配信開始ボタンを押したのは、半ば惰性だった。
「どうも、底辺配信者のゆんゆんです……。本日も誰も見てないけど、よろしくどうぞ」
部屋に響くのは自分の声と、冷蔵庫のモーター音だけ。コメント欄は真っ白、視聴者数はゼロ。配信を日課のように始めて、もう三ヶ月。
バズる気配もなく、ゆんゆん――本名・悠人、三十路、無職――の時間だけが虚しく過ぎていく。
会社を辞めたのは、自分でも「甘かった」と思う。仕事も人間関係も、全部に疲れた結果だった。
なんとなく始めた配信活動。最初は希望だった。外に出なくてもいい。スマホひとつで始められて、好きなときに喋って、好きなゲームをして。
そんなふうに「楽して稼げる」と思っていた。他の配信者がそうしているように見えたから。
でも現実はまるで違った。
ここもまた、人間関係がシビアな世界だった。
項垂れていると――視聴者数が「1」になった。
悠人は小さく息をのんだ。
「……誰か、見てる……?」
三ヶ月目にして初めての長い滞在の“1”だった。
通りすがりがちらっと覗いていくことはたまにある。でも、誰もコメントはしないし、何の反応もなく立ち去る。
配信サイトのミッション目当ての一時視聴ですらない。
(いいね、コメント、フォローでポイント付与、みたいなやつ)
画面に表示された「1」を見つめながら、眉をひそめる。相手は動かない。名乗りもせず、反応もない。
「……ああ。たった一人かもしれないけど、今、俺を見てる奴がいるな」
メガネの度が合わず、目を細めながら画面に向かって話しかける。
「こんにちはー」
アイコンは黒。名前は「no name」。デフォルトのままだ。
「楽しいか? 無職の三十男、底辺金食い虫の配信なんか見てよ……」
口調が荒くなる。いや、悲しさがそうさせたのかもしれない。
そのとき、画面に初めてのコメントが表示された。
《noname:ジャンルを改めてみたら?》
一瞬、言葉が出なかった。
あたふたする。嬉しさと戸惑いが同時に押し寄せる。
ただ――挨拶がなかったことが、妙に気にかかった。
「あ、あいさつしてください……あと、お名前、何とお呼びしたら?」
言ってから「余計なことだったかも」と後悔する。
こういうところが自分は駄目なんだ。人間関係に躓いてばかりの理由を、自分で思い知らされる。
《noname:すんません、こんにちは》
すぐに返ってきたコメントには、ちゃんと挨拶があった。
「こ、こんにちは!」
親から叩き込まれた“挨拶の大切さ”が思わず口に出る。
《noname:こんちは》
同時に、「コンニチワワ」というチワワのキャラクタースタンプが投げられた。
もちろん、これも初めての“投げアイテム”だった。
「か、かわいい……じゃなくて、あ、ありがとうございます!」
慌てて頭を下げる。配信越しでも、気持ちは伝わるようにと願いながら。
《noname:いやいや挨拶は大事だね》
コメントのキャッチボール。それだけなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
だが――気になる言葉があった。
「ジャンルを改めるって? んー……俺のは雑談、ゲーム、独身男、って……」
配信には三つまでジャンルを設定できる。
《noname:ありきたりだと思う》
「……わ、悪かったな! ああ、そうだよ。ありきたりだよ」
特別なスキルもない、顔も良くない、自分なんかが何かできるわけ……。
《noname:一度閉じて、一番少ないジャンル選んでみたら?》
《noname:今から風呂入るから》
ぽん、とコメントが消えた。
視聴者数「1」が「0」になる。
「……初めてのコメントに、アイテムまで……」
その余韻に浸る。
ふと確認すると、自分の配信が「お気に入り」に登録されていた。
もちろん、それもはじめてだった。
「よし……調べるか」
そう呟き、配信を一度切った。