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第36話 十年ぶりの母


階段を降りた時、佳夢は懐かしい顔を見た。

二人の視線が交わる。


古川理の深い瞳に、一瞬の驚きが走った。


「お母さん……私の母だ……」佳夢が呟いた。

「見て、母さんだ。理、私、おかしくなったのかな?」


離婚後、宗田家を出たきり音沙汰のなかった母親が、どうしてこの遺体安置所にいるんだろう?


理が彼女の視線の先を見やった。


確かに、入り口にいる上品な婦人が立っていた。身だしなみを整え、こちらの様子をうかがうように、人に見つかるのを恐れるように身を引いている。


理と佳夢の視線に気づくと、その婦人は驚いて振り返り、足早に去ろうとした。


「待って!」佳夢が叫び声をあげ、追いかけた。


追ってくる彼女を見て、婦人の足が速くなる。やがて走り出した。


見失いそうになったその時、背後から佳夢の声が響いた。

「母さん!宗田宏明が死んだんだよ。彼を見に来たんだよね?じゃあ私は?私のことはもういらないの?」


婦人の足が止まった。


「私を見て、わざわざ来て挨拶しようともしないの?お腹の中で育てた娘だよ……こんなに長い間、私のこと思わなかったの?私は、ずっとずっと母さんのこと思ってたのに……」


「母さん、十年も会ってなかった。もう二度と現れないと思ってた」


婦人はゆっくりと振り返った。「佳夢……」


「母さん!」佳夢が駆け寄った。


本当に母さんだ。一日中思い続けてきた母さんだ。


田中敏子は、目の前で大人になった娘を見つめ、涙声になった。「佳夢……長い間、辛い思いをさせてしまったね」


彼女がまだ宗田奥様だった頃、佳夢はお嬢様として何不自由ない生活を送っていた。


敏子は娘の頭を優しく撫でながら、涙をこぼした。「私にも事情があって……」


「どうして私を捨てたの?」佳夢が問い詰めた。

「離婚する時、どうして私を連れて行かなかったの?……ひどすぎるよ、母さん。もし連れて行ってくれてたら、今みたいな人生にはならなかったのに……」


敏子はうつむいて小さな声で言った。「ごめんなさい……」


佳夢は彼女の手を握りしめた。

「父はいなくなった。私には母さんだけなんだ。母さん、一度私を捨てたんだから、今日はもう捨てないで。連れてって、ここから離れよう。お願い、もう生きて行けそうにない……」


しかし敏子は首を振った。「連れて行くことはできないの」


「また同じことを繰り返すつもり?」


「ごめんなさい……」


敏子は決然と去って行った。


佳夢の胸は引き裂かれるように痛んだ。ぽっかりと空いた穴のようで、何を詰めても埋まらない。


彼女はただ、敏子が廊下の向こうに消えて行くのを眺めるしかなかった。

追いつけず、引き留めることもできずに。


「母さん、私を連れてって――」


後ろから理が彼女をぐいと引き戻した。


「行きたいだと?ふん……生きてる限りおれのもの、死んでもおれのものだ!」


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