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第2話

彼女は離婚届を寝室の化粧台に置いた。


荷物をまとめていると、松田清子は手にしたクレジットカードに目を留めた。


田中健一のクレジットカードの家族カードだ。彼女が何に使おうと、彼には即座に通知される仕組みになっている。


清子はこのカードで自分のために買い物をしたことはなかった。いつも息子と健一のものばかり。


結婚当時、二人は籍を入れただけで式は挙げず、世間は彼女の存在さえ知らなかった。


田中家は派手なことを好まず、清子も身だしなみに気を遣うことはしなかった。


今、このカードを彼に返す。離婚時の財産分与は弁護士に依頼した。


彼女は馬鹿じゃない。財産分与を放棄し、出て行くつもりはない。貰うべきものは、一分も譲れない。


机の上にある息子の写真を見つめ、清子はそれを手に取った。


先日の誕生日、圭介が新しいお母さんが欲しいと願い事を言ったのを思い出す。彼女は写真を元に戻した。


あの子がそう望むなら、願いを叶えてあげよう。


清子が外に出た時、使用人の姿はなかった。


何事もなく田中邸を離れた。もうこの場所は……彼女とは何の関係もない。





圭介と健一が帰宅した時、清子の姿はなかった。


今まで二人が外から帰ってくると、清子は必ずエプロンを付けて真っ先に迎えに来た。圭介のランドセルを持ったり、健一のコートを預かったりしていたのに。


しかし今日は誰もいない。


圭介は文句を言いたかった。今日ママが一日中スタジオに来なかったこと。ママのせいで、悦子が怪我をした。擦り傷程度だというのに、圭介はすごく悲しんだ。


佐藤さんも慌てて出てきた。奥様が出迎えないなんて、過去8年間で一度もなかったことだ。


「奥様は?」


健一が靴を脱ぎながら冷たく問い詰めた。彼の険しい表情を見て、使用人たちは緊張した面持ちで固まる。


「お戻りしました。ご自分の部屋にいらっしゃるかと」


健一は生返事をし、圭介のランドセルを取った。


圭介がぶつくさ言う。


「家にいるなら、なんで僕のランドセル取りに来ないんだよ」


佐藤さんは返答に困り、ひたすら寝室の方を気にしながら奥様が出てくるのを待っていた。


か、しかし足跡がない。


健一は二階に上がり、寝室のドアを開けた。女の姿はなく、浴室にもいなかった。


何かが足りないような、でも普段と変わらないような……


彼はこの部屋をほとんど入れず。普段、清子が一人で使っていたため、化粧台の書類には気づかなかった。誰もいないと確認すると、ドアを閉めた。


「出かけた?」


佐藤さんは慌てた。


「そんな話は聞いておりません!」


圭介が怒った。


「きっとママ、悦子を怪我させたことを認めたくないから、逃げたんだよ!」


まだ子供だかと言って、物事を見る目は間違っているとは限らない。


健一も同じことを考えていた。理由はわからないが、怒りがこみ上げてきた。


清子に電話をかけようとすると、父親から着信が入った。


「今日病院には行ったのか?医者から何か言われた?」


健一は一瞬、何の話か分からなかった。


「大したことないかもしれないが、大事になったらまずい。清子はここ数年、お前たちの世話があるからと病気になるのを怖がっていた。もっと彼女を労われ」


ようやく健一は思い出した。父親が清子を病院に連れて行くように言っていたことを。


彼の認識では、清子は元気で病気した事がない。腹痛も彼の関心を引くための嘘だと思って。全く気にかけていなかったが、父親の前では適当に承諾しただけ。


「ああ、大丈夫だよ父さん。心配するな」


「なら良いが、清子はお前たち親子のために尽くしてきた。良い子だ。これだけ先に言っておく、彼女を悲しませる事をするなよ」


直接言葉には出さないが、互いにその中の意味を理解している。


電話を切って、健一は屋敷内を一通り探したが、清子の姿はなかった。


もう探すのをやめた。病院に付き添わなかったことで清子が拗ねているに違いない。


これまで彼女は大人しく、滅多に感情的にならなかった。今回の件で注意を引くつもり?

残念だが、彼にとってどうでもいいことだ。


圭介はママは夜になってもも帰らないかもしれないと聞いて大喜びした。


「佐藤さん、夜は唐揚げ、ハンバーガーとフライドポテト!あと、コーラも!それからアイスクリームもね!」


佐藤さんは躊躇した。


「坊っちゃん、奥様がお体に良くないと……」


「なんでダメなの?他の子はみんな食べられるのに、どうして僕だけダメなの?食べるもん!」


健一が命令した。


「圭介の言う通りにしろ」


佐藤さんは溜息をつき、「承知しました」と答えた。


圭介はママが嫌いなわけではない。ただ、いつもあれはダメこれはダメと制限されるのが不満だった。他の子が自由に食べられるのに、なぜ自分だけがだめなの?


唯一、悦子と一緒の時だけは許された。


前回食べてからもう一ヶ月近く経っている。


でも、その時高熱を出して何日も寝込んだことは、すっかり忘れていた。


圭介は大人の事情を理解できないが、ママがパパのことで家を出たらしいと聞いて、心底からこの間は帰って欲しくないと願った。


禁止されていた食べ物を食べられるだけでなく、悦子と遊園地に行けるからだ。


明後日は日曜日。悦子が一緒に行くって約束してくれたんだ。 ママが家にいたら、絶対に悦子と近づくなって言うに決まっている。

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