部屋の中の田中圭介はまだ渡辺悦子と話したそうだったが、仕方なく松田清子のところへ来て、長々と話し続け、なかなか電話を切ろうとしなかった。
松田清子は息子を困らせたくなかったので、自ら部屋の入口から離れた。
佐藤さんは怪訝そうに松田清子を見た。
「坊っちゃんはまだ出てこられないのですか?」
「急用があって…佐藤さん、作った料理の場所はご存知ですよね。後で出てきたら、出してあげてください」
松田清子はエプロンを外すと、彼女の手に渡した。 藤さんは彼女がためらいもなく去っていく様子に呆気にとられた。
ちょうどその時、田中健一が部屋着に着替えて降りてくるのが見えた。佐藤さんが言った。
「ご主人様、奥様が急用でお出かけになりました」
「ああ」
田中健一は淡々と応えた。
佐藤さんはまだ何か言おうとしたが、普段から主人が奥様にそう接しているのを思い出し、それ以上は口に出さなかった。
田中圭介が出てきた時、松田清子の姿は見えず、まん丸い目をぱちぱちさせて辺りを見回した。
「ママは?」
佐藤さんはもう食卓に食事を並べていた。おかゆとおかず、それにまんじゅうだった。
野菜好きの子供はあまりいない。松田清子は田中圭介に野菜を食べさせるため、毎日どうしたら美味しくできるか研究し、可愛い形にアレンジしたりしていた。
女性として、また彼らが結婚してからずっと仕えてきた使用人として、松田清子がこの家庭のためにどれほど尽くしてきたか、誰よりもよく知っていた。
「奥様は用事でお出かけになりました」
「用事?」
この返答は田中圭介の予想外だった。
以前はママに時間さえあれば、いつも一緒にいてくれた。特に食事の時は、必ず自分が野菜を食べるのを見届け、嫌がることを強制した。
あの野菜は本当にまずかった。でも食べないと、ママはとても厳しくて、必ず食べさせ、横で監視し、それに付き合って一緒に食べた。今回も前回と同じだろうと思っていた。
田中圭介は田中健一の方を見て、信じられないという表情を浮かべた。
「ママ、本当に行っちゃったの?」
田中健一は無表情のまま、松田清子の作った料理を口に運んだ。
「ああ」
田中圭介は二、三口食べると、もう箸を進めたくなかった。
実はママの作る酢豚やサクランボ肉なら美味しいのに、今回は全く作っていなかった。
「佐藤さん、別のものが食べたい」
佐藤さんは意外そうな顔をした。
「坊っちゃんが奥様に作ってほしいとおっしゃったのでは?」
「こんなもの頼んでないよ。まずくてたまらない。持って行って!」
「ダメだ!」
田中健一が止めた。
田中圭介はまだ言い返そうとしたが、父が向けてくる視線に気づくと、大人しくまた食べ始めた。
明日悦子おばさんとピザを食べられるかもしれないと思い、この食事も我慢できないほどではなかった。
実を言うと、松田清子が田中健一を好きになったのは、彼に命を救われたからなのか、それとも付き合ううちに彼の人間的な魅力を感じたからなのか、自分でもわからなかった。
健一と結婚すると決める前、二人はしばらく付き合っていた。
彼は彼女の世話を細やかにしてくれた。松田清子も、それが田中正夫への腎臓提供の見返りだと理解していた。
しかし彼のような人間は、金を渡せばそれで済む話で、わざわざそこまでする必要はなかった。
それでも彼が自ら世話を焼く姿は、彼女に特別な印象を与えた。話すうちに、田中健一は十八歳までにすでに二つの博士号を取得し、会社を受け継ぐ前、その会社は衰退の一途をたどり、倒産寸前だったことを知った。
しかし田中健一が現れ、当時まだ十八歳だったが、わずか一年で見事に局面を打開した。
それだけではない。たちまちにして会社を業界首位の座に押し上げたのだ。田中健一の能力は本当に並外れていた。
松田清子も負けていなかった。名門大学で日本文学を専攻し、イタリア語も副専攻していた。
その後、暇つぶしにフランス語やラテン語など多くの言語を独学で習得した。松田清子の学習能力は高く、スタジオでプロデューサーにスカウトされたこともある。彼は彼女に、イメージが良く代役を続けるつもりがなければ、俳優にならないかと言った。
しかも清子は代役の中でも特に演技力があり、渡辺悦子よりも的確に役柄を掴んでいた。
松田清子は演技には興味がなく、脚本を書くことに興味があったため、断った。
彼らは互角の関係だと思っていた。しかし当時、彼女は田中健一が家事を切り盛りし家庭を守ってくれる女性を望んでいると誤解していた。だからこそ松田清子は進んで残り、彼の後ろ盾となって問題を解決してきたのだ。
思いもよらなかったのは、彼が求めていたのは、決して彼女のような女性ではなかったということだ。
家に着くと、松田清子の携帯に明監督のボイスメッセージが届いていた。
「ナナ、ナナ! 主演女優見つかった?桐生真吾が渡辺悦子を紹介してくれたんだ。彼女、君の脚本を聞いてすごく気に入ってて、出演したいってさ。もし君が適役を見つけられてないなら、渡辺悦子にやらせようと思うんだけど、どうかな? 桐生真吾と渡辺悦子のコンビなら、間違いないよ。君の業界での立場もまた一段階上がるだろうから」
一本のドラマがヒットすれば、表舞台の人々が恩恵を受けるだけでなく、裏方も皆評価が上がる。
松田清子を例に取ると、最初の脚本を書いた時はわずか五十万円しかもらえなかったが、ヒット後、二作目では百万円を超える報酬を得た。
三作目では、固定報酬だけでなく歩合もつき、ドラマの売上に応じて収入が入るようになった。
普段あまり使わないので、そのカードはずっと放置したままで、自分がいくら稼いだかも把握していなかった。
四作目は明監督の方から話を持ちかけ、さらに高い歩合率を提示してきた。もし渡辺悦子と桐生真吾が加われば、確かに莫大な利益を生むだろう。
「明監督、撮影が急なのはわかりますが、できるだけ早く見つけます」
「脚本を見たんだけど、渡辺悦子は向いてないかもしれないけど、彼女は役柄の幅が広いから、絶対に僕たちの求める効果を出せると思うんだ」
渡辺悦子にも多少の演技力はあった。しかし彼女は日常を観察する力に欠け、さらに一般人を見下す性格のため、普通の人の役を演じる信念が感じられなかった。
他の人は知らなくても、渡辺悦子と数多くのスタジオを回ってきた松田清子は痛いほどわかっていた。
ただ、撮影が終わる度、田中健一の出資があるおかげで、各賞は皆渡辺悦子に顔を立てていた。
「ナナ、君のこだわりもわかるけどさ。渡辺悦子の名が高い、それに彼女が欲しがる役は、田中社長が必ず手に入れてくれるんだ。もし君が断ったら、田中社長が怒り出して、この業界で続けられなくなるかもしれないよ」
明監督の言葉は決して脅しではなかった。前回、渡辺悦子が脚本を持ってきて、ある役が気に入ったと言い、田中健一に頼んでその役を取らせたことがあった。この手の話は業界では珍しくなく、奪われた側がどんな思いをしているかなど、誰も気にしない。
松田清子の価値観では、これは絶対に許せなかった。
「もし田中社長が本当にやらせてもらわない、それでも構いません」
松田清子は屈しなかった。
「まったく、君って奴は…」
明監督は彼女の頑固さに呆れつつもどうしようもなく、ただため息をついてそれ以上は言わなかった。
翌日。
松田清子はまた渡辺悦子の代役を務めることになっていた。今日の二シーンはどちらも乱闘シーンだった。
一昨日のビンタのシーンで、松田清子の頬はまだ少し腫れていた。もし圭介が本当に彼女を気にかけているなら、きっと尋ねただろう。だが彼は最初から最後まで、まるで気づいていないかのように、自分のことしか考えていなかった。
以前とは違っていた。
かつて松田清子が圭介を連れていた頃は、何かある度に圭介は真っ先に彼女の痛いところを吹いてくれ、心配そうな顔をしたものだった。
あの頃は、田中健一に冷たくされても、命がけで産んだこの子が自分を慰めてくれると思っていた。
おそらく仕事に出るようになり、彼のそばにいる時間が減ったことと、以前彼に厳しくしすぎたこと、それに渡辺悦子が何でも彼の言うことを聞いて甘やかすのと比べられ、圭介は次第に彼女を嫌い、距離を置き、時には彼女を傷つける言葉を吐くようになったのだろう。
松田清子は自嘲気味に笑った。
自分の教育方針が間違っているとは思わなかった。男の子は厳しく育てるべきだ。甘やかすと子はダメになるとよく言う。
ただ、息子が成長し、自らの選択を持ったのだから、彼の選択を尊重するだけだ。
田中健一については…
彼は全く彼女の頬を気にかける様子もなかった。当然だ。流産のことさえ気にしていないのだから、それ以上何を望めるというのか?
スタジオに着くと、松田清子は入ってきた老人とすれ違った。
男性は彼女を見ると、一瞬呆けたように見つめた後、叫んだ。
「清子、久しぶりに見たぞ、パパだ!」