彼が一番望んでいたのは、病気の時に母親が心配そうに見つめ、キスをしてくれ、どんな要求も可能な限り叶えてくれることだった。
田中健一は軽い声で言った。
「待ってて、お父さんがママを連れてくるから」
「うん、パパ、待ってるね」
そこに横たわる姿は弱々しく、見ているだけで胸が痛んだ。
田中健一はスマホを持ち、松田清子に自分で直接電話をかけなければならないと悟った。
しかし何度かけても、出る気配はない。
車で直接松田清子を探しに行こうとしたその時、ようやく電話が繋がった。
「もしもし?」
その声は、聞いていて辛くそうだった。
田中健一は今までにないほどの怒りを感じ、声を低く潜らせた。
「松田清子、何を怒っているのかは分かっているが、程があるだろう!?圭介が病気だ。すぐに帰ってこい」
ここ数日で二度目となる「程がある」という言葉に、松田清子の顔は冷たくなった。
「行けれない」
そう言うと電話を切った。
田中健一も頭にきて、松田清子を探すのは諦め、代わりに田中圭介の世話をすることにした。
「もうママは探すのを諦めよう。パパが一緒にいてあげるから」
「悦子に会いたい」
「彼女は忙しいんだ。それに今は体調が悪いから来られない。君に風邪がうつるかもしれないからね」
「ママに会いたい」
子供は意外に執着していた。
田中健一は身心疲れ切っていた。これまで田中圭介が病気になると、いつも松田清子が世話をしていた。彼が手を貸す必要など全くなかった。
普段は、子供が病気の時は寝ているだけだと思っていたが、こんなにも手がかかるとは思わなかった。
しばらくすると、鈴木美智子が使用人に命じ、娘の子供を送り届けさせた。佐藤さんは事情を知らず、田中健一を呼びに行った。
田中健一がリビングに来ると、姪の姿があり、視線は使用人の方へ向いた。
使用人が説明した。
「奥様がお送りするようおっしゃいました。お嬢様がお兄ちゃんや奥様と遊びたいとおっしゃいました」
松田清子が仕事をしていなかった頃、彼女はよく田中圭介と甥を連れ回していた。甥は松田清子に特に懐いていて、そのことは田中健一も知っていた。
「奥様は家にはいない。圭介も病気だ。連れて帰りなさい」
使用人は一瞬固まった。奥様が不在?圭介様も病気だって?
ありえない。これまで坊ちゃまやお嬢様が病気になるたび、松田清子が細やかに世話をしてきたのに、どうして家にいないんだ?
田中健一が自らそう言う以上、使用人はそれ以上詮索せず、子供を連れて帰った。
旧宅に着くと、使用人は松田清子が不在だったことは伝えず、ただ圭介様が病気だと言っただけだった。鈴木美智子は何も言わず、甥は再び送られることはなかった。
松田清子はよく眠ってようやく目を覚ました。
お湯を飲み、体はまだ汗ばんでいたが、以前ほど辛くはなかった。義母からの電話はなかった。彼女は拒否したが、義母は普段なら子供を送り届けるはずだった。
田中圭介が病気だと聞き、甥にうつるのを避けるため、電話をしてこなかったのだろう。
彼女はその方が気楽だった。
松田清子の体調について言えば、かつて母親が世話をしていた頃は確かに良かった。しかし田中正夫に腎臓を一つ提供してからは、田中家が彼女の健康に注意を払い、体調はほぼ回復していた。
だが妊娠し、腎臓が一つ少ない状態は、普通の人とは違った。
妊娠期間が長くなるにつれ、彼女の状態は悪化していった。
息子が生まれる前は、ほとんど寝たきりの生活だった。生んだその日は、命を落としかけたほどだった。
息子を見たとき、彼女は後悔は感じなかった。自分の子供愛していたからだ。
田中正夫も厳命を下し、使用人たちに彼女をしっかり世話するよう命じた。
あの時期は体調も良かったが、どんなに健康でも、流産後の厳しい生活に耐えられるものではなかった。
息子が病気になっても、田中家は大勢の人を呼べる。必ずしも彼女である必要はなかった。
田中圭介は、自分が病気の時に松田清子が来なかったことを分かったのか、それから半月以上、彼女を探すことも、メッセージを送ることもなかった。
松田清子は養生のため、外出せず、家で休んでいた。
その間、明監督から何度か連絡があり、いつも同じ質問だった。
「前に聞いたけど、このドラマの主役に桐生真吾を考えているって言ったよね。彼が渡辺悦子をヒロインに推薦してくれたんだが、それも悪くないと思うけど、どう思う?」
松田清子は沈黙した。
「ヒロインは渡辺悦子でなきゃダメですか?」
「もちろんそうとも限らないよ。君のお気に入りがいるなら教えてくれ。でも君もこの業界にいるから知っているだろうが、渡辺悦子が出演するドラマには、いつも田中グループの田中社長が投資しているんだ。君の脚本はどれも素晴らしい。今まで三作続けて大ヒットした。田中社長という後ろ盾があれば、なおさら良いだろう」
松田清子は軽く眉をひそめた。
「私のルールは知ってるでしょう。表に出るのは避けたいんです」
「ああ、知ってるよ。田中社長は渡辺悦子のために専属の会社まで作ったんだ。彼女一人をサポートするための会社だ。もし君が彼女専用の脚本を書いてくれれば、君の将来は計り知れないものになるよ」
松田清子は彼の意図を理解した。
松田清子の脚本は評判が良く、多くの出資者が奪い合っていたが、田中社長に頼れば盤石の体制が整う。
以前、田中健一も公言していた。渡辺悦子にふさわしい脚本家チームを探すと。
「でも考えてみてほしい。必要な付き合いはしなければ。それで友人を作れば、将来の創作活動にも役立つかもしれない」
松田清子は明監督の言うことも一理あると思った。
「考えておきます。もし時間があって、パーティなどの誘いがあれば、参加したい時は連絡します」
明監督はそれを聞き、即座に喜んだ。
「よし!その時は色んな人を紹介するよ」
松田清子は脚本を書く一方で、他の脚本にも目を通し、確かに気に入っている脚本家が何人かいた。これからは自分の人生を歩むためにも、人脈を広げるべきだった。
「じゃあ渡辺悦子の件は……」
「本当に無理です」
松田清子はさらに言葉を続けた。
「監督、無理だというのは、別の理由ではなく、彼女は私の脚本のヒロイン像に合わないんです。代わりに別の人を探していきます」
「わかった。まあ、撮影開始までまだ時間はあるしな」
何より、これは桐生真吾の一方的な推薦だった。桐生真吾はかねてから渡辺悦子と共演したがっており、田中社長と渡辺悦子の側にはその意思はなかった。
スマホが鳴った。プロデューサーからの着信だった。
辞めてから何日も経つのに、今頃連絡してくる。彼女のことを思い出したのだろうか。
「松田清子、家でゆっくり休んだだろう?もう半月も経ったんだが、いつ戻ってくるつもりだ?」
最初から責める言い方だった。
「プロデューサー、前に電話したけど出なかったでしょう?その後、辞めることをメールで伝えたんですけど、見てませんでしたか?」
プロデューサーの失礼な態度に対し、彼女も辞める身だ。丁寧に接する必要はなかった。
「見たよ。君の件は俺にはどうにもならん。渡辺悦子のマネージャーに話すなり、田中社長に話すなり好きにしろ。君が来ないせいで、ここ数日スケジュールが遅れてるんだ。契約書にもサインしたんだぞ?もしまた来ないなら、契約通りに処理するつもりだ」
確かに、松田清子は渡辺悦子のマネージャーが欲しいと言い、彼女と田中健一の間にも取り決めがあった。しかし契約書にははっきりと、お金は制作側が支払うと書かれていた。
だからこそ、最初にプロデューサーに話した。
しかし、責任を渡辺悦子のマネージャーと田中健一に押し付けられた。松田清子はよく分かっていた。どちらに話しても認められるはずがないが、同意されなくてもしないといけない。
外は良い天気だった。松田清子はスタジオへ行き、渡辺悦子のマネージャーに直接話すことに決めた。
松田清子はタクシーを拾い、スタジオへ向かった。
真っ先に目に入ったのは田中健一だった。
松田清子と彼の視線が合い、心臓が一瞬止まりそうになった。
離婚の手続きはいつ進められるのか、そう尋ねようとしたが、彼は彼女の存在に気づかないふりをし、冷たく彼女の前を通り過ぎた。
田中健一が彼女を無視するのは初めてではなかった。普段、用事がない時はいつもそうだった。
慣れないことではなかった。どうせ離婚するのだし、今後彼と会っても、同じように無視すればいいだけだ。
松田清子は渡辺悦子のマネージャー、安藤美紀の居場所を見つけ、話しかけようとした。
安藤美紀は彼女の姿を見るやいなや、すぐに掴んだ。
「松田清子、ちょうど良かった!これ、新しい脚本を悦子のところに届けてくれないか?それからすぐに彼女の代役シーンがあって、君がやってほしいんだ」
松田清子が断ろうとすると、安藤美紀は何かに急いでいる様子で、その場を去った。
向こうの監督が叫ぶ。
「松田清子!早くその脚本を届けろ!皆の時間を無駄にするなよ!」
松田清子は問題を解決するためには、まず目の前の用件を済ませねばならなかった。
聞いた話では渡辺悦子はメイクルームにいるらしい。その方向へ歩きながら、松田清子はふと気づいた。
さっき田中健一が歩いていった方向も、渡辺悦子の方ではなかったか?