浮気する男の裏には、必ず図々しい第三者がいるものなのだろうか。
松田清子がこの日受け取った宅配便の中には、妊娠検査薬が入っていた。
メモには「私はあなたの夫の子を妊娠しました」と書かれている。
差出人は渡辺悦子。松田清子の夫が不倫している相手だ。
松田清子は今、病院の待合室にいる。
「あ、そこのお嬢さん!血が出てますよ!」
誰かの声に、彼女は自分の足元を見た。いつの間にか床に血溜まりができている。
足を触った手は真っ赤に染まり、胸が締め付けられた。
指の隙間から、見慣れた人影が見えた。背が高くハンサムなその男が、急ぎ足でこちらへ駆け寄ってくる。
顔までは見えないが、清子は本能的にわかった。間違いなく夫の田中健一だ。
健一は悦子を守るように寄り添い、悦子は両手でハムスターを抱えている。
エレベーターの方から押し寄せた人々に、清子は押し飛ばされた。
「どいて!渡辺悦子さんのハムスターがケガしてるんだ!」
清子の異変に気づいた看護師が彼女を支えた。
「救急室へご案内します」
清子は何か言おうとしたが、腹痛で声すら出せない。
看護師が苛立った口調で呟く。
「何よ、渡辺悦子がタレントだからって特別扱い?」
別の看護師がたしなめた。
「田中社長に聞かれたら大変よ。渡辺さんは社長の一番のお気に入りなんだから。クビになるわよ」
「この病院の最上階はペット専門のVIP診療室だもの。渡辺悦子さんのハムスターも待遇だね」
「当然でしょ。渡辺悦子は田中社長の忘れない初恋なんだから。そのハムスターだって、社長に大切にされてるのよ」
「羨ましい~!」
清子の顔から一気に血の気が引いた。
産婦人科。
検査を終えた医師が清子に告げた。
「ご妊娠されています。ご存じでしたか?」
清子は呆然とした。最近は仕事ばかりで、生理不順が続いていたから気にも留めていなかった。
あの時のことかもしれない。健一が酔って、久しぶりに彼女に求めてきたが、ピークのときに渡辺悦子の名前を叫んだ。
その時は避妊せず、後も忙しさに紛れて避妊ピルも買いに行かなかった。
たった一度で、なぜ妊娠してしまったのだろう?
「もっと早く来ていれば、まだ助かったかもしれません。残念ですが、お子さんはもう……」
清子は呆然と事実を受け入れられずにいた。
「先生……」
言葉を遮るように、医者が室外へ呼びかけた。
「ご家族は来ていますか?サインをお願いします。流産が完全ではなかったため、掻爬手術が必要です」
「掻爬手術」という言葉に、全身が震え出した。既婚女性である清子がその意味を知らないはずはない。
付き添いの看護師が周りを見回し、清子に尋ねた。
「ご家族は来てないのですか?」
清子は最上階にいる健一を思い浮かべた。
「先生、電話をかけてもいいですか?」
「急いでください」
清子は苦しそうに携帯を取り出し、一番上の番号にかけた。
呼び出し音の度に胸が締め付けられた。健一が電話に出るかどうかもわからなかった。
48秒後、ようやく応答があったが、冷たい声だった。
「松田清子、一体何の用だ?」
「健一、私……」
言葉を発する前に、向こうから渡辺悦子の興奮した声が聞こえた。
「健一!聞いた?先生が言ってたわ、私のハムスターが妊娠したんだって!まさかこの子が妊娠するなんて!」
「本当か?」
「やった!」
直後、田中健一は電話を切った。
「け……」
清子が再び勇気を振り絞って再び電話しても、応答はなかった。
冷たい病床に横たわり、瞼から涙がこぼれた。
「自分でサインできますか?」
医者はこうしたケースを多く見てきたのか、深く詮索せずに彼女に署名をさせた。
掻爬手術の痛みは、命の半分を奪われるようだった。
心が千切れるほどだった。夫にとって、自分という生きている人間が動物以下だというのか?
病床から降りると、医師は「しっかり休んでください。流産後の養生を怠ると、通常の産褥期以上に後遺症が残りやすい」と告げた。
彼女はかすかに「はい」と返事をし、病院を離れた。
エレベーターに乗ろうとした時、携帯が鳴った。息子の田中圭介からの着信だ。
清子は驚きと共に喜びを感じた。息子が自ら電話をくれるなんて、自分の体調を心配してくれたのだろう。喜びながら電話を受けた。
「パパ!本当?悦子のハムスターが妊娠したの?僕、妊娠したハムスター見るのが初めて。すごく可愛い!」
渡辺悦子の甘ったるい声が続いた。
「出産が近づいたら見に来る?私のハムスター、君にあげてもいいわよ」
「ありがとう、悦子!名前で呼ぶのやめていい?ママになってよ」
「そんなこと言っちゃダメ。君のママが聞いたら悲しむからね」
「じゃあこっそり呼ぼう……」
清子は即座に電話を切った。
この電話は明らかに圭介のミスだった。
しかし、偶然にもクズ夫と息子の本心を見ぬき、清子は完全に失望した。
田中邸に着くと、使用人の佐藤が彼女の衰弱した様子に気づき尋ねた。
「奥様、お体の具合でも?」
「大丈夫。」
清子は自室に戻ると、数少ない私物をまとめ始めた。まだ耐えられると思っていたが、今はもう耐えられない。
たとえ路頭に死んでも、この婚姻を継続するつもりはない。
離婚届はとっくに用意していたが、ずっと手を付けずにいた。
今この瞬間、彼女はこの婚姻を維持する意思を完全に失い、離婚届にサインした。