田中健一は松田清子の家に着くなり、靴を脱ぎもせずに二階へ上がった。
後ろにいた人たちは健一が寝室へ入っていくのを見て、ついて行くのをやめた。
ドン!
激しくドアを開ける音で、うたた寝していた清子ははっと目を覚ました。
この数年、自宅ではろくに眠れていなかった彼女は、流産の影響で体が弱り切っていたため、オーディオブックを聞きながら寝落ちしたのだった。
まだ血の気の引いた青白い顔のまま、清子は健一に無理やり引きずり起こされた。
「俺が来るって分かって、わざわざ化粧なんかして。それで俺がお前を憐れむと思ってるのか?」
胸が締めつけられるように痛んだ。化粧なんて、していないのは一目瞭然だろうに?
「松田清子、わがままにも程がある。今すぐスタジオに来い」
清子の中の怒りは頂点に達し、どこから湧いてきた力なのか、健一の手を振りほどいた。
「行かない。辞めたって言ったでしょ」
これまで清子は従順でいることに慣れ、健一に早く好きになってもらおうと、いつも言うことを聞く女を演じてきた。
でも離婚すると決めた今、何もかも彼の言いなりになるのはもう嫌だ。
「お前と喧嘩してる暇はない。自分でついて来い」
健一の冷たく無情な横顔がそこにあった。清子は頑として動かない。
時間がなかったらしく、健一は清子の耳元に顔を寄せて囁いた。
「お前の爺さんの会社のことを考えろ」
清子は健一を睨みつけた。
撮影スタジオ。
準備は整い、清子は化粧室へ送り込まれた。
現代劇の撮影で、着替えてカメラに背を向けるため、メイクは不要。髪を整えるだけですぐに終わった。
清子が外に出ようとした時、隣のメイクルームから声が聞こえてきた。
「田中さん、渡辺悦子さんには本当に優しいよね。生理で冷たい水に触れられないって言ったら、すぐに代役を連れてきたんだって」
「そうそう!悦子さんが腹痛で辛いって聞くと、スープを作って届けたんだって。今は送迎車の中で休んでるらしいよ」
「優しすぎる!田中さん、カイロや湯たんぽも用意したんだって。冷え対策が半端ないよね」
清子は無意識に拳を握りしめ、爪が傷痕になったのも気づかなかった。
前に見たあの妊娠検査薬を思い出す。おそらく悦子の妊娠は嘘で、健一から自分を引き離すための策略だったのだろう。
清子は失くした我が子のことを思い返す。
外に出た時、ちょうど目の前に悦子の送迎車が停まっていた。
ドアは開いたままで、悦子は湯気の立つマグカップを手に、中身はスープだろう。時折健一を見上げては、甘えたような笑みを浮かべていた。
近くでスタッフが感嘆の声を漏らす。
「本当にお似合いのカップルだね」
「私も、田中さんが悦子さんを愛するように愛してくれる人がいたら、もう死んでも悔いはないよ」
清子が二人の前を通り過ぎても、彼らは全く気づかなかった。
「生理が来ただけなのに、そんなに心配しなくてもいいのに」
悦子の顔が赤くなった。
「生理期は女が一番弱ってる時。ちゃんと守らないと」
清子の体がこわばった。彼女は元々生理痛などなかった。だが出産後、なぜか痛み始め。
ある夜、痛みで倒れそうになりながら台所で黒糖を探していた時、たまたま居合わせた健一に助けを求めた。
「健一、お腹が痛いの。黒糖生姜湯を作ってくれないか?」
健一は冷たい目で見た。
「俺の前で芝居をするな。つまらない」
結局清子は気を失い、使用人に介抱された。使用人が健一に報告しても、彼は再び同じ言葉で返した。
これが愛されてる人とそうでない人の違いなの?
制作スタッフが現れ、長く待たせた監督が清子を急かす。撮影が遅れてはいけないと、彼女を外へ引っ張っていった。
これは激しい雨の中で行われるシーン。主人公が元カレの家族にプライドを傷つけられ、更に追い詰められて雨の中に飛び込む場面だ。
現場は人工雨、リアルさを追求するため大雨にした。
雨が当たると、その冷たさに清子は思わず震えた。
「カット!」
監督が叫んだ。
「松田清子、それじゃダメだ!ベテランの代役なら分かってるだろう!やり直せ!」
一度経験したおかげで冷たさに覚悟ができ、もう一度の撮影では清子は震えなかった。
彼女は大雨の中を歩き、頭のてっぺんから足の先まで冷え切るのを感じた。
「カット!」
監督が再び声を出した。
清子が振り返った。
「どうした松田!このシーンの演じ方、説明するまでもないだろう?お前の演技は全然感情がこもってない!」
清子の表情が固まり、反論する間もなく、監督はもう一度やり直しを命じた。
前半は順調だった。要求されるタイミングで必要な反応を示し、清子は完璧にこなしていた。そこへ突然、男優が清子の前に駆け寄り、決め台詞を言い彼女を強く抱きしめ、男の手が突然清子の体をわいせつに撫で回そうとした。
その瞬間、清子は考える間もなく彼を押しのけた。
監督は怒りで立ち上がった。
「松田清子!どういうつもりだ!今まで順調だったのに、この反応はなんだ!?」
清子が健一の方を見ると、彼はいつしか姿を消していた。おそらく悦子のもとへ行ったのだろう。
誰にも頼れないと悟り、清子は助演男優を指さし監督に訴えた。
「監督、この人が……」
言葉が終わらないうちに、監督が清子の前に詰め寄り、肩をグーで殴りつけた。
「松田清子!彼は演技の一環としてやってるんだ!お前だけが場を乱してる!分かってるのか?みんなの時間を無駄にしてるってことは、命も金も無駄にしてるんだぞ!」
この男優は業界関係者の間では、彼がセクハラの常習犯だというのは周知の事実だった。
しかしファンの前ではいつも紳士的な評判を保っている。
ここには清子を助ける者などはいない。訴えたところで逆に男の注意を引こうとしていると思われるだけ。
清子は男優を睨みつけ、もう一度撮りなおした。
再び抱きしめられた時、清子は本能的に抵抗しようとしたが、耳元であの男優が囁いた。
「監督を怒らせるなよ。彼が怒ると手を出すんだ。耐えられるものじゃないぞ」
清子は吐き気をこらえながら彼の行為に耐えた。幸い長くは続かず、彼を押しのけるタイミングが来た。
本来なかったはずのビンタが、男優の頬に落とした。
「カット」がかかるかと思いきや、監督は何も言わないまま、撮影終了後、満足げにいた。
「やっと、俺が納得できる演技を見せてくれたな」
しかし清子の意識はもう失くしそうだった。
全身がずぶ濡れで、全く力が入らない。それゆえ、助演男優が向ける危険な目つきにも全く気づかなかった。
監督に直接、代役を辞めると伝えなければ。
「監督……」
そう呼びかけると同時に、清子は倒れこみ、気を失った。その瞬間、誰かが叫んだ。
「血が…!松田清子血が出てる!」