「もう十分だ。」
医師が眉をひそめて言った。
「これ以上は危険です。」
風間俊介は冷笑を浮かべた。
「危険って? こいつが今さら何を失うっていうんだ。続けろ。」
初音の呼吸はどんどん弱まり、指先は氷のように冷たい。
視界がぼやける中、彼女はなんとか彼を見つめ、かすかに笑みを浮かべた。
「……風間社長、これで……ご満足ですか?」
風間俊介はその青ざめた顔に苛立ちを募らせた。
「……また何の芝居だ?」
初音は答えられなかった。
瞳孔がぼんやりと揺らぎ、心拍が徐々に遅くなる。
仮死薬の副作用と大量出血が重なり、ついに限界を迎えた彼女は、そのまま意識を失った。
――
意識を取り戻したとき、身体中が痛みに包まれていた。
窓の外にはまぶしいほどの陽射し。芝生の上では、楽しげな笑い声が響いている。
彼女はふらつく体を支えながら立ち上がり、床から天井まである窓越しにその様子を見た。
俊介が黒川の手を取り、凧揚げを教えていた。
黒川は薄紫のワンピースを着て陽射しの下でくるりと回る。
彼の指と彼女の指に絡んだ凧糸は、まるで縁結びの赤い糸のようだった。
美しい光景――もし、その男が自分の夫でなければ。
「患者が目を覚ましたが、風間様に知らせますか?」
扉の外で、医師が低い声で尋ねる。
「知らせてどうする?」執事が鼻で笑った。
「旦那様はこの半月、一度も来ていない。黒川様が“あの女を見ると不快だ”とおっしゃってから、旦那様は奥様の名前すら禁句にしてる。」
初音の指先が、静かに掌を抉った。
薬の毒素のせいで傷口はなかなか塞がらなかった。
けれど今、彼女を本当に締めつけるのは、外の会話だった。
凧糸がぷつんと切れた。
俊介はすぐに上着を脱ぎ、黒川の肩に優しくかける。
大学三年の冬、黒川に階段から突き落とされたときも、彼は同じように彼女をかばった。
「寒いか? 帰ろう。俺たちの家に。」
けれど今、その“家”はこの病室だった。
医師すら立ち入るのをためらう、孤独な檻。
「回診です。」看護師が入ってきて、窓辺にいる彼女を見て驚いた。
「だめですよ、傷口が開きます!」
初音は答えなかった。
その視線はただ、外で黒川の靴紐を結ぶ俊介を捉えていた――まるで、かつての自分にそうしたように。
「……黒川様。」看護師は言いかけて、言葉を飲んだ。
「“朝倉”と呼んでください。」彼女は小さく微笑んだ。
「どうせ彼にとって私は、妻なんかじゃないから。」
――午前二時。扉が乱暴に蹴り開けられた。
俊介が酒に酔ってなだれ込んでくる。ネクタイは緩み、高級スーツには黒川の香水の香りが染み込んでいた。
初音が言葉を発する間もなく、彼は彼女を壁に押しつけた。
「満足か?」
顎をつかみながら、唸るように言う。
「俺がどれだけお前に振り回されたと思ってる?」
彼女は抵抗しようとするが、彼は容赦なくその唇を貪った。
「これが欲しかったんだろ? いつだって、俺を――」
痛みと快感が身体を貫く。
「そうよ……」
ようやく彼女は泣きながら叫んだ。
「私が欲しかったのは……ずっと、あなただけだった!」
俊介の動きが止まる。
「五年も……」彼女は震える手で彼の手首を掴んだ。
「毎日あなたが黒川といるのを見ながら、何も感じないふりをしてきた……」
涙が彼の手の甲に落ちた。熱い、まるで火傷のように。
「俊介……もういっそ…私を殺してくれたほうが、まだマシだった。」
ーーーーーー
朝日がまぶしく差し込むなか、初音は乱れた寝具に身を縮めていた。全身が痣だらけだった。
浴室からはシャワーの音が聞こえ、俊介はすでに身支度を整えて出てきた。
彼はベッドの血痕に目を止め、眉をひそめた。
「昨夜のは、お前の仕込みか?」
「……何のこと?」
彼はベッド脇でネクタイを締めながら、冷たい声で言った。
「芝居、上手くなったな。」
初音は破れた寝巻きをまとい、身体を起こした。
「昨日言ったことは、全部……」
「よせ。」彼は無造作に小切手を投げた。
「お前の“本心”なんて、三年前に嫌というほど見せてもらった。」
彼女は微笑んだ。目が赤く潤んでいた。
「……百万だけ?」
わざと強欲な表情を作り、唇の端を上げた。
「風間社長って、意外とケチなんですね?」
風間俊介は怒りに目を光らせ、彼女の顎をぐいとつかんだ。
「それがお前の本性かよ?」
「じゃなきゃどうしろって?」
彼女は艶やかに笑い、指先で彼の胸元をなぞった。
「まさか、“愛してる”って言えばよかった?」
彼は顔をしかめ、無言で背を向け、ドアを強く閉めて出ていった。
初音はその場で動かず、車のエンジン音が遠ざかるのを聞いてから、そっと自分を抱きしめた。
――俊介、私にはもう一週間も残されてない。
昔あなたと一緒にいるとあんなに“時間が足りない”って思ってたのに、今ではその一週間すら耐えられそうにない……
玄関の扉を開けると、そこには黒川の荷物が山のように積まれていた。
メイドたちは黙々と衣類を主寝室のクローゼットに掛けていく。
「俊介がここに住めって。」黒川は階段を指し、
「あなたの荷物は、屋根裏に移しておいたわ。」
屋根裏部屋は隙間風が吹き、毛布一枚で身を丸めるしかなかった。
階下からはベッドの軋む音が聞こえてきた。
俊介は日増しに狂っていった。
朝食では黒川のためにエビの殻を丁寧に剥き、ソファでは手を彼女の服の中に忍ばせる。
深夜に主寝室の前を通れば、男の掠れた喘ぎ声が響く。
「見張りか?」
彼は札束を放り投げた。
「俺たちの行為、見届けてくれ。二十万だ。」
初音は黙々と金を拾った。
一枚の札は暖炉のそばまで舞い、火が端から炙る。
俊介が突然、彼女の首筋を掴んだ。
「昔、あいつに金もらった時も、こんな風に従順だったのか?」
――暴風の夜
俊介は屋根裏の扉を蹴破って入ってきた。シャツは濡れ、雨水が滴っていた。
彼は初音のパジャマのボタンを乱暴に引きちぎった。
「声を出せ。」
唇を噛み、血の味が混ざる。
「あいつと寝た時みたいにな。」
初音は天井を見つめ、無反応だった。
行為が終わると、俊介は彼女の鎖骨を拭った。
「俺が脚を折られたときも、お前は同じように平然としてたか?」
彼女は服の最後のボタンを留め、無表情で言った。
「神谷と比べて、風間さんのほうが、ずっと太っ腹ですね。」
その言葉が彼を打ちのめした。
彼は初音の腕を引いて書斎に連れ込み、二人の思い出を綴ったアルバムを突きつけた。
「本当のことを言え!」
彼の目は血走り、声が震えていた。
「三年前のこと、お前には言えない事情があったんだろ!?」
「俺と他の女を見て、嫉妬で気が狂いそうだったんだろ?」
初音は彼のシャツのしわを整えた。
「真実なんて……」
「風間さんが聞きたいことなら、何でも言いますよ。お金さえくれれば。」
「この商売、悪くないですし。」
彼の胸元に手を滑らせ、ポケットから小切手を取り出した。
その瞬間、彼の体が、まるで力を失ったかのように震えた。
アルバムの写真が床に散らばった。
まるで五年間の記憶を焼き尽くそうとしているように。
俊介はよろめき、しかし怒鳴り返すことはなかった。
しばらく初音を見つめ、かすれた笑い声を漏らした。
肩を震わせながらドアの方へ向かう。
最後に振り返った視線は――心を刳り貫くような痛みを孕んでいた。
扉が閉まる音が、家中に響いた。
初音はそっとポケットの銀色のバッジに触れた。
……今日は、父が殉職した日のように、冷たい雨が降っている。
――これから数日間、初音は俊介の姿を見ていなかった。
彼女は気にも留めなかった。どうせまた出張だろうと、高を括っていた。
だが、その平穏は一本の震える電話で破られた。
電話の向こう、執事の声はかすれていた。
「旦那様が……誘拐されました……」
「犯人は1億を要求しています。さもなければ……」
手にしていたコーヒーカップが、大理石の床に落ちて砕けた。
まるで、心が一瞬で粉々に砕けたようだった。
一瞬の迷いもなく、初音は鍵を掴んで家を飛び出した。
廃工場の外では、警察がすでに包囲を敷いていた。
「危険すぎます! 犯人は武装しています!」
止めようとする警察を前に、初音は銀色のバッジを取り出した。
「私は特別捜査官です。中に入れて。」
警官たちは彼女の正体を確認し、気をつけるよう伝え、道を開けた。
中に入る直前、初音は薬指の結婚指輪を外し、警官に預けた。
「もし戻れなかったら……風間に渡してください。」
薄暗い倉庫の中、俊介は角に鎖で繋がれ、額から血が流れていた。
初音は深く息を吸い込み、毅然と言った。
「彼と引き換えにして。」
そして、刃物が喉元に迫った瞬間、初音は近くのオイル缶に突進した。
次の瞬間、爆音と共に炎が立ち上がる。
その火の中、俊介が特別部隊に担ぎ出されるのを見届けて、初音は安堵し、意識を手放した。
――どれほど眠っていたのだろうか。
目が覚めると、警察の簡単な聴取だけで解放された。
屋敷に戻ると、まさかの光景が目の前に広がっていた。
居間では、盛大な祝勝会が開かれていたのだ。
俊介の目が彼女を捉えると、手に持っていたグラスを茶卓に叩きつけた。
「朝倉、お前、よくものうのうと戻って来れたな?」
声は氷のように冷たかった。
「この三日間、どこで何してた?」
会場が静まり返り、賓客たちの視線が初音に集中する。
右手の包帯からは、まだ血が滲んでいた。
俊介は黒川の腕を振り払い、彼女のもとへと詰め寄る。
真っ直ぐ彼女を見下ろすその目は、極寒の氷原のように冷たかった。
「知らなかっただろう?」
彼は黒川の服を引き裂き、鎖骨に刻まれた生々しい傷を露わにする。
「真奈は俺を庇って、犯人に殴り殺されかけたんだ。お前はどうだった?」
「俊介、やめて……そんな女に怒るだけ損よ……」
黒川が慌てて彼の腕を取る。
その言葉には罪悪感が滲んでいたが、初音はあえて黙っていた。
長く続く痛みより、一思いに終わった方がいい。どうせ自分が去る運命ならば、いっそ彼に嫌われたままで――それが初音の覚悟だった。
初音は静かに襟元を整え、言った。「ご結婚、おめでとうございます。」
その一言が、俊介の怒りを頂点に押し上げた。
初音の顎を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせる。
「お前ってやつは、いつもそうだ!」
「俺が肋骨を折られたときも、お前はその無表情のままだった!
今こうして死地を潜り抜けて戻ってきても、またその顔かよ!」
その手は初音の蒼白な頬に赤い痕を残し、震える声で問い詰める。
「お前……本当に心ってものがあるのか?」
初音はふと、笑った。
その笑みは、俊介が彼女と初めて出会ったとき――春先の雪のように純粋だった、あの笑顔を思い出させた。
「俊介……あなたは、最初から知っていたんじゃない?」
「お金で動く女に、心なんてあるはずないって。」
その瞬間、俊介はまるで火傷したかのように彼女の手を離した。
初音は足を引きずるように階段へと向かう。
俊介は怒りにまかせて、茶卓の花瓶を床に叩きつけた。
「出て行け!二度と俺の前に現れるな!」
初音は一歩も止まらず、階段の踊り場で壁に寄りかかり、ようやく荒く息をついた。
下のフロアからは、また祝福の笑い声が聞こえてくる。
まるで、先ほどの修羅場が最初からなかったかのように。
足元の包帯から滲む血を見下ろした。
――あの夜、俊介が昏睡していた隣の部屋で、自分はただ黙って痛みに耐えていた。
彼を起こしてしまうのがいやだから。
けれど今は――
ようやく、思いきり泣くことができた。