「明日の結婚式、必ず出席しろ。」
俊介は冷たい顔でブライズメイドのドレスをテーブルに叩きつけた。
「さもなければ、屋敷の譲渡書は渡さない。」
初音は静かに答える。
「わかった、行くわ。」
少し間を置いて、微笑んだような声で言った。
「あと……ご結婚、おめでとうございます。」
言い終わる前に、俊介はすでにドアを勢いよく閉めて出ていった。
扉が閉まった瞬間、初音は堪えきれず、口から血を吐いた。
薬の潜伏期間は過ぎた。そこへきて落水と流産のダメージが重なっている。
彼女は日付を静かに数え、血の付いた指先で唇を拭う。
「……今日が限界ね。」
――午前7時。
初音は、かつて最も愛した結婚式用のベッドに横たわっていた。
スマートフォンの画面には未読メッセージが23件:
【もう7時だぞ、まだ来ないのか?】
【死にたいのか?】
【これが最後のチャンスだ!】
彼女は穏やかに電源を切った。
執事が涙ぐみながら救急車を呼ぼうとしたが、血で染まった彼女の手に止められる。
「おじいちゃん……最後に……ひとつだけお願い。動画を、録ってほしいの。」
カメラが設置される。
初音は酸素チューブを震える指で外した。
モニターがけたたましく警告音を鳴らし、デジタル時計は7:30――ちょうど誓いのキスの時間を示していた。
「俊介……」
カメラに向かって笑おうとしたその時、喉奥に鉄の味がこみ上げた。
「今度こそ……本音を言うね……」
「あなたに出会えたことは、私の一生分の幸運だった……」
激しい咳に遮られ、白い病衣に血が飛び散る。
老執事が泣きながらカメラを止めようとするが、彼女はか細い手でレンズを抑える。
「……最後まで言わせて……」
「あなたのこれからの人生が……どうか、穏やかでありますように……」
瞳孔が徐々に開いていく。
「私のことなんて、忘れてしまっていい……」
「……でも、私があなたを愛したことだけは……忘れないで……」
最後の言葉がかすれ、手が力なく落ちる。
結婚指輪がカーペットの隅で転がった。執事は嗚咽を漏らしながら、彼女の遺言通り、遺体をすぐ火葬場へと運んだ。
冷却車が裏口に到着したとき、初音の睫毛には霜が降りていた。
黒服の男たち二人が金属台に遺体を乗せ、静脈に針を刺す。
「記憶消去、開始。」
機械アームから赤い光が降り、彼女の体が激しく震える。
本能が二十年分の記憶消去を拒絶し、涙が髪先を濡らす。
だが、三秒後には、全てが静かになった。
彼女はもう「朝倉初音」ではない。
新たな名は――ナイチンゲール-0927。
――結婚式開始まで、あと8分。
風間俊介はメイク台にスマホを叩きつけた。
ロック画面に浮かぶ23件の不在着信。まるで血文字のように赤く踊っている。
彼はネクタイを引きちぎり、唸るように怒りを押し殺す。
――あの女、屋敷の譲渡書すらいらないのか……?
黒川がパールのハイヒールで彼のスラックスの裾を踏みしめた。
「俊介、司会の人が呼んでるよ。そろそろ入場しなきゃ。」
「朝倉初音を迎えに行く。」
彼は彼女の手を払いのける。
「指輪を渡すのは、あいつの役目だ。」
袖口を整えながら彼が呟いたその一言は、黒川が一番聞きたくなかった言葉だった。
――こんな状況になっても、まだ朝倉のやつを……
「でも、もうお客さんも集まってるし……
彼女が来たくないなら、無理に呼ぶことないよね?」
黒川の指が、彼のジャケットの皺に深く食い込む。
まるで朝倉初音の影を彼の骨の中から引きずり出そうとするかのように。
「……あと10分だけ待って。」
――3分経過。
黒川のヒールの先が、じれったくカーペットを叩く。
俊介はスマホを強く握り、指関節が白くなる。
今、たとえピリオド一つでも通知が来れば、彼は迷わず駆け出すだろう。
――あと5分。
何度更新しても、受信箱は空のまま。
朝倉のアイコンはグレーに沈み、まるで最後に背を向けた姿のよう。
結婚式の曲が流れた瞬間、俊介はスマホを受付に叩きつけた。
破片が黒川のドレスをかすめ、彼女は思わず身を引く。
だが彼はそのまま彼女の手を取り、バージンロードへ。
「さあ、行こうか――真奈。」
彼は黒川の腰を抱いて宴会場へと向かう。
そのとき、机上のスマホが振動した。
黒川は画面を横目で確認。
送信者は――執事。メッセージと動画。
――社長!奥様が限界です、早く……!
黒川の口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
今さらそんな手で俊介を取り戻そうって?
朝倉初音……死んでもなお、厄介な女。
彼は私のもの。風間の妻の座も、絶対に譲らない。
黒川は迷わずメッセージを削除し、さらに着信履歴も即座にブロックした。
結婚式は無事に終わり、二人で始まりのダンスを踊る。
優雅なヴァイオリンの音色の中、抱き合い回転する新郎新婦。
ゲストたちは笑顔でグラスを掲げ、祝福の声が広がった。だが風間俊介の胸には、石のような塊が重く沈んでいた。
黒川が甘えるように腕を絡め、彼は銀のナイフを無言で握る。
ケーキの甘い香りが、なぜか夜中に初音が作ってくれた二日酔いのスープを思い出させる。
深夜、披露宴がようやくお開きとなる。
黒川はハイヒールのかかとをぐらつかせながら、彼に寄りかかる。
「俊介……やっと、堂々とあなたを愛せるのね……」
酒の匂いをまとわせながら、指先が彼の喉元をなぞる。
「もう、みんな知ってる……あなたは私のものだって――」
そのとき――
「風間社長!大変です!」