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第16話 二人とも理性を失った

俊介は奈緒の前に立つと、彼女がさっき閉めたばかりのクローゼットを開けた。

そして中身を見た瞬間、眉をひそめる。

「……どうして君がここにいる?」

奈緒はなぜか、自分がやましいことをしているように感じてしまった。

けれど彼女は確かに、啓泰の招待でここに来たのだ。

だから、そのまま正直に説明した。


そのとき、啓泰がいつの間にかドアの前に現れた。

クローゼットの中の下着を見て、彼の目が細くなって笑う。

「たしかに、俺が招待したよ。インテリアの話をしてたら、奈緒さんが見たいって言うから案内したんだ」

そして、わざとらしく驚いたような顔をして言う。

「俺の部屋まで案内する予定はなかったけど……

まぁ、彼女が見たいって言うからさ」

彼はクローゼットを指で叩きながら、くすっと笑った。

「目的は、これだったのかい?」

奈緒は平然と嘘をつく。

「服が引っかかって……不意に開いちゃっただけよ」

「へぇ〜?」

啓泰は面白そうに声を漏らす。

「俊介、お前は信じる?」

俊介は答えず、無言で奈緒を連れてその場を去った。


彼の体から放たれる低気圧のような空気に、奈緒の直感が警鐘を鳴らす——今は逆らわない方がいい。車内は重苦しい沈黙に包まれていた。

奈緒は彼の不機嫌に気づいていた。だが彼の気持ちよりも、頭の中はクローゼットの裏に本当に金庫があったのか、そればかりだった。

計画の半分は達成した。

だが、高橋誠がいつ帰国するのかを聞き出す前に帰されてしまった。彼女はスマホを開いて啓泰にメッセージを送り、さりげなく情報を探る。

すると、彼から返ってきたのは驚いた顔のスタンプ。

【まだ俺と雑談する余裕あるの?】

その言葉の意味がよく分からずにいたが——

別荘に着いたとき、その言葉の意味が分かった。


俊介は無言のまま奈緒を主寝室に連れ込んだ。

執事が異変に気づいて後を追ったが、ドアの外で止められた。

ドアが閉まると同時に、奈緒は壁に押し付けられる。

背後には執事のノックの音、目の前には怒りを宿した俊介の顔。

「前に言ったこと、あれは俺を誤魔化すためだったのか?

本気であいつに心を動かされたのか?」

彼は優しく奈緒の頬に触れた。奈緒は驚いて顔を背ける。

その反応が、火に油を注ぐ結果となった。


俊介は彼女をベッドに投げつけ、体を覆いかぶせるようにして手首を押さえつけた。

「なにするつもりなの……っ?」

「……何をするか、分かってるだろ?」

彼の手が奈緒の服の裾から入り込む。

大人なら、彼の意図は容易に理解できる。

ここ最近、奈緒は主寝室に寝泊まりしていたが、彼は書斎で寝ていた。

彼女に対する視線はたしかにいつも熱を帯びていたが、もっとも距離が近いのは浴室でのあの一度きり。任務が終わるまでは、このまま一定の距離を保つと彼女は楽観的に思っていた。


だが——風間俊介は普通の人間じゃなかった。

常識が通じる相手ではなかったのだ。

「他人との遊びで、自分が誰のものか忘れたのか?

……君は、俺のものだ」

その瞳に狂気が宿る。

奈緒は震えながら必死で抵抗する。だが、彼の手は止まらない。

「風間俊介、……私に、あなたを憎ませないで!」

その言葉に彼の動きが一瞬止まる。

だがすぐに、彼は囁いた。

「……じゃあ、憎めばいい」

愛も憎しみも、感情だ。

彼はそのすべてを受け入れるつもりだった。そして彼は、彼女の唇を奪った。


しかし、奈緒は彼の束縛を振りほどき、思い切り彼の腹を蹴飛ばした。

その反動で俊介の体が仰け反る。

奈緒はすかさず台灯を手に取り、彼の頭を力いっぱい殴りつけた。

バシッ!

台灯が砕け、尖った破片が彼の額に食い込み、深い裂傷を刻む。

血が噴き出し、彼の顔を伝って流れ、シーツの上に鮮やかな花を咲かせた。

それを見てなぜか奈緒の胸が苦しく締めつけられる。

でも、割れた台灯を彼に向ける。


尖った先には血がにじみ、それがぽたぽたと彼女の足に落ちた。

冷たいはずの血が、熱かった。

「……あんた、初音さんにも、こうだったの?」

俊介は、血が目元にまで流れたまま、彼女を見つめ返す。

その目から、狂気と痛みが入り混じったような光が消えない。

「……道理で、彼女が出ていくわけだわ」

奈緒はそう言って、涙をこらえきれなかった。

元妻が受けていた苦しみは、恐らく自分が想像していたよりも遥かに大きかった。

いつも他人の感情に鈍いはずの自分が、どうしてこうも前妻の話になると揺れてしまうのか。

その言葉を吐き出した瞬間、喉が痛くなるほど感情が溢れ出してきた。

涙が、止まらなかった。


俊介は、奈緒のその言葉でようやく理性を取り戻した。

彼は手を伸ばし、涙を拭おうとしたが——

さっき自分が何をしたかを思い出し、その手を引っ込め、無言で部屋を出ていった。

奈緒は壊れた台灯をそっと元に戻し、目元の涙を拭き取った。

深く深呼吸して、落ち着こうとする。目に入ったのは、血に染まったシーツ。

風間の傷の深さが、脳裏に焼き付いて離れない。

——計画は、どうするの?

こんなことがあった今、もう風間は自分を高橋邸へ送り出すことはないだろう。

一方で、啓泰の方が彼女に興味を持っているのは感じ取っていた。

だが、それに乗るつもりも、信じるつもりもなかった。

それでも——彼女は後悔していなかった。

たとえ計画が崩れても、やり直せばいい。


そのとき、静まり返った部屋に小さな通知音が鳴り響いた。

奈緒は音の方に目を向け、ベッドの下からスマホを見つけた。

さっきの混乱で落としたのだろう。画面を覗くと、上司からの連絡だった。

——進捗は?

何度も文話を打っては消し、最後には簡潔に、今日の収穫だけを報告した。

すぐに返事が来る。

【よくやった。善は急げ】

その最後の四文字から、任務の切迫感がにじみ出ていた。

奈緒はすぐに立ち上がり、部屋を出る。


二階から階下を見下ろすと、風間がソファに座っていた。

執事が彼の傷の手当てをしている。彼女が階段を下りると、ちょうど処置が終わったところで、

執事は消毒薬の瓶を手に彼の表情をうかがい、そしてそれを奈緒に差し出した。

奈緒は黙ってそれを受け取り、彼の隣に腰を下ろす。

薬を塗り、包帯を巻く動作は、とても丁寧で、まるで彼を大事にしているかのようだった。

けれど、その傷を負わせたのは、まさに彼女自身だったというのに。

薬を塗り終えると、奈緒は丁寧に包帯を巻き、口を開く。

「ごめんなさい。……さっきは、感情的になって、つい」

——悪いのは、彼の方だったはずなのに。

なのに謝っているのは自分。

そんな自分に、奈緒はひどく憂鬱になった。任務のためなら、もっと酷いことだって平然と処理してきたのに。

風間俊介が相手になると、それができない。きっとそれは——前妻への共感のせい。

……そう、思っていた。


だが、彼女はまだ気づいていなかった。

風間俊介は、“特別”だったのだ。


「……本当に、君の想像したことなんてじゃないんだ」

冷静さを取り戻した奈緒は、彼の怒りの根源が“所有欲”にあるのではと考えた。

自分を所有物と見なしているからこそ、他人に奪われると思った瞬間、狂ったのだ。

さっきの言葉が、その証明だった。

俊介はうっすらと目を開け、低く問う。

「……なら、どういうことだと思ってる?」


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