馬ァァァァ!」
大声とともに、飛び込んできたのは、眼鏡の少年・飛翔だった。彼は手にしていたスマホの一台をゴーレムの胴にぶつけ、角度を変える。
「カメラアングルが悪かった! 横から撮れ!」
「いや、何しに来てんだお前!?」
「俺のチャンネルのリンク貼っといたからな! 一緒にやろうぜ!」
ゴーレムが再び拳を振り上げる。その軌道を読んだ飛翔は、翔馬を突き飛ばしてかわすと、すぐに姿勢を立て直す。
そして次の瞬間、どこからともなく響いたのは――。
「……あれ、カメラ三つあるんだから、全部のアングル同時に出したらよくね?」
声の主は、入口からひょっこり顔を出した颯だった。髪は寝癖で跳ねており、片手にはスケッチブック、もう片手には缶コーヒー。
「てか、このゴーレム……関節、割と甘そうじゃね?」
「見てて言うな!! 手伝え!」
「はいはい、じゃあ俺は――この動き、メモっとくか」
スケッチを始めた颯を横目に、飛翔が叫ぶ。
「翔馬! 左腕、錆びてて動きが鈍い! チャンスだ!」
「……っしゃあ!」
翔馬は飛翔の言葉を信じ、渾身の力で鉄棒を振る。ゴーレムの左腕に命中すると、鈍い音とともに部品が飛び、バランスを崩したそれが、先ほど見つけた裂け目へと倒れ込んだ。
――ズゥゥゥン……!
地響きとともに、ゴーレムは完全に沈黙した。
一拍置いて、スマホ画面に表示された視聴者数が跳ね上がる。数百人だった数字が、一気に数千へと膨れ上がっていく。
コメント欄も盛り上がっていた。
《倒した!》《すげぇ!》《まじで現実?》《飛翔ナイス》《鉄棒w》《颯なにしてたwww》
「……やったな」
飛翔が軽くグータッチを求め、翔馬も応じる。鉄棒はもう、手から滑り落ちていた。
だがそのとき、スマホのひとつが不意に落下し、床に転がると同時にレンズが“何か”を捉えた。
裂け目の奥――さらなる通路が続いている。
ゴーレムは、あくまで“門番”に過ぎなかったのだ。
倒れたゴーレムの背後――割れ目の先に広がる闇は、ただの空洞ではなかった。
そこには、螺旋階段のような構造物があった。腐食した金属の支柱が複雑に絡み合い、緑青の苔のような光を放っている。壁の随所には記号めいた文様が刻まれ、その一つ一つがかすかに脈打つように光っていた。
「……これ、本当にゲームじゃないよな?」
翔馬がぼそりと呟く。
画面のコメント欄は驚嘆と混乱で満ちていた。
《これどこのスタジオ?》《マジで行ったの?》《舞台装置じゃなくて?》《照明リアルすぎ》
《スゲーわくわくしてきた》《もう映画撮れよ》
「翔馬、まだ回してる?」
飛翔が問いかける。翔馬は自撮りカメラに向かって、無言でサムズアップした。
「じゃ、続けようぜ」
「お前、怖くねぇのか?」
「そりゃ怖いよ。でも……この感じ、なんかクセになる」
飛翔はいたずらっぽく笑う。
そこへ、颯がスケッチブックを閉じて肩をすくめた。
「まさかホントに異世界だったとはねぇ。……おれ、この絵まとめて売れねぇかな?」
「金の話すんの早すぎだろ!」
「お前が最初に言ったんじゃん、“金になるかも”って」
翔馬は苦笑しながらも、そのまま再び画面に目を向けた。視聴者数は9000を超え、コメントは秒間数百件の勢いだった。
誰かが言った。「次に進め」。
誰かが言った。「今のメンバーで固定しよう」。
誰かが言った。「次の配信、通知ONにしたからな!」
それは全て、翔馬の胸を高鳴らせた。
この夏の初日。たった一歩を踏み出しただけで、世界は明確に変わり始めている。
「……行こうぜ」
翔馬が一歩、通路に足を踏み入れる。その瞬間――。
地上のベッドに設置された三脚スマホが、着信音を鳴らした。表示された名前は「美波」。
「うわ……やべ、美波」
飛翔が顔をしかめる。
「何が?」
「今日の午前中、勉強会って約束してたんだよ。俺も翔馬も、忘れてここ来た」
翔馬の顔色が一瞬だけ曇る。が、すぐに再び笑った。
「……ま、怒られてもしょうがねぇな。次、誘うか」
「言い訳考えとけよ、マジで」
「え、俺が!?」
そんな掛け合いの最中にも、視聴者は彼らの言葉を聞いていた。
《美波って誰》《女?》《ヒロイン枠きた》《地雷か?》《次回参戦希望!》
《誰かまとめて》《アーカイブある?》《通知入れた!》
ダンジョンは、まだ始まったばかりだ。
スマホ越しの視聴者と共に歩む探索は、予想外の方向へと広がっていく。映像は、通路の奥へ進む翔馬たちを捉えながら、やがて暗転した。
画面の中央に表示されたのは、翔馬の手による文字列。
【続きは今夜19時、第二層で!】
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(第1話 完)