階段を降りた時、佳夢は懐かしい顔を見た。
二人の視線が交わる。
古川理の深い瞳に、一瞬の驚きが走った。
「お母さん……私の母だ……」佳夢が呟いた。
「見て、母さんだ。理、私、おかしくなったのかな?」
離婚後、宗田家を出たきり音沙汰のなかった母親が、どうしてこの遺体安置所にいるんだろう?
理が彼女の視線の先を見やった。
確かに、入り口にいる上品な婦人が立っていた。身だしなみを整え、こちらの様子をうかがうように、人に見つかるのを恐れるように身を引いている。
理と佳夢の視線に気づくと、その婦人は驚いて振り返り、足早に去ろうとした。
「待って!」佳夢が叫び声をあげ、追いかけた。
追ってくる彼女を見て、婦人の足が速くなる。やがて走り出した。
見失いそうになったその時、背後から佳夢の声が響いた。
「母さん!宗田宏明が死んだんだよ。彼を見に来たんだよね?じゃあ私は?私のことはもういらないの?」
婦人の足が止まった。
「私を見て、わざわざ来て挨拶しようともしないの?お腹の中で育てた娘だよ……こんなに長い間、私のこと思わなかったの?私は、ずっとずっと母さんのこと思ってたのに……」
「母さん、十年も会ってなかった。もう二度と現れないと思ってた」
婦人はゆっくりと振り返った。「佳夢……」
「母さん!」佳夢が駆け寄った。
本当に母さんだ。一日中思い続けてきた母さんだ。
田中敏子は、目の前で大人になった娘を見つめ、涙声になった。「佳夢……長い間、辛い思いをさせてしまったね」
彼女がまだ宗田奥様だった頃、佳夢はお嬢様として何不自由ない生活を送っていた。
敏子は娘の頭を優しく撫でながら、涙をこぼした。「私にも事情があって……」
「どうして私を捨てたの?」佳夢が問い詰めた。
「離婚する時、どうして私を連れて行かなかったの?……ひどすぎるよ、母さん。もし連れて行ってくれてたら、今みたいな人生にはならなかったのに……」
敏子はうつむいて小さな声で言った。「ごめんなさい……」
佳夢は彼女の手を握りしめた。
「父はいなくなった。私には母さんだけなんだ。母さん、一度私を捨てたんだから、今日はもう捨てないで。連れてって、ここから離れよう。お願い、もう生きて行けそうにない……」
しかし敏子は首を振った。「連れて行くことはできないの」
「また同じことを繰り返すつもり?」
「ごめんなさい……」
敏子は決然と去って行った。
佳夢の胸は引き裂かれるように痛んだ。ぽっかりと空いた穴のようで、何を詰めても埋まらない。
彼女はただ、敏子が廊下の向こうに消えて行くのを眺めるしかなかった。
追いつけず、引き留めることもできずに。
「母さん、私を連れてって――」
後ろから理が彼女をぐいと引き戻した。
「行きたいだと?ふん……生きてる限りおれのもの、死んでもおれのものだ!」