かつて、この国において貴族の家柄は絶対的な力を握っていた。しかし時代が進むにつれ、古い習慣や権威主義は少しずつ形を変え始め、今では「血筋」だけが全てを決めるわけではなくなりつつある。それでもなお、広大な領地を持ち、王家の次に影響力を誇る大公爵家は、未だに多くの人々の憧れと畏怖を集めていた。
その中でもひときわ名門として名高いのが、アイゼンベルク公爵家。大陸の北方地域を治め、雪と氷の領土を支配するかのように君臨する姿から、「氷の公爵」と呼ばれる当主がいる。
その男の名は、ヴァレリウス・フォン・アイゼンベルク。
金色の瞳は冷酷な光を放ち、威圧的な雰囲気をまといながら、誰も寄せつけない孤高の地位を守り抜く青年公爵。その冷ややかな態度と徹底した合理主義から、貴族社会でもとりわけ近寄り難い存在とされていた。
そして今、まさにこの国の社交界は、彼を取り巻くある“噂”でもちきりとなっている——「アイゼンベルク公爵が、政治的な思惑により突然の縁組を決めた」というのだ。
婚約者として名を挙げられたのは、ローラン子爵家の令嬢、アドリアナ・ローラン。
国の首都近郊に領地を有するとはいえ、ローラン家は“そこそこ”の地位に収まる中級貴族であり、財政的にもさほど裕福ではない。近年は子爵家の財産が徐々に目減りし、領民からの信用も揺らぎ始めている。そこで父親は、権力と財力を持つ名門との縁組を願い、その糸口をなんとか見いだそうと必死だった。
そんな背景からなのか、ローラン子爵が強引に関係者を通じてアイゼンベルク公爵に結婚を打診し、なんと承諾を取り付けてしまった。娘のアドリアナにとっては寝耳に水の話であり、ある日突然、父のもとに“公爵家からの正式な使者”が訪れたことで真実を知らされることになったのだ。
アドリアナは、華やかなドレスを纏うのが似合うしとやかな女性……というわけではない。誰に対しても柔らかい態度で接する礼儀正しさはあるが、人と自分との境界をどこか冷静に測っているような、クールで落ち着いた性格でもあった。
もっとも、優雅な宮廷生活を手にするほどの資産を持つ家ではないため、幼い頃から「無駄遣いはしない」「派手に振る舞ってはいけない」と諭されて育った。家のためにと、言われれば素直に従う傾向もあったが、それは彼女自身が内向的であるというよりも、「逆らうことで面倒が増えるなら、波風を立てない方が良い」と考える賢明さゆえの振る舞いだった。
しかし、だからといってアイゼンベルク公爵家との政略結婚を黙って受け入れるほど、感情のない人形ではない。
初めに話を聞かされたとき、アドリアナは父親に向かって、静かながらもはっきりとした口調で言った。
「……父様、私はその公爵様とは面識がありません。お会いしたことすらないのに、どうしてこのような重要な結婚を決めてしまったのですか?」
父であるローラン子爵は、厳かな執務室の机に両肘をついて組んだ手に口を当てながら、渋い顔をして答えを濁すように視線を逸らしていた。実直な性格、というよりは小心者であり、常に周囲の権力者を気にしている人物であることは、娘のアドリアナが一番よく知っている。
「アドリアナ……私だって好き好んで決めたわけではない。だが、このままでは我がローラン家は……。公爵家から正式に話が来た以上、断れるものなら断りたいが……いや、それは不可能だ。相手は“氷の公爵”なのだぞ。あのアイゼンベルクが、わざわざこちらに縁組を持ちかけてくれるなんて、我が家の千載一遇のチャンスなんだ。取り逃がせば、二度とない!」
父の顔には焦燥の色がにじむ。これまで資金繰りの苦しさもあって、領内ではあまり良い噂も聞こえてこない。領民からの税の取り立ても渋く、国内有数の大貴族から融資を取り付けようにも相手にされないことも多かった。そんなローラン子爵が、今回の婚約話に飛びつくのも、ある意味では当然の流れなのかもしれない。
ただ、同時にアドリアナには疑問が残る。
なぜ、絶大な権力を誇るアイゼンベルク公爵家が、わざわざこんな“中途半端な子爵家”に縁組を申し入れてきたのか。
周囲の誰に尋ねても、はっきりとした事情はわからないという。ひょっとすると裏に何か大きな策略が動いているのかもしれないし、あるいは純粋にアイゼンベルク公爵家が自領以外の政治的影響力を得たいだけなのかもしれない。いずれにせよ、件の公爵が「愛」を求めて婚姻を望んでいるとは到底思えない。
それでもアドリアナは、表情にはあまり動揺を出さず、静かに一礼した。
「わかりました。父様がおっしゃるのなら、私はその公爵様のもとへ嫁ぎましょう。私に拒む権利はありませんものね」
その言葉に対してローラン子爵は「すまない」と小さくつぶやき、うなだれる。彼が真に娘を想っているのか、それともただ自身の体面を保ちたいだけなのか、アドリアナには判別がつかなかった。しかし彼女は、どちらでも良いと思っていた。もとより政治的な駒として使われる身ならば、今さら嘆いても仕方がない。
ただ、そこに「愛」があるのかどうかが問題だった。
愛のない結婚——。
人生の伴侶となる相手が、自分をどのように扱うのか。もしくは、自分が相手を愛することができるのか。いや、そもそも彼のことをどれだけ知る機会が得られるのだろうか……。
何もわからないまま、アドリアナは子爵邸で嫁入りの準備に追われる日々を過ごすこととなる。
そして迎えた婚礼の日。
それはまるで、嵐の前触れのように重苦しい空気の満ちる朝だった。曇天の空からは今にも雨が降りそうで、時折遠くで雷鳴が小さく轟いている。
大きくふわりと膨らんだ純白のドレスを身にまとったアドリアナは、鏡の前で自分の姿をじっと見つめていた。いつもと違う上質なシルクやレースで彩られた衣装は美しく、鏡に映る自分の姿はどこか夢の世界の姫のようにも見える。
けれど、胸にわき上がる感情は決して華やいだものではなかった。緊張と不安。さらに言えば、結婚に対する諦念が心を覆う。
ドレスの裾を整えに来た侍女のマリアが、心配そうにアドリアナを見つめて声を掛ける。
「お嬢様……いえ、今日からは“公爵夫人”になられるのですね。いよいよ出立のお時間が近づいておりますが、大丈夫でしょうか。お疲れでしたら、少しお休みになられても……」
優しい気遣いに、アドリアナは微かな微笑みを返す。
「ありがとう、マリア。でももうすぐ儀式の始まる時間だから、大丈夫よ。……少しだけ、頭を冷やしたいの。あなたは先に下がっていて」
マリアは一礼して、静かに部屋から退出する。
一人になったアドリアナは、深呼吸をして心を落ち着かせようと努めた。憂鬱な気持ちを引きずったまま公爵家へ向かっては、相手に失礼になる。どんな形であれ、これからは相手に尽くさなければならないのだ。
そう頭で理解していても、胸の奥にわだかまる不安を拭うことはできない。
氷の公爵と呼ばれる男は、自分をどう見るのだろうか。あるいは、見向きもせずに放置するのか。それとも、厳しいしきたりのもとで自由を奪い、妻を都合のいい道具として扱うのか——。
噂によれば、ヴァレリウス・フォン・アイゼンベルクは愛情など微塵も持たない冷徹な人間だという。かつて、他の令嬢との縁談が取り沙汰された際にも、心ない態度で相手を泣かせたとか。生まれつきの金色の瞳は威圧的で、見る者を凍りつかせるほどの迫力があるとも言われている。
そこまで考えたとき、自嘲するように小さく笑った。
「……公爵家の奥方として認められれば、家のことも安泰になるのでしょう? だったら、うまくやるしかないわよね」
どんな相手であれ、今後のローラン家の存続はアドリアナの振る舞いにかかっている。結婚相手が冷酷な公爵ならば、なおのこと失敗は許されない。
アドリアナが意を決して部屋を出ようとすると、廊下の向こうから侍女が慌てた様子で走ってきた。
「お嬢様、急ぎでございます! 先ほど王宮付の神官様がいらして、予定よりも早く婚姻の儀式を始めたいとのことで……急いで式場へお越しくださいとのことです!」
「早まった……? どうしてそんなことになったの?」
問い返すも、侍女は「詳しくはわかりません」と首を振るばかり。
アドリアナは思わず唇を噛む。朝からの嫌な胸騒ぎが、さらに大きくなるようだった。
それでも、今は疑問を抱いている場合ではない。速やかにドレスの裾を握りしめ、足早に式場へ向かう。ドレスのボリュームが大きいため、走るのは憚られたが、それでもなるべく急いだ。
子爵邸の敷地内にある、質素なチャペル。ここは普段、家族や領民が小さな礼拝を行うために使われている。そこが今回、急遽簡易的な結婚式の会場として準備されていた。
本来ならば、アイゼンベルク公爵家が所有する大聖堂で盛大に執り行うのが通例かもしれないが、今回は公爵自身が「儀式はこじんまりと済ませたい」と望んだという。公爵側の意向を無視して、ローラン子爵家が大きな会場を用意する資金などあるはずもなく、結果としてごく内輪だけの式になっている。
チャペルの扉を開けると、目に飛び込んできたのは厳粛な雰囲気……と呼ぶには、少し張り詰めた空気だった。
中央の祭壇の前に立つのは、長い黒髪を後ろで束ね、漆黒の礼服を纏った青年。そして、その横には神官の姿がある。
革の手袋をはめた大きな手には、淡く光る宝石をあしらった指輪が一つ握られていた。だが、その様子を見ても、青年の表情はどこか無関心で、あるいは冷たいとさえ感じさせる。
おそらく彼こそが、噂の“氷の公爵”——ヴァレリウス・フォン・アイゼンベルク。
アドリアナは息を整える暇もなく、ゆっくりと祭壇へ向かって歩み出る。ドレスの裾を引きずる音が、チャペルの静寂の中でやけに大きく響く。
そして、ようやく公爵の隣まで進んだとき、初めて目が合った。
彼の金色の瞳は、まるで薄い氷の膜が張っているように冷え冷えとしている。が、その内側で何を考えているのかは、まったく読み取れなかった。
王宮付の神官が厳粛な口調で二人に問いかける。
「ヴァレリウス・フォン・アイゼンベルク公爵、あなたはこの女性、アドリアナ・ローランを妻として迎え入れ、守り、敬い、慈しむことを誓いますか?」
その問いに、公爵は迷いなく短く答えた。
「……ああ、誓おう」
その声には、どこか義務を遂行するかのような響きが混じっていた。
神官は続ける。
「アドリアナ・ローラン、あなたはヴァレリウス・フォン・アイゼンベルク公爵を夫として受け入れ、仕え、支え、敬愛することを誓いますか?」
アドリアナは鼓動がうるさく鳴るのを感じながら、わずかにかすれた声を振り絞った。
「……はい。誓います」
式の立会人である父を含む数名の貴族たちから、小さなどよめきが起こる。そもそも公爵との政略結婚など、“不釣り合い”にも見えるが、その事実が今まさに目の前で成立しようとしているのだ。
神官は二人を見渡し、聖典を掲げて厳かな声で言う。
「では今ここに、あなた方を夫婦であると公に認めましょう。神の祝福があらんことを」
そうして短い儀式は終わり、証人である貴族や神官が列を成し、最後に公爵がアドリアナの指に指輪をはめる。指輪は上品な銀色の輝きを放ち、決して派手ではないが、石の光彩は虹色にきらめいて美しい。
しかし、そのときもヴァレリウスはアドリアナをちらりと見るだけで、それ以上の言葉をかけることはなかった。まるで事務的な手続きのひとつをこなしているかのように、淡々とした態度を崩さない。
アドリアナはその様子を見て、「やはり噂通りの冷たい方なのだ」と感じつつも、ほんの少し胸に安堵を覚えた。むやみに迫られるよりも、こうして距離を保ったまま接してくれる方がまだ気が楽だったからだ。
式後の短い祝宴も、形式的なものにとどめられた。
多くの来客を招いての大々的な披露宴があるわけではなく、チャペル横のホールで軽く飲み物と菓子が振る舞われるのみ。そこでも公爵の姿はあまり見かけなかった。主役であるはずの新郎が、いつの間にか部屋を抜け出していて、気づけばアドリアナは父や神官に次々と挨拶されるという奇妙な状況が続く。
新婦であるアドリアナを置き去りにして、公爵はどこへ行ってしまったのか。誰も正確には知らない。家人が小声で「公爵様はお急ぎの要件があるようで……」と言い訳がましく説明するのを聞くたびに、アドリアナは苦笑を浮かべるしかない。
それでも、周囲は公爵に対して何も言えない。彼の持つ権勢はあまりに大きく、結婚当日に新婦を放り出すような振る舞いがあったとしても、文句を言える人間などこの場には存在しなかった。
やがて祝宴も早々に切り上げられ、アドリアナは馬車に乗って公爵邸へと向かうことになる。もっとも、ローラン家には豪奢な馬車などなく、今回のために公爵家が手配した黒塗りの立派な馬車が使用されることになった。
「では、アドリアナ……じゃなかった、今はもう“公爵夫人”と呼ぶべきか。元気でな……」
ローラン子爵の言葉はどことなく上の空で、世間体を取り繕うために取り急ぎ発したようにも聞こえる。アドリアナは複雑な想いを抱えながら、それでも父に向けて微笑をつくった。
「父様、今までありがとうございました。……どうか、体に気をつけて」
それだけ言い残すと、彼女は馬車に乗り込む。
ドアが閉まり、揺れる車輪の感触とともに静かに出発する馬車の中、アドリアナは一人になった。もとは公爵と二人で乗るはずだったが、肝心のヴァレリウスの姿は見えない。誰かが言うには、「公爵様は先に公爵邸へ戻る馬に乗られました」とのことだ。
「……やれやれ、これからどうなることやら」
窓の外を見ながら呟いた言葉は、誰にも届かない。
重厚な馬車は一定のリズムで揺れながら、子爵邸を離れ、街道を北へ向かって進み始める。
公爵邸は都の中心部からは少し離れた場所にある大きな敷地で、噂によれば庭園も屋敷もまるで城郭のように広大らしい。馬車で半刻ほど走ると、徐々に遠ざかる喧騒とともに、姿を現すはずだと聞かされていた。
しかし、実際に辿り着いてみれば、想像をはるかに超えた巨大な門と、堅牢な石造りの建造物が眼前に広がる。門には公爵家の紋章である「二頭の白鷲」が刻まれており、衛兵たちが厳重に警戒にあたっている。
アドリアナを乗せた馬車は、門番に身分証を示すと、すぐに中へと案内された。道路の両脇には整然と手入れされた庭木が続き、敷地の奥へと続く道をさらに進むと、ようやく視界に壮麗な屋敷が姿を現す。
高い塔のような屋根と、荘厳な装飾が施された正面玄関。まるで城のようなその光景に、アドリアナは息を呑んだ。自分がこういう場所で暮らすことになるのかと考えると、不安と興味が混ざり合った気分になる。
馬車が玄関前で止まると、黒い制服を着た執事がすぐにドアを開けてくれた。初老にも見えるが背筋がピンと伸び、目には鋭い知性が宿る男性だ。
執事はアドリアナに丁寧に会釈し、厳かに言葉を告げる。
「ようこそ、アイゼンベルク公爵邸へ。私は執事長のサミュエルと申します。これから、公爵夫人のお世話をさせていただくことになります。何卒よろしくお願いいたします」
「はじめまして。……アドリアナ・ローラン、と申します。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
アドリアナがそう名乗ると、サミュエルは静かに微笑み、「本来ならもう公爵夫人とお呼びするべきでしたね」と言った。
「公爵様は先に執務室へ入られています。今は取り急ぎ、お嬢様……いえ、奥様のためにお部屋をご用意させていただきましたので、どうぞお休みになってください。挙式からの長旅でお疲れでしょう。ご不明な点などございましたら、なんなりとお申し付けください」
そう言われたが、公爵がアドリアナを出迎える気配はまったくない。やはり忙しいのか、それとも最初から新婦など無視するつもりなのか。
執事や侍女たちに案内されるまま、アドリアナは広大な廊下を歩いて客室棟へ向かった。何度も曲がり角を曲がり、いくつもの大きな扉の前を通り過ぎると、ようやく目的の部屋に到着する。
そこは、客室というにはあまりにも豪華すぎるほどの部屋だった。質の良い絨毯が敷かれ、壁には見たこともない高価そうな装飾品が掛けられている。大きなシャンデリアには、まばゆい光が宿り、昼間だというのに部屋全体がやわらかな金色の輝きに包まれていた。
部屋の奥には、天蓋付きのベッドが堂々と鎮座している。深い紅色のカーテンが優美に垂れ、そこにさりげなく施された金糸の刺繍も美しい。寝具やクッションもさぞかし柔らかいに違いない、とアドリアナは想像する。
部屋を案内してくれた侍女の一人が丁寧に説明を続ける。
「ここは当邸でも指折りの格式高いお部屋です。もともとは公国の賓客などをお迎えする際に使われる場所ですが、公爵様が『初めはここを夫人の専用部屋として用意するように』と仰せになりました。もし何か足りないものや、必要なご用命がございましたら、すぐにお伝えくださいませ」
その言葉にアドリアナは驚く。なるほど、やはり“形”だけはしっかりしている……ということだろうか。公爵が直々に手配した部屋ということは、少なくとも最低限の配慮はあるのかもしれない。
だが、一方で「ここは賓客用の部屋だから、いつか別の部屋へ移されるのでは」という思いも過ぎる。つまり、これが最初で最後の厚遇になる可能性だってある。
侍女たちはひと通り説明を終えると、アドリアナを部屋に残して下がっていった。どうやらしばらくは好きに部屋を使っていて構わないらしい。
アドリアナは長いドレスの裾を捲り上げるようにして、ふうっと大きく息を吐く。
「なんだか、疲れてしまった……」
ドレスを脱ぐこともままならず、部屋の真ん中でぼんやりと立ち尽くす。挙式も祝宴も、どこか上の空のようで、実感が伴わなかった。いま自分は本当に公爵家の人間になったのか、という疑念と混乱が入り混じる。
実家にいる頃には、結婚式のあとはお決まりの“花嫁の初夜”がどうとか噂され、いやが応にも期待や不安を煽られた。けれど、いざこうして公爵邸に運ばれてきた今の状況を眺めても、その相手がいないのでは、どうにも拍子抜けというか——。
「私、これから本当にどうなっちゃうんだろう……」
思わず口からこぼれ落ちた言葉は、何の答えもないまま空気に溶けていく。
しばらく椅子に腰掛けて休んでいると、ノックの音が聞こえた。軽やかな音ではなく、どこか遠慮がちな強さを含んだノック。
「どうぞ」
アドリアナが声をかけると、扉が開き、先ほどとは別の女性の侍女が顔を出す。落ち着いた年配の女性で、柔和な表情が印象的だった。
「失礼いたします。私はキアラと申します。これから公爵夫人のお世話をさせていただきます。……先ほどは周りが慌ただしく、きちんとご挨拶もできず申し訳ございませんでした」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします」
アドリアナが丁寧に頭を下げると、キアラはうれしそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。……実は、公爵様が夕刻になりましたら奥方を執務室へお通しするように、とのご命令です。もう少しお休みになられてからでも大丈夫ですが、いかがなさいますか?」
ようやく、公爵に会えるというわけか。アドリアナの胸がざわつく。
「そうですね……では、しばらく休んでから向かいたいと思います。私、ずっとドレスのままですので、お召し替えをお願いできますか?」
「かしこまりました。それでは、すぐに別の衣装をご用意いたしますね。奥方さまのサイズなどは、事前に頂いていた情報をもとに仕立屋へ手配しておりますので、軽いドレスや部屋着はすでに何点か届いております」
キアラの案内で、アドリアナは部屋の奥にある小さな更衣室へ移動する。そこには、シンプルだが質の良い素材で仕立てられた淡いブルーのドレスがかけられていた。婚礼衣装の豪華さはないが、落ち着いた色合いと細部のレース装飾が上品な印象を与える。
キアラや侍女に手伝ってもらいながら着替えを済ませると、長かった髪もゆるくまとめ直してもらった。結婚式の際は華やかな髪飾りをつけられていたが、それも外し、より自然な装いになる。それでも素材や仕立てのレベルが高いので、アドリアナの佇まいは十分に優美に見える。
「これなら移動しやすいですね。……ありがとう、キアラ。おかげで少し気が楽になりました」
率直に礼を言うと、キアラはにこりと笑みを返す。
「ふふ、よかったです。まだ慣れない場所かと思いますが、公爵邸には優秀なスタッフが揃っております。何かありましたら、遠慮なくお声をかけてくださいませ。……それでは、支度が整われたらお迎えに参りますので、しばしご休憩を」
更衣室を出ると、侍女たちは部屋からいったん退室していった。アドリアナは一人ベッドに腰掛け、ようやく体をリラックスさせる。婚礼の儀式でぎこちなく歩き回り、緊張し続けていた分、どっと疲れが押し寄せてくる。
それでも、ここで仮眠をとるほどの余裕もなさそうだ。しばらくしてから執務室へ行き、公爵と顔を合わせる。そのとき、どのように振る舞えばいいのか。いや、まずは挨拶をきちんとするべきか。もしくは公爵から何らかの指示があるのだろうか。
考え始めると頭がぐるぐるしてくる。だが、答えは出ない。
仕方なく、窓辺へ向かって外の景色を見ると、広大な庭園が広がっていた。噂では“氷の公爵”が治める本邸は、厳しい冬の気候を思わせる造りとも聞いたが、少なくとも目にする庭には豊かな緑が広がっている。
花壇にはこの季節に咲く可憐な花々が彩りを添え、中央には大理石の噴水が見えた。噴水の水面がきらきらと輝き、そこに彫刻された乙女の像が優雅な雰囲気を醸し出している。
この美しい光景は、まるでアドリアナを歓迎しているようにも見える。
——しかし、果たして主である公爵の本心はどうなのだろうか。
そんな思いを抱えているうちに、再びノックの音がした。キアラが迎えに来たのだろう。
ドアを開けると、予想通りキアラが控えていて、柔らかく微笑みながら言う。
「奥方さま、そろそろよろしいでしょうか。公爵様の執務室へご案内いたします」
「ええ、お願いするわ」
アドリアナはそう答え、ドレスの裾を軽くつまみながら、キアラの後ろをついて部屋を出る。長い廊下を歩き、白亜の壁が続く通路をいくつか折れた先に、重厚な扉があった。
扉の両脇には守衛らしき男性が立ち、キアラは彼らに一礼するとノックをして声をかける。
「公爵様、失礼いたします。奥方さまをお連れいたしました」
すると、扉の向こうから短い返事が返ってくる。
「……入れ」
扉が開かれた先、そこには深い青の絨毯が敷かれ、壁際には高価そうな書架が並ぶ部屋が広がっていた。窓辺には大きな机が置かれ、そこにヴァレリウスが腰掛けている。
長身で黒髪の青年公爵は、既に執務を終えたのか、机上の書類に一瞥をくれる程度で、大して目を通していない様子だ。アドリアナが部屋へ足を踏み入れると、彼はその金色の瞳をゆっくりと上げ、初めて正面から視線を交わす。
キアラが丁寧に頭を下げ、「それでは、ごゆっくりお話くださいませ」と言い残して退室していく。
やがて扉が閉まり、広い執務室にはアドリアナとヴァレリウスの二人だけが残された。
少しの沈黙。アドリアナは胸の鼓動が早くなるのを感じながら、公爵の前で礼をする。
「改めまして……本日より公爵家にお世話になります、アドリアナ・ローランと申します。至らぬ点も多いかと思いますが、どうかよろしくお願い申し上げます」
頭を下げていると、ヴァレリウスの低い声が聞こえた。
「……ローラン子爵家の娘、と聞いていたが、実際に会ったのは今日が初めてだったな。お前のことはあまり詳しく知らない。……が、お前も俺に興味などないだろう」
突き放すような口調。まるでこちらの内心を見透かしているようでもある。
アドリアナは、その言葉を否定すべきかどうか迷ったが、結局正直に答えることを選んだ。
「はい……正直なところ、お会いするのは初めてですし、結婚の話が急に決まった経緯も存じません。……ただ、私は公爵様の奥様として、精一杯務めを果たすつもりです」
ヴァレリウスはそれを聞いて、小さく鼻を鳴らす。
「そうか。まぁそれでいい。俺もお前に対して特に愛情などは求めていない。お前には“公爵夫人としての役割”を果たしてもらえれば十分だ」
やはり、噂通りの冷徹な態度。アドリアナは心のどこかで想定していたとはいえ、面と向かってそう言われると胸が痛む。しかし、こうもはっきり言われるのであれば、変な期待をせずに済むというものだ。
公爵は机の脇にある書類を少し指でつまみながら、無関心そうに続ける。
「お前に一つだけ言っておく。俺は、これからしばらくは公務や領内の政務で多忙だ。お前を構う暇などほとんどない。今はこうして都に屋敷を構えているが、近いうちに北の領地に戻るつもりだ」
「北の……アイゼンベルク領へ、ですか?」
ヴァレリウスは面倒そうに頷く。
「そうだ。領内では管理すべきことが山ほどある。……本当なら、こんな政略結婚のために時間を割いている場合ではないのだが、色々と大人の事情というものがあってな。俺には俺の役目がある」
そう言い放つヴァレリウスの口調には、どこか苛立ちが混じっているようにも感じられる。彼にとっても、この結婚は不本意なのだろうか。あるいは「氷の公爵」と呼ばれる男なりに何らかの事情を抱えているのかもしれない。
アドリアナは胸の奥に微かな不安を抱きながら、意を決して尋ねた。
「……それでは、私はどうすればよろしいのでしょうか。公爵夫人として、こちらの邸で留守を守る役目があるなら、それも構いません。あるいは、公爵様とご一緒に北の領地へ行くべきなら、私も同行します」
そう提案したのは、“夫婦としての最低限の務め”を果たしたいという気持ちからだった。愛情はなくとも、せめて公爵家に嫁いだ以上はその責任をまっとうするべきだと思ったのだ。
しかし、ヴァレリウスはアドリアナをまっすぐ見据えて、きっぱりと言い放つ。
「お前が北へ行く必要はない。ここで暮らせ。……俺の領地は気候も厳しく、慣れない者にとっては苛酷な場所だ。足手まといになられても困るしな」
「……っ」
まるで突き放されるような言葉に、さすがのアドリアナも少し表情を曇らせる。
だが、ヴァレリウスはその変化を気にも留めないかのように、続けた。
「今、俺がこうして都に屋敷を構えているのは、王都での政治的な調整のためだ。お前はこれから行われる社交界の場で、公爵夫人として振る舞ってくれればいい。それが“形”だけのものでもな。……それ以上のものは求めていないし、期待もするな」
その一言に、アドリアナは微かな反発心を覚える。夫婦とは、そんなに空虚な形で成り立つものなのだろうか。しかし、彼の冷たく硬い瞳を見れば、今ここで何を言っても通じないのは明らかだ。
結局、アドリアナは少しの沈黙の後、静かに頭を下げる。
「……かしこまりました。私にできることがあれば、なんなりとお申し付けください」
「必要があれば指示する。……以上だ。もう行っていいぞ」
それはまるで“業務連絡”のようで、夫婦の会話とは程遠い。結婚したばかりの新妻に対して、あまりにも素っ気ない態度——だが、それこそが“氷の公爵”と呼ばれる所以なのかもしれない。
アドリアナはそう思い定め、少し憂鬱な気持ちを抱えつつ執務室を後にした。
執務室を出たところで待っていたキアラに、「もう一度お部屋に戻られますか?」と尋ねられる。アドリアナは小さく首を振り、「少しこの邸の中を案内してもらえますか?」と頼んだ。
キアラは快く「承知いたしました」と微笑み、館内の主だった場所を回ってくれた。広大な敷地内には書庫や応接室、サロン、舞踏室などがあり、さすがにすべてを一度に覚えるのは不可能なほどだ。
その間、キアラからはさりげなく「公爵様は昔からああいう方ですので、お気になさらず……」といった言葉をかけられた。
「ご自身で決めた結婚であったかどうかは、私ども下僕にはわかりかねますが、公爵様は決して不誠実な方ではございません。口数は少ないですし、厳格で冷たく見えるかもしれませんが、領民や使用人に対しても筋を通すお方です。ただ、どなたに対しても心の内をお見せにならないのが難点でして……」
そう語るキアラの口調からは、公爵に対する一定の尊敬と信頼が感じられた。つまり、彼は単なる冷血漢というわけではない——ということなのだろう。
だからこそ、アドリアナはますます疑問を抱く。公爵がどうしてローラン家と縁組を結んだのか、その真意がまるでわからない。
ともあれ、今日のところは彼の態度に気を揉んでも仕方がない。アドリアナは自室に戻ると、軽い食事を済ませ、使用人たちに手伝ってもらいながらベッドの周りを整えてもらった。
本来なら新婚初夜だというのに、公爵からは何の呼び出しもない。部屋に来る気配すらない。もしかして別の寝室を使うよう指示されるのかと思ったが、結局それもなく、アドリアナはガランと広い部屋に一人取り残される。
その夜、彼女は重い空気の中、眠れぬまま天蓋を見上げ、ただ静かに夜明けを迎えることになるのだった。
——こうして始まった、愛のないはずの政略結婚。
しかし、アドリアナはまだ知らない。
“氷の公爵”と呼ばれるヴァレリウスが、なぜ自分を選んだのか。その胸の裡にある思惑が一体何なのか。
そして、いずれ訪れる運命の転機を。
この先、彼女に待ち受けるのは、想像もしないほど甘く、時に苛烈な溺愛の日々——そして数々の“ざまぁ”の幕開けであるとも知らずに、アドリアナは夜の闇の中で微睡んでいた。