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第3話 これから、お前には母親はいない​


「よかった…! お姉ちゃんの怨念もようやく晴れたわ!」雲音はそう叫ぶと、すぐさま佳夢を力任せに蹴り飛ばした。

「人殺しめ!」


雲音は佳夢の頭を押さえつけ、墓石に何度も叩きつけた。すぐに額から鮮血が流れ落ちる。


理はそれを冷ややかに見ていた。


「お姉ちゃんは子どもを宿っていたのに! 二つの命を奪っておいて、貴様は地獄へ堕ちろ! バラバラにしてやる!…うわっ!? 噛みやがった!」


佳夢は離そうとせずに食い下がる。雲音は悲鳴のように助けを求めた。

「この女はいかれてる! 社長、助けてください社長!」


その叫び声は、理に江藤雨澄を思い出させた。

あの夜、佳夢が薬を盛ったときも、きっと雨澄はこれほど狂ったように叫んでいたのだろう。


理は雲音の顎を掴むと、もう一方の手で彼女の髪を強く掴み、ぐいと後ろへ引き剥がした。


佳夢の額から流れた血が滴る。彼女は口元を真っ赤に染め、声を枯らして言った。


「江藤雲音…あの女にまで、憐れみをかけるんですか?」

「あれは雨澄の妹だ」

「私はあなたの妻です!」

「妻だと? 笑止千万な」古川理は優雅子に手袋の血糊を拭いながら、冷たく言い放った。「佳夢、お前は思っていた以上に悪質だな」


佳夢は瞼を閉じると、涙が零れ落ちた。

「実は…そうね、理。貴方は人を間違えたの。幼い頃、燃え盛る火災の中から貴方を助け出したのは…この私よ。江藤雨澄じゃない」


彼は嘲るように鼻で笑った。

「そんなこと、俺が信じるとでも?」


佳夢は言い続けた。

「私は貴方を背負って逃げ出し、湖の岸辺に置いて、助けを呼びに行った。でも、私が戻ると、貴方はもういなかった…。後からわかったの、通りかかった雨澄が貴方を江藤家へ連れて行って手当てしたんだって」


「雨澄は死んだ。今さら彼女の手柄まで奪おうというのか?」


「ただ…本当のことを言いたかっただけ。心に秘めたくなかったから」

佳夢の声は弱々しくなった。「古川理、今すぐ私を殺してちょうだい!」


こんん苦痛を受けるくらいなら、いっそ死んだほうがましだ。

今の彼女に残っているものは何もない。ただ、深く傷つきながらも彼を愛し続けるこの心だけが――。


「俺はお前を…じわじわと苦しめてやる」理は手錠の一端を弄ぶように揺らした。

「この世のありとあらゆる苦しみを味わわせてやる」


佳夢は彼の瞳を見つめた。

あの火の中、彼が嗄れながらも優しく言ったことを覚えていた――『お前が俺を救った。俺はお前を妻にする』と。


その後、彼女は自分の血で再び彼を救い、再び彼の妻となった。

二度の命の恩が、この結末を招くとは。


「来世があるなら…古川理…」佳夢は最後の意識を振り絞りながら呟いた。「貴方には…もう…二度と会いたくない…」

暗闇が襲いかかり、彼女は完全に気を失った。

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古川別邸・応接間​


古川理が部屋に入ると、片隅に縮こまる小さな影が目に入った。


彼はネクタイを弄りながら、冷たい眼差しを向けて言った。

「来い」


古川啓人は古いたぬいぐるみを抱きしめ、おずおずと彼の前に進み出ると、一枚の絵を差し出した。

その絵には、手をつなぐ三人家族が描かれ、下に「ママはパパのことが大好き」と書かれていた。

理は嗤った。見せしめのように、その絵を両手で真っ二つに引き裂くと、告げた。


「これから、お前には母親はいない」

啓人の透き通った瞳が、瞬時に見開かれた。恐怖が満ちあふれている。

自閉症の彼は言葉を発することが少なかった。

佳夢の介護で一度は言葉を取り戻しかけていたのに、父親の言葉でそのすべてを再び破壊した。


「どうして俺に、お前みたいな役立たずの息子が生まれたんだ…」理は脚を組みながら、嘲りを含んで言った。

「…もしかすると、佳夢がどこかの男の落とし子かもしれん、そうか?」

目を細めると、理の目に一瞬、怒気が光った。

啓人は二歩後ずさった。まだ四歳の彼の世界は、母親だけ。父親の凶暴さに怖気づいていた。

「ふっ…」

その時、音を立てて啓人が跪いた。

自閉症と診断され、ずっと沈黙だった少年は、ようやく取り戻しかけていた言葉を、再び紡ぎ出した。


「…ママ…」



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