黒川真奈が“俊介を救った”という出来事以降、風間家はまるでひっくり返ったように様変わりした。
使用人たちは皆知っていた。今やこの家で最も逆らってはならないのは、風間社長ともう一人――黒川真奈だった。
風間俊介は堂々とこう宣言した。
「真奈が望むなら、空の星でも取ってきてやる。」
「俊介……」
黒川は彼の胸に身を寄せ、指先で胸元に円を描きながら囁く。
「私はただ、堂々とあなたを愛したいの。」
風間俊介の体が一瞬こわばった。
「……真奈、それだけはできない。他のことなら何でもしてやる。」
黒川は突然身を起こし、目に涙を溜めた。
「……やっぱり朝倉初音のせいなんでしょ?」
「そんな冷酷な女、そんなに忘れられないの?」
「私がどれだけあなたの傍にいたと思ってるの? それでも結婚できないの?」
彼女は勢いよく立ち上がって走り出し、風間俊介もすぐに後を追った。
だが彼がドアを開けた瞬間――
「――ッ!」
突然、爆音と共に窓が砕け、飛び石が室内へと飛び込んできた。
ガラスの破片が舞い散り、鋭く光る破片が空気を切り裂いた。
「危ない!」
黒川が風間俊介を突き飛ばした。
その腕に鋭い破片が突き刺さり、純白の袖が瞬く間に真紅に染まっていく。
「真奈っ!」
風間俊介は彼女を抱き締めた。腕の中の彼女はまるで今にも壊れそうな蝶のようで、少し触れるだけで砕けそうだった。
「どうして……どうして、俺を庇ったんだ……?」
黒川は血に染まった手で、彼の震える唇にそっと触れた。
「……もっと頑張れば、あなたが少しでも私を見てくれると思ったから……」
その一言で、風間俊介は自分の舌を強く噛んだ。
「欲しいものは全部やる! 明日、初音と離婚する!」
黒川は弱々しく微笑みながら、彼の腕の中でそっと頷いた。
──黒川の傷は、実のところ深くなかった。簡単な処置ですぐに治る程度だった。
それでも俊介が最初にしたことは――初音に「離婚」の話を持ち出すことだった。
書斎にて。二人は無言のまま向かい合って座っていた。
俊介が先に口を開いた。口調は冷たく乾いていた。
「もう真奈を待たせたくない。財産のことは……いくらでも言ってくれ。」
初音は離婚協議書を淡々とめくりながら、さらりと言った。
「財産はどうでもいい。ただ、一つだけ欲しいものがある。」
「何だ?」
「あなたがくれた、あの指輪。」
それは、風間家に代々伝わる指輪だった。内側には二人の名前が刻まれている。
彼女は、それを――もし今回の任務が失敗に終わったなら、この指輪をつけたまま静かに土に還ろうと。
俊介の目がふと光を宿し、どこか期待を含んだ声で問いかける。
「まさか……まだ俺のこと……」
「だって、鑑定士に聞いたら、少なくとも八桁はいくって言ってたし。」
初音は微笑んでその言葉を遮った。
俊介の顔から一瞬にして光が消え、拳を握る音が響く。
「……朝倉初音。お前には本当に驚かされるよ。」
「明日、九時に区役所だ。待たせるな。」
――そして翌日、役所にて。
初音は、もっと揉めるかと思っていた。だが離婚はあっけないほどスムーズに済んだ。
離婚届けのコピーを手に役所を出ると、並んだ二人の名前が目に入った瞬間、胸を掴まれるような痛みが走った。
これで、風間俊介と朝倉初音は、完全に他人。
砕けたガラスの破片のように、二度と元には戻らない。
帰った後、俊介は結婚式の招待状を離婚届の上に叩きつけた。
「きみがブライズメイドとしての役が終わったら、指輪は返せ。」
金箔のついた結婚式の案内。
あの頃、彼が“お前のために島ごと貸し切る”と誓った三日三晩の式――今や、それはすべて黒川のものになっていた。
かつて初音に捧げたはずの、すべてが。
俊介は、彼女にそれを見せつけたかったのだ。
かつての“幸福”が、いかに容易く壊れたかを。
ーーーーーー
ウェディングドレスのフィッティング当日。
黒川は初音の手を引いて更衣室に連れ込み、こう言った。
「ベール、朝倉さんに整えてほしいの。あなた、人を“仕える”のは得意でしょう?」
朝倉初音が膝をついて十二メートルのベールを直していると、黒川が突然彼女の左手を引き寄せた。
目が冷たく光る。
「もう離婚したのに、なんでまだその指輪してるの? 返して。」
そのまま強引に引き抜こうとする。
だが、いくら引っ張っても指輪は関節に固くはまったまま、外れない。
「離して!」
もみ合いになる中、突如として五人の覆面の男たちが銃を持って更衣室に乱入してきた。
銃口が額に突きつけられ、麻酔針が彼女の首に正確に突き刺さる。
再び目を開けたとき、初音は俊介の目の前に連れて来られていた。
「選べ。」
銃を構えた男が顎を突き上げる。
「今の女か、元の女か。」
黒川は涙に濡れた顔で縋りつく。
「俊介……お願い、助けて。怖いの……」
風間俊介の視線が、初音の手首に残る痣にかすかに動く。
「黒川を放せ。」
彼はネクタイを緩めながら言った。
「彼女には手を出すな。」
「へぇ、風間社長ってば、新しい女には優しいね。
じゃ俺はこの“元妻”って女には容赦しなくてもいいよね?」
その瞬間、防弾ガラスが爆裂音と共に砕け、特別部隊が突入してきた。
しかし一歩遅かった。
犯人は振り返るやいなや、初音を海へと蹴り落とした。
耳に海水が入り込む瞬間、七年前の記憶がよみがえる。
あのときも、彼が自分を助けてくれた――凍る川の中から。
レスキュー隊に引き上げられた時、初音は見た。
俊介が黒川の腕を優しく拭っている姿を。その視線が、ずぶ濡れの彼女と交わった。
彼女の目に宿るのは、砕けたガラスのような絶望。
俊介は目を逸らし、冷たい声で言い放つ。
「……何見てんだよ。勘違いすんな。」
「まさか、またお前が18の頃みたいに、俺がお前のために川に飛び込んだとでも思ってんのか?」
初音は血の混じった唇で微笑んだ。
「――その方が、よかったかもね。」
彼女は地面に身を縮め、下腹部を押さえる。
指先が、まだ平らなお腹をそっとなぞる。
途端に何かを察し、痛みに顔を歪めた。俊介が冷たく吐き捨てる。
「何また芝居か? 黒川が妊娠したとしても、あんなに弱音吐かないぞ?」
その言葉に、初音は顔を仰け反らせるようにして笑い出した。
まるで泣くよりも悲しい、壊れた笑顔だった。
なぜだろう。俊介の胸に、不安が走る。
「どうしたんだよ?」
「……生理よ。」
彼女は冷たく言い捨てた。
「そんなこと気にするくらいなら、自分の婚約者でも気にかけたら?」
血のついた指が、掌を強く握りしめる。
「――まさか、私のこと、まだ未練でもあるの?」
俊介は鼻で笑った。
「夢見てんな。お前に結婚式の前に死なれて、縁起が悪いだけだ。」
そのまま彼は、振り返りもせず黒川のもとへと歩いていった。
彼が背を向けたその瞬間、初音はようやく涙を流した。
声にならない嗚咽が、胸の奥を突き刺す。
誰も気づかない。
ドレスの裾から、血が静かに滴っていることを。
夕陽に飲まれながら、彼女はそっとスカートの隠しポケットに手を入れた。
そこには――
妊娠検査の診断書が、静かに眠っていた。