初音は植物を育てるのが好きだった。高橋邸の庭園と山水の造りは、確かに見応えがある。
俊介は疑いを抱くことはなかったが、少しだけ気になることがあった。
ジャムを瓶に移し終えると、鍋を洗い場に置き、柔らかい口調で奈緒に尋ねた。
「……そんなに気になる?」
「何が?」と奈緒は首をかしげて聞き返す。
俊介は微笑んだだけで答えなかった。
奈緒が今日になって高橋邸に行きたいと言い出したのは、昨夜自分が黒川真奈を連れて金婚式の晩餐会に出席したことが原因だと、彼は思ったのだ。
その“気にしている”様子が、俊介にはどこか嬉しくもあった。
だが奈緒は、彼の心情には気づかないまま、ただ作戦通りに高橋邸へ入り込めるのを優先していた。
衣装デザイナーが来る前に、俊介は高橋邸に電話を入れて訪問の旨を伝えた。
電話に出たのは高橋誠の一人息子・高橋啓泰だった。啓泰は、高橋誠が晩年にもうけた一人息子だから、すごく溺愛されて、典型的な遊び人の“お坊ちゃま”だった。
彼は俊介の言葉から、今回一緒に来るのが黒川ではないと察すると、すぐに黒川へ電話をかけた。
「お前、ますます落ち目だな。俊介、あいつ連れて高橋家の門くぐろうとしてるぞ」
軽く笑いながら、こうも付け加える。
「昔のお前なら、そんなに遅れをとることなかったのにな?」
その一言は、ナイフより鋭く、皮肉だった。黒川は唇を噛みしめる。
風間が起業した後に迎えた妻こそが初音だった。
けれど、初音はあの界隈の付き合いや社交が好きではなく、表に出ることも少なかった。
だからこそ、俊介は初音の代わりに、いつも黒川を連れていく。黒川は時折二人のツーショット写真を撮っては意味深に初音に送った。
初音から返信はなかったが、彼女が見ていたかどうかはわからない。
「高橋さんったら、私をからかわないで。今回の女も、彼女と同じで見栄っ張りですよ。
久々に会うんだし、ちょっとした遊びにはちょうどいいんじゃない?」
「……お前は相変わらず、毒があるな」
午後、俊介は奈緒を連れて高橋邸を訪れた。
出迎えに出た高橋啓泰は、奈緒の姿を見て眉を跳ね上げた。
噂では、“俊介が囲っている女”が、前妻にそっくりだと言われていた。
最初は信じていなかったが、奈緒を見て、完全に確信した。本当に、よく似ていた。
容姿だけでなく、仕草や雰囲気までも——
唯一の違いは、奈緒には前妻のような内気さやためらいがなかったことだ。
啓泰はまず俊介に挨拶し、こう言った。
「昨日と今日で連れてくる相手が違うとは……さすが風間さん、モテますね」
俊介から笑みが消える。
「……そうか?」
その一言で、俊介が奈緒に本気で向き合っていることが伺えた。
啓泰は笑って誤魔化す。
「冗談よ冗談。気にしないでくださいよ」
そして意味ありげに奈緒を一瞥する。
「お義姉さん、庭をご覧になりたいと聞きました。
後で執事に案内させましょう」
奈緒は、すぐに彼の笑顔の裏に隠された敵意を感じ取った。
今日が初対面のはずなのに、なぜ敵意を向けられるのか。
その理由を探るべく、彼の言動に気を付けるよう決めた。
邸内に入ると、応接室には裕福そうな若者たちが数名いた。
いずれも一流の家庭の御曹司たち。
風間俊介の登場に、彼らは次々と立ち上がって挨拶した。二人は中央の席に座らされ、すぐにお茶が出された。
奈緒の前に置かれたのは紅茶だった。彼女が口をつけようとしたその瞬間、高橋啓泰がさっと手を伸ばして茶杯を取り上げ、使用人を叱った。
「誰がここに座ってるかわかってるのか? こんな古いお茶、口に合うかもわからんだろう」
彼の動作は素早く、茶が奈緒の指先と白いドレスに飛び散った。
奈緒はそっと手を引っ込め、俊介に気づかれないようにした。
もしここで騒ぎになれば、計画に支障が出る。
俊介は冷たい目で啓泰を睨んだ。
啓泰は背筋を凍らせたようにすぐにトーンを和らげた。
「お義姉さん、何かお好みのお茶はありますか?」
「私はこだわらないので、大丈夫です」
奈緒はそう微笑むと、静かに立ち上がった。
「服が汚れたので、着替えてきますね」
ようやく俊介も、彼女のスカートに茶のしみがあることに気づく。
白い布にこぼれた茶は、目立ちすぎていた。啓泰はすぐに使用人に更衣室へ案内させながら、表面上は何度も謝った。
「本当に申し訳ない、お義姉さん。全部僕の不注意で……」
「古いお茶も新しいお茶も、私は気にしませんよ」
奈緒の返しは、彼の暗喩“身代わりの女”という皮肉に対する反撃だった。
とはいえ、なぜ誰もが勝手に自分が身代わりであることを気にしていると決めつけてくるか、奈緒には全く理解できなかった。
啓泰は一瞬、目を見開いて俊介の方を見た。
俊介は無表情のまま、さらに冷たい目をしていた。
空気を変えようと、啓泰は気軽に言った。
「じゃあ、お義姉さんには甘いミルクティーを用意しようか」
奈緒はそれも断らず、更衣室へと向かった。
部屋に入ると、使用人にチップを渡して言った。
「ここで待たなくていいですよ。あとで自分で戻りますので」
一人になった彼女は、静かに着替えを済ませた。
これで自由に邸内を歩き回れる。
もし使用人に見つかっても「道を忘れた」と言えばいい。
だからこそ、あの意地悪な一杯の茶にも、怒ることはしなかった。
だが——
まさか着替えを終えて出てきた瞬間、啓泰がそこに立っているとは思わなかった。
彼女の瞳孔が一瞬で縮んだ。平然を装って尋ねた。
「……なぜここに?」
「案内の使用人がいないって聞いて、義姉さん道に迷うかと思って」
言葉とは裏腹に、その声のトーンは俊介の前で言っていた“お義姉さん”とは全然違った。
礼儀というよりは、軽薄な響きが含まれていた。
奈緒はここで、なぜ彼が自分に敵意を持つのかを確かめようとした。
「今日まで、私たちに何の関わりもなかったのに。なぜそんなに私を敵視するの?」
啓泰は一瞬驚いた表情を浮かべた。
「……そう聞いてきたのは君が初めてだよ」
初めて?つまりこれまでも、自分と似たような立場の女性に同じようなことをしてきたということか。
黒川も——いや、もっとひどい扱いを受けた可能性もある。
奈緒は啓泰を見つめ直す。
その瞳は、まるで小鹿のように無垢で、まっすぐだった。
啓泰はふと心を動かされ、近づきながらこう言った。
「君のそういう性格、すごく好きだよ。……どう? 俺のところに来ない?
いくらでも払うよ」
その一言に、奈緒の心が一瞬揺れた。
啓泰と行動を共にすれば、より早く任務を進められるかもしれない——しかしその思案を遮るように、大きくて温かな手が彼女の手をつかみ、強く指を絡めた。
振り返ると、俊介がそこにいた。
「……彼女は君とは行かない」
彼の顔には怒りの色はなかった。
それでも、奈緒にははっきりと“怒っている”とわかった。
啓泰は半歩下がり、にやりと笑った。
「そんなに慌てて彼女の代弁をしなくてもいいだろ。
……君、さっき迷ってたよね? 俺に気がないなら、即答してるはずだ。
俊介が無理に言わせたところで、彼女の気持ちは否定できないよ?」