城塞から立ち上る煙もやっと消え、大坂市街も徐々に落ち着きを取り戻した頃。
堂安橋近くの
詰襟の軍服姿で眼鏡をかけた
「過ぎてみりゃなんのこっもなか戦でごあしたなぁ。そいこそ野分のごたる……」
すると
「拙者は満足にごわさ。よか戦にごわした。そいに、士道は武士のもんだけではなかっちゅうこっも分かりもした」
菱刈の視線の先で、
横合いから
「あの……刹摩の皆さんは本国に帰られっと?」
「じゃいもす。〈
「そうですか……いや、もしよければそちらん機体ばちょーと調べさせて……」
「何じゃ。まだおったんかい」
「もう挨拶は済んだじゃろ。さっさと車出さんと通行の邪魔になるっちゃ」
江藤は張州藩邸を見上げ、
「むむ……あん人とハーフの娘っ子さんにゃ、ちと文句もあったばってん、まあよかと……はよ〈
江藤が問うと、佑月は軽く咳払いし、藩邸をちらりと見て言った。
「ふむ……あの方々も、これからしばらくはこの藩邸におってもらうことになるけん、うちがおった方が都合がええじゃろ……張州本国への諸々は、志道らに任せようかのう……」
「ええ、そうするべきであります」
志道は訳知り顔で頷いた。
「ほいなら。さようならじゃ」
肝付は軽く軍帽に手を当て、あっさりと踵を返して車に向かった。
菱刈は規律正しく敬礼し、石切衆のもとへ歩み寄った。
江藤もサッと礼をして、
「ほいじゃあの。あ、〈依姫〉のこっ、くれぐれも他藩には言わんちょってくれんね……」
三人がそれぞれ去って行った後、志道は佑月に言った。
「……呉越同舟も、たまにはいいものでありますな」
佑月は刹摩人と差賀人の背中を見つめながら、明るい声で言った。
「ふん……しばらくは御免じゃな」
―――― ◇ ――――
その張州藩邸の中にある一つの和室で、三人の女性が賑やかに荷物を紐解いていた。
華凛は段ボール箱を畳に降ろし、
「よっと。とりあえず言われたもの持ってきたけど、これで全部かな……」
鈴姫はぴょんと飛び跳ねて大きな箱の中を覗いた。衣類や枕などの上に、デスクトップパソコンとゲーム機が収められている。
「はい! ありがとうございます華凛さん!」
「こっちも」
ななに言われ、鈴姫はいま一つの箱の中を見る。絵本が数冊と、あとは小難しい教書が詰め込まれ、その上に分厚い封筒が置かれていた。鈴姫は手を伸ばし、その封筒を開けた。中身は、母親の映っている写真の束だった。
鈴姫はにっこり笑い、
「うん! ありがとう、なな!」
華凛は畳に座り込んで足を投げ出し、感慨深げに言った。
「それにしても……鈴姫様が脱藩とはね」
「私は、二回目」
ななが言った。
「あははっ……脱藩ていうか、ちょっとあそこを離れた方がいいかなって思ったんです……でも、いつかは
「失礼してよろしいでしょうか」
障子の向こうから
「あ、はい! どうぞ!」
鈴姫が応えると、障子が開き公文が入室してきた。
「公文さん……どうだった?」
華凛が訊ねると、公文は正座しながら、
「まあ予想通りと言った所です。
鈴姫はただ黙って俯いた。
公文はスマホを見ながら、
「大名持はその身分ゆえ牢には入れられていませんが、罪は全て自白しているそうです。彼が今後どうなるかは、幕府の出方次第ですね……」
「鈴姫様……大丈夫?」
華凛が声を掛けると、
「大丈夫です……あんなことをしたんだから、どんな罪だって受け入れるべきです……それより、私が本当に残念なのは……」
鈴姫は目をぎゅっと閉じ、心の底から痛ましそうに言った。
「……あの通訳の人……
華凛は人知れず胸騒ぎを覚えていた。その安禄肖高という人は、前頭骨陥没による即死だったらしい。それほどの衝撃だったのに、大名持の方は無傷だったというのはどういう訳だろう。もし安禄が死んだのが、落下の衝撃のせいではなかったとするならば――
「そろそろ、来る時間」
ななが不似合いに明るい声で言った。
公文も顔を綻ばせ、
「ああ、今日やっと歩けるようになったんでしたね。では鈴姫様。大部屋に向かいましょうか」
「えっと……はい」
鈴姫は憂鬱そうに頷いた。
「え……もしかして、会いたくないの?」
華凛が驚いて聞くと、
「……私のこと……本当に嫌ってないのかなって……」
「ないない。それだけは天地がひっくり返っても有り得ない」
華凛は顔の前で手を振りながら、真顔でそう言った。
しかし鈴姫の顔は晴れない。
「だってあんな酷いことしちゃったし……何て言って謝ったらいいのか……」
隣のななが、目に力を込めた。
「鈴姫様……ちょっと、耳貸して」
―――― ◇ ――――
頭に包帯を巻き、右腕を吊った壮年の男が、張州藩邸の廊下を歩いている。
やがて大部屋の障子の前までたどり着き、そこで膝を揃えて正座する。緊張なのか昂揚なのか、とにかく落ち着かない気分を奥歯でかみ殺し、蓮太郎は視線を下げつつ襖を両手で開けた。
十二単の鮮やかな端が、ちらりと視界の上部に映る。なな、華凛、公文が壁際に座っている様子が、気配で分かる。蓮太郎はすぐさま廊下に手を付いた。が、
「れ――蓮太郎っ‼」
初めて鈴姫に下の名を呼ばれ、というか叫ばれ、動きを止めた。
「えっと……一つ‼ うちと話する時は、ちゃんと近くまで来て、ちゃんとうちの顔見て話すこと‼ これが守れんのやったら、うちの為に何かすることは許しません‼」
蓮太郎は絶望的な表情になった。
「しゅ、主上、畏れながら……」
「二つ‼」
鈴姫は有無を言わせぬ勢いでさらに言った。
「うちのことは、ちゃんと名前で呼ぶこと‼ これが守れんのやったら以下同文‼」
蓮太郎の顎が、がくんと下がった。
ななは顔を伏せて笑いを漏らし、華凛と公文はにやにや笑っていた。
ただ鈴姫だけが不安そうに、
「あの、えっと……ほづ――蓮太郎? 嫌やったら、無理せんでええから、あの……」
蓮太郎は覚悟を決めた。ぎこちない動きで立ち上がり、いそいそと部屋の中央に向かい、正座して背筋を伸ばした。目を泳がせ、ちらちらと鈴姫を盗み見ながら、
「…………承知、仕りまして、ございます…………しゅ、すゅずひめさま……」
「ぷっ……あははっ!」
鈴姫は笑った。屋敷全体が明るくなるような笑顔で。
「……さて、しゅ……鈴姫様……」
鈴姫の笑いが収まった後、蓮太郎は苦々しい顔で言った。
「御志に……お変わりはございませぬか」
鈴姫は笑いを押し込め、真剣な顔で頷いた。
蓮太郎はさらに、
「誰からも望まれずとも……救いたいと願う者達からすらも反対されてなお……そのために一意専心、貫き通す覚悟はおありでございますか」
鈴姫は笑った。国中が明るくなるような笑顔で。
「うんっ‼ だって、いいお手本がおるもん‼ 目の前に‼」
雲の切れ目から陽射しが差し込み、大坂の市街を優しく照らした。
畿内においては実に十五日ぶりの、晴れ間であった。