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第3話

清子は母の家に引っ越した。母は数年前に他界し、残されたのはこの家だけだった。


母を思い出すたび、彼女はここへ来る。今では、唯一の居場所になっている。


毎日掃除を頼んでいたので、とても清潔に見える。


清子は寝室で荷物を置いた。体が弱すぎて、ただ横になって休みたかった。


ついでにプロデューサーに辞めると電話しようと思った矢先、 携帯が鳴った。田中正夫、健一の父親からだ。


一瞬躊躇したが、電話に出た。


「お父様、ご用ですか?」


清子は慎重に言葉を選んだ。彼女が再び田中健一と会えたのは、田中正夫の存在があったのから。


正夫は尿毒症で腎臓移植が必要だった。長い間適合する腎臓が見つからず、 調べた結果、清子が適合すると判明した。


当初、清子は拒んだ。自分の臓器を提供するほど優しくなかった。


だが健一が自ら訪ねてきた時、彼女はすぐに気づいた。幼い頃、誘拐犯から救ってくれたのは健一だった事を。


恩を返すため、彼女は承諾した。


再会した健一は圧倒的に魅力的な男に成長していた。幼い頃の命救いの恩、そして日々の付き合いが、健一に惚れ込んでしまった。


「さっき健一に電話したら、お前が検査に行ったって聞いた。無事で良かったよ」


清子の背筋が凍り、指先まで冷たくなっていく。


健一は覚えていたのか。それなのに、なぜ電話一つもくれなかったの?


「どうかしたのか?」


彼女の異変を察した正夫が問う。


「大丈夫です、お父様。私元気なので、心配なさらないでください」


移植後も正夫は拒絶反応の薬を服用しなければならない。病気の再発しないよう、誰も彼を怒らせようとはしなかった。


清子が嫁いでから、正夫は何かと彼女の味方になってくれた。 もう失った子供のことで彼を苦しめたくなかった。


「そうか、そう言えば、もう随分会ってないようだ。時間を見つけたら、ここへ遊びに来なさい」


「はい」


健一が望めば、離婚にサインし、即座に離婚することができる。でも、田中正夫への説明は、健一がするべきだと考えた。


清子は久しぶりに深く眠れた。目覚めた時、体が軽くかった。だが、平らなお腹を撫でながら、激しい痛みを感じた。


昨夜、プロデューサーは電話に出ず、メールにも返信しなかった。流産後の体調不良もあり、そのまま眠りに落ちていた。


携帯を確認すると、まだ返信は来ていない。スタジオに行くわけないから、起き上がって何か食べようとした時、監督からの電話がきた。


「松田!どうなってるんだ?昨日一日休んだだけだろう?こんな時間にまだ来てないなんて!昨日お前のせいで渡辺悦子まで事故に遭ったんだぞ!辞める気か?」


彼女は単なる代役。現場で皆に見下ろしていた。監督はまだマシな方で、怒ると酷い言葉で罵倒されることもあった。


「もう辞めさせていただきました」


「辞める?半月以上も撮影を続けて、半分以上終わってる段階で辞めると?クビにしないだけありがたいと思え!すぐに来い!」


「行きません」


清子は電話を切ろうとしたが、監督の声が追い打ちをかけた。


「松田、田中社長を呼び出すつもりか?」


無視しようとした清子だったが、その脅しで手を止まった。


「お好きにどうぞ!」


そして、彼女は電話を切った。


昨夜、清子はネットで食べ物を大量に注文した。別荘は市内とそこまで離れていないため、配達もすぐ届いた。


お粥を作っている最中、健一から電話が来た。離婚の話だろうと思い、清子は出た。


「誰が辞めていいと言った?」


またもや詰問口調。これまで彼が最も多くかけてきた言葉だった。


「もうやりたくない」


「お前に選ぶ資格があると思うか?」


その一言が石のように胸を押し殺し、息が詰まりそうになった。


正夫は渡辺悦子が好きで、多額の報酬を与えた。当時、渡辺悦子はキャリアを優先し、健一との結婚を望んでいなかった。


悦子が去った後、失意の健一を見た正夫は、清子に健一との結婚を言い出した。


清子はもちろん承諾したが、待っていたのは健一の誤解だった。


「金を取った上に、田中家の奥さんまでなりたいとは、よくもそんないやらしい真似を、結婚なんか決して認めない」と彼はそう言った。


清子は無理強いせず、正夫に縁がないと伝えようとしたところが、なぜかあんな事ができ、清子は妊娠した。正夫の強硬な態度で、結婚届を提出した。


片腎の身体での妊娠は危険を伴い、検査では「子宮内膜が薄く、今回中絶すれば、今後も流産の可能性が高い」と告げられた。


結局、清子は流産することを諦め、二人は契約を交わした。二年後に無事出産したら、

清子は子育てを終えたら去ると。


だが二年後、正夫の病が再発。さらに悦子のマネージャーが、清子が悦子に体型が似ていると気づき、専属代役として健一に提案した。


加えに、祖母の会社が経営危機に陥り、重圧の末、二人は再び契約を結んだ。


しかし、もう離婚するに違いない。何を気にすることがあるの?


「昔は資格がなかったかもしれません。でも決心した今、誰にも止められません」


電話を切り、健一が再びかけてきても彼女は出なかった。


朝食を済ませ、清子はベッドに横たわった。体調的にスマホを見るのは良くないから、代わりにオーディオブックを聴いた。


通知音が鳴り、携帯を見ると業界の大物監督からのメッセージだった。


「依頼した新作のシナリオ、進捗はどうだ?」


清子は忘れていなかった。やる事を終えた後、健一が帰ってこない夜、眠れぬ時間を書き続けていた。


「あと三分の一で完成です」


「今すぐ見せてくれ!」


清子はスマホから原稿データを送った。


数時間後、監督から驚きマークを連続した返信が届いた。


「監督、どうですか?もしダメったら、新しいシナリオを書きます」


「いや!これだ!君の過去作を見た時から、この感覚を書けると思ってた!プロデューサーに見せるのが待ちきれない!君は早く仕上がり、こっちは役者を探し、早く撮影準備に入るよう頑張る」


興奮した声に、清子の口元がほころんだ。この八年間で唯一の喜びは仕事だった。


彼女は「ナナ」というペンネームで脚本家となり、想いを物語に綴った。その脚本がドラマや映画化されるとは思ってもいなかった。


二年に一本のペースで、着実にキャリアを築いて。婚姻は失敗したが、仕事に専念する時がきた。




一方、撮影現場では雨のシーンが予定されていた。

渡辺悦子は休養で体調を回復させていたが、生理中だったため自分で演じられない。


清子が最も体型が似ていて、スケジュールの邪魔にならないため、清子に来てもらうなければならない。


田中健一は既に清子の居場所を調査させていた。報告を受けると、彼は自ら彼女を連れてくることにした。

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