そんなことを考えていた時、祖母から電話がかかってきた。
「清子、ずっと帰って来てないけど、いつ家に来るの?」
松田清子は手元の脚本を見つめた。今日は少し書いたものの、調子が悪くて休みたくなっていた。
「おばあちゃん、今日そっちに行くよ」
「そういえば今日は圭介の初登校日だったわね。プレゼントを用意したから、あとで持って行ってくれない?」
松田清子が命がけで産んだ子供を、祖母はことのほか可愛がっていた。孫娘の清子には冷たい田中健一だが、圭介には百も承知で溺愛していたのだ。
清子はおばあちゃんを悲しませたくなかったので、軽く応えた。 待たせまいと支度を始めると、今度は田中正夫から電話が鳴った。
「清子、さっき圭介を小学校に送ったんだろう?どうだった?」
普段、家の用事があれば正夫は真っ先に健一ではなく清子に電話するのだった。
「ええ、圭介も新しい学校と先生が気に入ったみたいです」
心配をかけまいと、清子は適当に答えた。
「その学校は君が随分探したんだろう?圭介のためにも、健一のためにも、君が尽くしてきたことは父さんも分かっている。ところで健一はそばにいるか?少し話があるから代わってくれ」
清子の表情がこわばった。体は弱いが頭のいい正夫は、二人が一緒に送っていないこと、周囲に知られたくない事情を察してわざとそう言ったのだ。
清子は話題をそらし、「お父さん、さっき祖母から急いで来いと言われたんです。また後で」とだけ言い、電話を切った。
正夫が「今夜は二人で食事に来い」と言う間もなかった。
次に健一に電話しようとした正夫を、鈴木美智子が制した。
「分かってて何故電話するの?健一に言ったって無駄よ。あの子の心は清子なんかには向いてない。息子が清子にどう接してるか、まだ分からないの?」
その話題になると、夫婦の口論は避けられなかった。
「息子のことは分かっている。ここ数年、健一が清子にまったく感情を持ってないはずがない」
「あの時、あなたが無理に健一に清子と結婚させなければ、今頃は悦子と結婚していたわ」
渡辺悦子の名が出ると、正夫は嫌な顔をした。清子のせいではなく、悦子本人が気に入らなかったのだ。理由は説明できないが。美智子は正夫の携帯を奪い取ると言い放った。
「健一に電話させないわ。二人はまだ若いんだから、どうしても一緒にやっていけないなら止めないで。息子には幸せになってほしいの」
美智子は悦子に散々貢がれ、すっかり心を掴まれていた。清子が悦子の代役していることも知っていたが、正夫には内緒にしていた。言えば間違いなく反対されるからだ。
長年二人を見てきた美智子は、清子はあらゆる面で悦子に及ばず、せいぜい代わりを務めるだけの存在だと思い込んでいた。
悦子の家柄は田中の家には及ばないが、今は芸能人の影響力が大きい。彼女が嫁げば名門令嬢に劣らないどころか、むしろ良い効果をもたらすかもしれない。
当然、息子のために協力するつもりだった。
正夫は妻の考えを知らず、ただ息子の将来を嘆くばかりだった。あんなに良い清子を大切にしないなんて、いつか必ず後悔すると。
祖母の家に着いた清子は、自ら抱きついた。
「おばあちゃん、会いたかったよ」
松田老夫人は清子を抱きしめ、じっと見つめた。
「しばらく会わないうちに、顔色が悪いじゃない。病院で診てもらったの?」
あの時、田中の家が現れて清子に腎臓の提供を求めてきた。松田老夫人は反対した。若くこれから結婚する清子の人生を、金で買えるものかと。だが健一に命を救われたと知った清子が「恩返しが必要だ」と訴えたため、仕方なく承諾したのだ。
片腎を失い、出産時には分娩台で死にかけた清子を、老夫人は会うたびに細かく観察していた。
「おばあちゃん、大丈夫。ただ最近ダイエットしてるだけ」
「痩せることなんてない!もう十分細いじゃない。普通の人と違うんだから、自分の体を大切にしなさい」
「はいはい」
母を亡くしてから、清子は祖母と最も強い絆で結ばれていた。
もちろん他の親戚も清子を大切にしていた。老夫人は大きなプレゼント箱を取り出させた。中身は見えなかったが、圭介のために選んだものに違いなかった。
「いいか、帰って開けちゃダメよ。圭介に自分で開けさせるんだから」
「分かったよ、おばあちゃん」
老夫人は清子の手を握り、切なそうに言った。
「最近、健一は君に……まあいい、聞かないよ。昼はここで一緒に食事しよう」
清子はうなずいた。
離婚の話はまだ祖母にはしないつもりだった。全てが片付いてから話そう。 食事中、清子はさりげなく家の会社の様子を探った。
「おばあちゃん、おじいちゃんは会社の話なんかしてた?」
「会社のことは心配しなくていいの。おじいちゃんも私に気を使わせないし、余計なこと考えないで」
清子は以前から実家の会社が気にかかっていた。 健一はいくつか仕事を回してくれたが、どれも小規模で、取引先も健一が松田家を重要視していないと見抜いたのか、数度の取引で離れていった。
松田の会社は転換期にあったが、何度も失敗し、経営が苦しくなりかけていた。
清子を通じて、健一が助けなくとも正夫に頼むこともできた。だが松田家はそのことには触れようとせず、清子に会社の心配をさせたことがなかった。
「おばあちゃん、芸能界への進出は考えていないの?」
老夫人はぷんと膨れた。
「会社の話はしないでと言ったでしょ。今日はただ私と食事をしに来たんでしょう」
清子は諦めた。
午後少し祖母と過ごしたが、老夫人は昼寝が必要だったので清子は先に帰った。
今日は渡辺悦子が用事で休みだったため、彼女も休暇を取っていた。圭介の下校時間に合わせて、スーパーに寄り夕食の材料を買った。
帰り際、泣いている子供を見かけた。
誰も助けようとしないのを見て、清子は急ぎ足で近づき、しゃがみ込んで声をかけた。
「どうしたの?泣かないで」
「おばあちゃんがいなくなっちゃった…」
少女が手を離すと、桃のように柔らかな肌をした可愛い顔が見えた。
清子は辺りを見回し「おばあちゃんはどんな人?」と尋ねた。
少女は色々説明したが、要領を得ない。清子は買い物袋を片手にまとめ、携帯を取り出した。
「じゃあ、おばあちゃんの電話番号は分かる?私の電話でかけてごらん」
少女はうなずき、清子の電話で祖母に連絡した。
すぐに電話はつながった。
「ばあば!」
声を上げて泣きじゃくった。
間もなく少女の祖母が駆けつけた。老婦人は清子の手を握り、何度も感謝を繰り返した。
「ほんの一瞬目を離した隙に見失って…本当に怖かった。ありがとう、本当にありがとうございます」
「お気になさらず。悪い人に連れて行かれなくて良かったです。でも次は気をつけてくださいね」
「はい、本当にすみません」
二人に別れを告げると、清子は車で田中邸へ向かった。
二十日以上も戻っていない場所なのに、全てが懐かしく、そしてなんだか見知らぬ場所に来てしまったようだった。