松田清子が目を覚ましたのは病院だった。
白一色の天井が、彼女の目をひどく痛ませる。
外で聞き覚えのある声がしたかと思うと、間もなくその声の主が入ってきた。
田中健一だ。
松田清子は驚いた。彼が自分を運んできたのか?
流産のことは、もう知っているのだろうか?
「生理が来てるって、なんで言わなかった?」
「生……理?」
松田清子はとんでもない冗談を聞かされたような気分だった。
「お前の体がこんな状態だとは知らなかった。でも元々体が丈夫だから、病院で二日ほど休めば治るだろう」
松田清子がまだ何か言おうとした時、健一の電話が鳴った。誰からかはわからないが、彼の表情が一瞬で引き締まり、そのまま去っていった。
松田清子は自分を嘲笑った。
まさか彼が医者に自分の状態を詳しく聞いてくれるなんて期待しているのか?
彼は最初から自分に何の想い抱いてなかった。もう慣れるたではないの?
松田清子は起き上がろうとした。この状態で病院にいても意味はない。家に帰ってしっかり休まなければ。
病室のドアが開き、ゴージャスな服を着た女性が入ってきて、冷ややかに彼女を一瞥した。
「生理が来たくらいで病院に運ばれるなんて、本当にどうかしてるわね」
鈴木美智子、田中健一の母親。彼女は松田清子のことが好きではなかったが、松田清子が腎臓を提供して夫を救ってくれたことには感謝していた。
ただ、息子の関係で、鈴木美智子は彼女に会うといつも嫌味を言うの。松田清子が相変わらず黙っているのを見て、鈴木美智子は呆れたように言った。
「娘にちょっと用事ができたから、子供の面倒を見ておいて」
田中健一には妹がいた。彼女は早くに恋愛をして子供を産んだが、その男は田中家から何も得られないと知ると逃げた。
子供の面倒は見なければならず、妹は落ち着きがなく、松田清子が大抵子供の面倒を見てくれると知っていると知って、用事があるとすぐに子供を松田清子に預けるのだった。
松田清子はすでに田中健一と離婚することを選んだのだから、そんなことをする義務はない。
彼女が口を開く前に、外から身長188cmの白いコートを着た医者が入ってきた。ふてぶてしい笑みを浮かべ、全く年長者らしくなかった彼は、鈴木美智子を見かけると淡々と言った。
「また清子をいじめてるのか?彼女は自分を売ったのでも?何でもかんでも彼女にやらせて」
「伊藤さん」
松田清子が礼儀正しく呼びかけた。
伊藤裕一はだるい顔をして、口元はほころび非難した。
「ベッドで寝てなきゃダメだって言っただろう? 誰が起きていいと言ったんだ?」
松田清子は帰りたくなかった。それでもここから去りたかった。
鈴木美智子の表情が曇った。彼女は伊藤裕一を見た。
「これは身内のことです」
「わかってる。最初から関わるつもりはなかった。でも彼女は俺の患者だ。患者には責任を持つ。鈴木さん、彼女が今病院にいるんだ。もし何かあったら、責任取れるのか?」
鈴木美智子の顔が一瞬で青ざめた。
「生理で、雨に濡れただけじゃないんですか?」
「誰がそう言ったんだ?」
伊藤裕一の目に一瞬危険な光が走った。
鈴木美智子はこの親戚を恐れていたので、それ以上は言わなかった。
松田清子は伊藤裕一が自分のことを話しそうになるのを見て、急いで鈴木美智子に言った。
「お母さん、先に戻っていてください。こちらの用事が終わったら、後でご連絡しますから」
鈴木美智子は背を向けて去っていった。
伊藤裕一は病室を見回したが、もう一人の姿は見当たらず、口を開いた。
「俺のクソ甥はどこだ?」
松田清子は黙った。
「またお前を置いて行ったのか?」
まるで何もかも知っているように。気まずさしか感じない。
「また伊藤さんに見られちゃいましたね」
伊藤裕一はだらだらと松田清子のカルテを開いた。
「本当にひどいやつだな。流産させておいて、さらに雨の中を演じさせるなんて、死んでもらいたいのか?」
「まあ、しょうがない。血筋だからな」
伊藤裕一はカルテを置くと、彼女の前に来て診察し始めた。
「お前は休養期間中だ。冷たい水に触れちゃいけないのに。ここには特効薬もないから、帰ったらできるだけ熱い飲み物を飲んで体を温めるんだ。後に影響がないとは保証できないけど……次の産後の休養期間をがあったら、ちゃんと休めないと」
産後の養生が不適切だった場合、次の産後の休養期間で治療するしかない。
伊藤裕一はそう言い終えると、あまり良い顔色ではなかった。
「彼女に流産のことを言わせなかったのはなぜだ?」
伊藤裕一は健一のお爺さんが外で女優と産んだ子供。しかし女優は奥さんの座を得られず、息子を産んでも田中家のお爺さんは認めなかった。
数年前、田中家のお爺さんが重い病を患い、昔の息子のことを思い出したのか、伊藤裕一を家に戻して籍に入れさせようとした。
伊藤裕一はここ数年、祖母と一緒に暮らし。母親のことほとんど会ったことがなく、祖母の苗字を使っていた。
彼は田中家に戻ることを拒否したが、田中家のお爺さんは命令を下し、会ったら必ず呼びかけるようにと言った。
伊藤裕一はここ数年、自分の努力で医学部に合格し、非常な才能を持つだと聞いている。こっそり聞いた話では、会社を奪うつもりはないらしい。何年も前にすでに海外で複数の企業を創立したようで。
松田清子はうつむき、言いたくなかった。
伊藤裕一も帰る時間を邪魔したくなかったので、彼女の額をポンと軽く叩いた。
「タクシーを呼んどいた。早く帰れ」
松田清子は伊藤裕一に感謝し、急いで去っていった。
外に出て、タクシーに乗り、松田清子は背もたれにもたれ、全身が冷たくなっていた。ちょうどその時、電話が鳴った。田中圭介からだ。
松田清子は体調が悪く、あまり出たくなかったので、出なかった。もし病院で眠り込んで処置を受けていなければ、家まで持ちこたえられなかっただろう。
家に着いたばかりの時、また鳴った。自宅の固定電話からだ。
松田清子は電話に出た。息子の扶養権したが、彼を産んだ以上、それなりの責任はある。
「もしもし?」
電話の向こうの佐藤さんは一瞬驚いた。
「奥様、お声がすごく弱々しいんですが?」
「何か用?」
松田清子は電気ケトルを探して湯を沸かした。
「あ、はい、実は坊ちゃんがさっき熱を出しまして、39度の高熱なんです。奥様に会いたいとぐずってまして、さっきお電話に出られなかったので、旦那様が私に連絡するように言われまして…奥様、お仕事はいつ終わってお戻りになりますか?」
松田清子は息子の体質を知っていた。どんな時に病気になるのかも知っている。
「またジャンクフードを食べたの?」
「それは……」
佐藤さんは一瞬何と言っていいかわからなかった。
松田清子はもう怒る気力もなかった。
「佐藤さん、私も体調が悪い、さらに医者でもないので、医者を呼んでください」
そう言って電話を切った。
佐藤さんは呆然とした。
子供の頃、田中圭介の体調が悪くなると、松田清子は眠らずに看病したものだった。
特に発熱は夜にひどくなることが多く、佐藤さんが夜中にトイレに行くたび、松田清子の部屋から灯りが漏れているのを見て、まだ看病していると知った。
なのに……どうして子供が熱を出したと聞いて、戻ってこないんだろう?
医者はもう来ていた。田中健一は呆然とする佐藤さんを見て尋ねた。
「奥さんには電話したか?」
「はい、でも奥様がおっしゃるには……」
佐藤さんはすぐには言わなかった。
田中健一は冷たい表情で言った。
「何て言ったんだ?」
「体調が悪くて、行けないと」
佐藤さんがそう言うと、明らかに田中健一が怒っているのがわかった。でも彼女にもどうしようもなく、伝えるべきことは伝えた。あとは家政婦の自分にはどうにもできなかった。
田中圭介の寝室では、普段松田清子が子供を診せるのは漢方医だったが、田中健一は漢方医を信じず、田中圭介に点滴をさせた。
田中圭介はうつらうつらとしていたが、どうやら父親が戻ってきたのはわかっているようだった。彼は目を開けたり閉じたりしながら、小さな声で言った。
「パパ、ママは?」
田中健一は彼のそばに来た。息子が病気なのを見て、彼も辛そうだった。
「ママがいい。ママが家にいると、早く治せるんだ。ママを早く帰らせてくれない?」
田中圭介は渡辺悦子が好きだったが、病気の時はやはり実の母親を求めた。