しくしくしくしくしくしく……。
アバーライン家のとある一室で夜な夜な啜り泣く声が響いていた。
その薄暗い部屋ではセリィナと同じプラチナブロンドの長い髪で顔を隠した女性がひとりで毎夜泣いているのだが、もちろん幽霊や不審者というわけではない。ここでこの女性がこうやって泣いていることをセリィナを除く屋敷の全員が知っているのだが、誰もこの部屋へ近づいたりはしなかった。
「ううぅ……今日もセリィナちゃんに近づけなかったわ……」
ばさりと前髪を左右に分ければそこには涙に濡れた淡い翠色の弱々しい瞳が現れた。
この女性の名はエマ・アバーライン。アバーライン公爵の妻でありセリィナや双子の姉たちの実の母親である。
エマは普段から部屋に引きこもりあまり外に顔を出さない。元々が気弱な性格で引っ込み思案なエマは幼い頃はかなりの泣き虫でいじめられっ子だった。今でこそ公爵夫人という地位であるが、実家は伯爵家でもあまり権力がない家だった為に身分が上の子供たちからいじめの的にされていたのだ。
そして、さんざんいじめられ続けた結果……エマはとんでもないことをしでかした。
なんとエマは、(どこから出したのか)鞭を振り回し高笑いをしながら自分をいじめていた子供たちをフルボッコにするという奇行に走ったのだ。ブチギレしたのである。
まず手始めに目を回し気絶したクソガキども全員の首から下を土に埋めて頭から蜂蜜をぶっかけた。そして顔中に虫がたかる恐怖で泣き叫ぶいじめっ子たちを見下ろすとクスクス笑いながらその頭に蜂蜜を追加した。その時のエマの笑顔がとんでもなく(目がいっちゃってて)恐ろしかったと、今でも元いじめっ子たちは悪夢に魘されるという。もちろん後から大人たちには怒られたが、自分の子供がか弱い(?)令嬢をいじめていたなんて外聞が悪いとあまり大事にはされなかったのも幸いし、エマは特に処分されるようなことにはならなかった。
だが、それからはいじめられることは無くなったが笑顔が怖いと噂されて周りの人間から避けられるようになってしまいエマは笑うことが苦手になった。
その後成長し、なにをどうしたのか現アバーライン公爵に見初められ結婚したのだかわ……すぐに妊娠したものの産まれたのは双子の女の子だった。公爵家に嫁いだからには跡取りの男子を産むのが嫁の役目、すぐに次の子を……そう思ったその矢先、エマは産後の肥立ちが悪く倒れてしまい次の妊娠どころか公爵夫人の仕事も出来ない程になってしまったのだ。
エマは療養のためにと数年間別宅で暮らし、アバーライン公爵が定期的に別宅へ通っていた。そしてやっと回復した頃に念願の妊娠が発覚したのだが、産まれたのはまたもや女の子。産まれた子供に罪は無いが、エマはどうしても産まれた瞬間にがっかりしてしまったのだ。
エマは今でもその時のことを後悔している。
元々人付きあいが苦手だったエマは長年離れて暮らしていたこともあり子供たちに関わるのが苦手になってしまった。まともに母親らしいことも出来ず、公爵家の妻なのに公爵夫人の仕事もろくに出来ずにいた自分はなんて情けない母親なのかと。
さらにせっかく五体満足に産まれてきてくれた娘に一瞬でもがっかりするなんて、とんでもない最低な母親だと。そして、また産後に体調を崩し赤子の世話もろくに出来なかったことがネガティブな思考を急加速させてしまった。
それからというもの、セリィナの姿が視界に入る度に申し訳なさで泣きそうになり自分の不甲斐なさにため息がでた。セリィナがこちらを見て怯える様子を目撃してからはなおさらだ。こんな自分が母親で申し訳ない。今さら母親らしいことがしたいなんて図々しいかもしれない。と、こうして夜な夜な自室で泣いているのである。
もちろん夫であるアバーライン公爵も双子の娘たちもエマを慰めた。しかし慰められちょっと勇気を出してセリィナに会いに行くも、笑うことが苦手なエマは顔がひきつりそうになってしまう。自分の笑顔は怖い(と言われたことがある)、もし笑顔を見せてセリィナが怖がってしまったらもう生きていけない。と考えてしまいうまく笑えないのだ。
その結果、泣きそうになり悲しい顔で(自分自身に)ため息をつく。そしてそれを見たセリィナがさらに母親に近づかなくなる悪循環が繰り返されていた。
しかし、最近は少しだけ状況に変化が起きている。セリィナは気付いていないが、ライルはセリィナに起こった事柄を全て家族に報告していた。
アバーライン公爵はもちろん、双子の姉と老執事ロナウド、そしてこのエマ夫人にもだ。
つまり数ヶ月前、公爵家の馬車に飛び出しセリィナとぶつかったあの少女のこともすでに事細かく報告されているわけなのだが……セリィナの事を悪くいい、ライルを引き抜こうとした怪しい少女の報告書を読んでエマは眉を顰めた。この数ヶ月で束のようになった報告書にはため息の出る事しか書かれていなかった。
そして、セリィナに対しての悪意を感じたと言っていたライルの言葉は真実となった。あの執事の“セリィナに関わる”勘はよく当たるのだと改めて実感したくらいだ。
公爵家の使用人は優秀だ。屋敷での仕事はもちろん、影がセリィナの護衛と情報収集もしている。ライルが少女と別れた後、こっそりと影が少女の後を尾行し王家の馬車と接触した様子も事細かく報告されていた。
しばらくは様子を見ていたが、王家の事を調べるとなるとさすがに簡単ではない。だがこの少女の方は“とんでもない事”までわかってしまったのだ。まさかの
明日のデビュタントパーティーでなにか起こるかもしれない。これは確信だ。
「旦那様もすでに知っているだろうけれど……これは改めて相談が必要ね。それにしても……私の大切な“娘”に何かしたら例え王子であろうと許さないわ」
涙の止まったエマの眼光が、まるで昔いじめっ子たちをお仕置きしたときのように鋭く光った。そしてエマは、夫と老執事がいる部屋へと足を動かしたのであった。
余談だが、現国王はその時のいじめっ子のひとりである。しかし王太子をフルボッコにしたわけではなく、現国王は元侯爵令息で婿養子だ。当時王家には王女ひとりしかおらず、その王女に気に入られて国王になれたラッキーボーイと囁かれていたが妻である王妃に頭が上がらず尻に敷かれているらしい。
そしてなにより、エマに高笑いされながら蜂蜜をぶっかけられた記憶がトラウマになっているひとりだ。そのせいで未だに蜂蜜が食べられず、王家に献上された最高級品を目の前に出された時は叫んで逃げたとか。
そんな現国王がエマの娘であるセリィナをよく思っているわけがない(逆恨みだが)。現国王の嫌がらせが、例の悪い噂が消え切らない原因でもあった。