「……忘れてないよな? 前に同じ質問されたとき、彼女がどう答えたか」
俊介は思い出した。あの日も、初音は白いワンピース姿で、まったく同じ質問を受けていた。
そのとき、彼女はこう答えたのだ。
「高橋さんが払えるなら、喜んで」
じゃあ今はどうだ? 同じ答えを口にするのか?
俊介が戸惑っているのを見て、啓泰はさらに満足そうに笑った。
「で、君の答えは?」
奈緒は彼の問いから、かつて前妻も同じ扱いを受けたのだと察した。
そして風間俊介は、その時と同じように彼女を守らず、答えを促す側にまわっている。
——昨日の浴室でのやさしさにほだされかけたけど……
今の風間の態度が、再び彼女の心を冷やした。
奈緒は風間の手を振り払った。
彼は止めようとはしなかったが、その目はまるで毒蛇のように、奈緒をねっとりと見つめ続けていた。
だが、奈緒の瞳にうっすら浮かんだ涙を見た瞬間、その視線がほんの少し和らいだ。
「……あんたたち、私のこと何だと思ってるの?」
奈緒は声を張り上げた。
「こんな辱め、楽しい? 女をモノみたいに取り合うなんて、何が面白いの?」
啓泰の口元から笑みが消えた。彼は、この展開をまったく予想していなかったのだ。
奈緒の三連発の問いに、場の主導権は彼女に移った。
怒りで体を震わせながらも、立ち去ろうとする。
俊介は慌てて彼女を追おうとしたが、奈緒は彼の手を強く振り払った。
「触らないで。……ついて来ないで」
そのまま踵を返して歩き出す。
が、啓泰が冷たく言い放つ。
「出口、そっちじゃないよ」
もちろん、奈緒は間違えてなどいない。
さきほどの怒りと叫びのうち、心からのものはほんのわずか——
あとはすべて、演技だった。怒って見せることで、この家の中を回り、情報を得ようとしたのだ。
感情をコントロールした絶妙な演技。唯一の誤算は、俊介が思ったより早く追いかけてきたこと。
彼は奈緒の腕を取って弁解した。
「誤解だ。さっきのは、君が思ってるようなことじゃない」
奈緒は不満げに小さく息をつく。これではまた調査計画が台無しだ。また別の機会を見つけるしかない。
「……なんで、彼があんなことをする? しかも、あなたまでなんで黙認するの?」
言いながら、指を持ち上げた。
紅茶にやけどされた赤く腫れた指先が、啓泰の行為を物語っていた。
「……前も、あんなふうにしてたの?」
俊介は丁寧に、傷ついた指先をそっと包み込むように握り、低く呟いた。
「……ごめん。もう二度と、させない」
彼の優しさにも、奈緒の心はもう動かない。
口先だけの謝罪など、何の価値もない。
それに——彼女は“前妻・朝倉初音”ではない。任務が終われば、ふたりに未来はない。
今日の出来事が決定打だ。ここから先は、もう終わりにすべきだろう。
奈緒は主寝室の方にちらりと視線をやり、再び小さく息を吐く。
(……探察はまた別の日にしよう)
一方その頃、高橋啓泰は、今日の出来事をそのまま黒川に話していた。
彼女は怒りに任せて部屋を歩き回り、落ち着かない。
そんな彼女をよそに、啓泰はにやにやと笑いながら言った。
「……あの女、なかなかやるよ。
たったの三つの言葉で、俺らを黙らせた。前の女より手強いかもな」
その口ぶりに、黒川は彼が奈緒に興味を持ち始めていると察し、ある提案をする。
「……面白いと思うなら、あの子を落としてみなさいよ」
「へえ? 俊介と取り合いしろって?」
「……光栄じゃないの」
黒川真奈はグラスに注がれた強い酒を飲み干し、嫉妬の炎を抑え込んだ。
「……興味があるなら、取りに行けば? あの子は朝倉じゃない。
あなたが言ってたでしょ。彼女、選択に迷ってたって。
なら、あなたを選ぶかもしれない」
黒川は甘い言葉で啓泰を煽る。
「俊介なんかより、あなたの方がずっと魅力的よ」
「……口がうまいね」
啓泰は笑みを浮かべながらも、その目には本音が混じっていた。
「……確かに。面白いやつだよ、あの女」
翌日、奈緒のもとに高橋邸から招待状が届いた。
送り主はもちろん、高橋啓泰。雑に書かれた筆跡は、彼の性格をそのまま表していたが、内容ははっきりと、彼女を再び高橋邸へ招待するものだった。
——まさに、渡りに船。
奈緒は迷うことなく受け入れた。
執事に相談すると、地下の車庫から車を選んで使っていいと許可をもらう。
高橋誠はまだ出張中で、恐らく機密書類も持って行っている。
だから、今回の目的もあくまで邸内の再調査だが、ついでに高橋誠の帰宅時間も探りたい。
――高橋宅
前回のピリピリした空気とは一転、啓泰はずいぶん穏やかだった。
「昨日は悪かった。……君がある人に似てたもので、
つい、彼女と同じく冗談好きだと勘違いしてしまって」
昨日のあれが“冗談”とは、これこそご冗談を。
奈緒は冷めた笑みを浮かべた。
「……あなたの“冗談”って、世間とはズレてますね」
その嫌味を、啓泰は笑って受け流す。
「まぁ、俺は普通じゃないからな」
奈緒は思わず失笑する。
(資料には“厳格な父親”って書いてあったのに……どうしてこの人が息子なんだろう)
啓泰は謝罪の品として、柑橘系の香水を用意していた。
爽やかな香りで、奈緒の好みにも合っていた。
「君を見ると、これを思い出すんだよ。見た目は甘そうなのに、香りはほろ苦い」
彼はゆったりとした姿勢のまま、奈緒のことをじっと見つめ、隠そうともせず興味を示していた。
話題が広がり、自然と邸内のインテリアや内装の話になっていく。
奈緒はそこへ巧みに誘導し、啓泰は気をよくして案内を申し出る。
奈緒は彼に連れられて、高橋誠の寝室と書斎を見せてもらうが、どこにも金庫やそれに準ずるものの痕跡は見当たらなかった。何かが引っかかるまま、啓泰の部屋へと足を踏み入れる。
そして衣装棚の前でバランスを崩し、手をついた拍子に、棚の一部が“空洞”であることに気づく。
「……どうしたの?」
啓泰に声をかけられ、奈緒はすぐに手を引っ込めてごまかす。
「いえ、ちょっと……よろけただけです」
わざとらしく衣装棚を指で叩いて、材質を確かめるふりをする。
空洞だったのは、さっき触れたその一点だけ。——もしかして、ここに金庫が?
啓泰が怪訝そうに尋ねる。
「……その棚、何か気になる?」
奈緒はとっさに笑顔を作る。
「素材が素敵だなって思って。丈夫だし、どこでオーダーしたんですか?」
啓泰は納得したようにうなずく。
「そんなこと聞いて、俊介の家にも欲しくなった?
……まだ付き合い浅いのに、もう家具に口出せる立場か?」
奈緒は答えず、彼もそれ以上追及しなかった。
「……俺はインテリアのこと、詳しくないからさ。管家に聞けばわかると思う」
そのとき、窓の外に一台の車が入ってきた。
それを見た啓泰は不敵に笑い、奈緒に言った。
「……ちょっと待ってて」
彼が部屋を離れた隙に、奈緒はすぐに棚の中を探り始める。
もしや開閉スイッチがあるのではと、注意深く触れていく。
そして棚を開けると——整然と並んだパンツが、目に飛び込んできた。
(……スイッチ、パンツの下かも?)
そう思った彼女が手を伸ばした瞬間——
「……ガチャ」
部屋の扉が開く。
奈緒は慌てて棚を閉めて振り返る。
「ど、どうしてあなたが……」
入ってきたのは、啓泰ではなかった。
風間俊介だった。
なぜか、彼の登場に気まずさを覚えた奈緒は、思わず言葉を詰まらせた——。