この国で最も信じられている宗教、その聖書にはこう書かれている。「この世で愛ほど尊いものはなく、愛は全てにおいて最も重視され育まれるべきものである」、と。
それを聞いた時ファイス伯爵家令嬢、フィオナ・ファイスは思ったものである。
なんとまあ、その神様は偽善者だったものか、と。その聖書に、赤ペンで注釈を書き加えてやりたいものだ。
なお、神様が認めた愛に限る、それ以外は全部ゴミなので排除します――と。
「もう私は我慢がならないのだ!」
バン!と彼は激しくテーブルに拳を叩きつけた。それを聞いて、フィオナはびくり、と体を震わせるフリをする。
目の前で激怒しているのは、エメリー・セブン。セブン伯爵家の次男坊であり、フィオナの婚約者とも言うべき青年である。
その顔には、阿修羅のごとき怒りの色。長い銀髪に青い目、白皙の美貌を持つ青年はまるで親の仇でも見るようにフィオナを睨んでいる。フィオナはそれを見て、心から感心してしまうのだった。なんて名演技。あんた、その気になれば役者でご飯食べていけるんじゃないの、と。
「この写真が全てを物語っている。フィオナ嬢は、自分の身の回りの世話をしてくれる使用人達を虐めぬいているというのは間違いではなかったのだと。かつては心優しく、純粋で可憐な女性だと思っていた。だから、私も家のため、彼女となら婚約もやむなしと思っていたのだ。それが、実際はどうか?身分なんてくだらないものを振りかざし、年下の少女を虐げるようなその姿勢……断じて看過することはできない!」
「は!この国で有数の名家、セブン伯爵家の次男さんの言葉とは思えないわね」
自分も頑張らなければ。ふん!と鼻を鳴らしてフィオナは返す。というか、純粋可憐だと思ってたことなんか一度もないでしょ、と心の中でツッコミを入れながら。
「エメリー。私だって全て知っているのよ?召使どもに親切に勉強を教えてやってるんですって?自分の勉学の時間さえおろそかにしてなんと無駄なことをされているのか。この国の政治を動かしていくのは、私たち貴族であって、あんな薄汚れた無産階級の連中じゃないのよ。もう少し現実を見たら?」
「現実?君と結婚するのが現実に役立つとでも?」
「ええ、そうよ。未来を背負って立つ、高貴な血筋を繋いでいくことこそ両家の願いであったはず。貴方みたいな夢想家の次男坊に、私以上に素晴らしい縁談が来るとは思えないわ。私だってムカつくけど、『あんたで妥協してやる』って言ってんのに、何が不満だってのよ」
「……なるほど、それが本心か」
ふふふふ、と悪役さながらに笑うエメリー。そういう顔もできるのかと、少しばかり新鮮だ。
「冗談じゃない。血がなんだというんだ。人を愛する気もない、自己顕示欲の塊のような女を妻にするなど願い下げだ。この婚約、なかったことにさせてもらおう。婚約破棄だ!」
彼はフィオナに怒鳴ると、一瞬ちらっとフィオナの隣に座る両親を見た。フィオナもつい、そっちに視線を投げてしまう。
お互い、心は一つだった。つまり。
――お、お願いお父様お母様!この婚約破棄、通してください!!
そう。
この婚約破棄はすべて演技。フィオナとエメリーがともに仕組んだ、盛大なお芝居なのである。
こうしなければ、愛する人との未来を守ることができなかったがゆえに。
***
話は、二人が幼い頃にまで遡ることになる。
フィオナの家、ファイス伯爵家と。エメリーの家、セブン伯爵家は古くから親交があった。
どちらも同じ伯爵家であり、どちらも長女・長男ではない。そのせいか上級貴族の家柄としては珍しく、二人をかなり自由奔放に育ててくれたのだった。
この国では、女性と男性が等しく家督相続の権利を持っている。フィオナは上に姉がおり、エメリーにも上に兄がいた。お互い、姉と兄がそれぞれ婿と嫁を貰えばいい。自分達はともに貴族でありながら自由な恋愛、交流ができる立場だとかつてはそう信じていたのだった。
残念ながら、壁にぶつかるのはそう遠い未来のことではなかったわけだが。
『ほら、エメリー急いで!置いていくわよ!』
『ま、待ってよ、フィオナ!』
どちらかの家の庭で、駆け回って遊ぶことなど珍しくなかった子供の頃。そう、あれはお互い、八歳くらいの頃ではなかっただろうか。
昔から活発でお転婆、鬼ごっこや木登りをしてしまうフィオナと家で読書をする方が好きだったエメリー。二人は正反対の性格だった。だからこそ、気が合ったのかもしれない。一緒にいる時は、お互いの好きなことに半分ずつ時間を使う。二人でいることで、いつもはあまりしない遊びにチャレンジすることができる。自分とは全然違う性格、性別、趣味の相手と共にいるのはなかなか新鮮で刺激的で、気づけば二人は唯一無二の親友と言っても過言ではない関係になっていたのだった。
『あ……すごい』
エメリーが大人しかった背景には、子供の頃の彼が体が弱かったからというのもある。よく熱を出してしまったり、喘息の発作を起こしてしまうような子供だった。
ゆえに、体力仕事は基本的にフィオナの役目であったのである。その日も、カチマルの木に成った木の実を見て、彼は悔しそうに呟いたのだった。
『すっごく、綺麗なカチマルリンゴが鳴ってる。……でもあんな高いところじゃ、手が届かないや』
『しょうがないわね!私に任せておいて!』
そんな時は、フィオナの出番だ。高級なドレスもなんのその、スカートを太ももまでまくり上げて縛ると、靴を脱ぎ棄てて裸足になり、すいすいすいーと登っていく。またあとで母に「なんてはしたない!」と叱られるのは明白だったが、フィオナはいつもどこ吹く風だった。
大体、母が考える貴族の女性としての理想像はあまりにも窮屈すぎる。やれ、お淑やかにしろだの、格闘訓練よりも部屋でお勉強しろだの、お茶だのダンスだの歌だの。自分は、そんな枠に囚われて好きなこともできないなんてごめんだ。家の血は姉が継いでくれるのだし、大人になったら家を飛び出して世界中を旅行したり、起業して自分だけの会社を運営したりしてみたい。幼い頃から、フィオナはそんな大きな夢を抱く少女であったのである。
そして、普段から大好きな格闘訓練にかまけることが多いフィオナは(貴族の嗜みとして、護身術や馬術の訓練の時間があるのは確かなことなのだ)、エメリーと違って運動神経も非常にいい。代わりに学校の勉強は常に低空飛行で酷いことになっているがそれはそれ、エメリーとバランスが取れているのも間違いなかった。
というか、母にはよく、エメリーと性別が逆だった方が良かったんじゃないの、なんて言われる始末である。エメリーの母にもそう思われているらしい。子供同士が仲良しの親は親同士も仲良しであり、二人でよく子供達や夫の愚痴を言い合っているようだった。
『よっし!』
木の上まで上ってしまえば、木の実を取ることなどわけないこと。フィオナは林檎を収穫すると、そのまま枝の上から地面に飛び降りたのだった。
『わあっ!?』
驚いて尻もちをつくエメリーが愉快でたまらない。フィオナはくすくすと笑う。
『ちょっと!こんくらい珍しいことでもなんでもないでしょ?』
『で、でもびっくりするよ!フィオナは凄いなあ、あの高さから飛び降りて平気なの?』
『私は誰かさんと違って丈夫なの!ほら、これ、カチマルリンゴ!欲しかったんでしょ?』
フィオナが林檎を差し出すと、エメリーは小さな手でおずおずと林檎を受け取った。林檎の艶やかな赤い色に、彼の白い肌が映える。
『ありがとう……!スケッチしたら、メイドさんたちにパイにしてもらおうかな。カチマルリンゴはそろそろ旬だから、すごく美味しいよ。フィオナもどう?』
『あら嬉しい!でも、一つだけ問題があるのよね』
『なあに?』
『私、とっても大食いよ?林檎一つで足りるのかしら』
『あははははははっ!そうだね、フィオナはご飯をいっぱい食べるんだもんね。うん、じゃあ、たくさん収穫しないといけないね。みんなに頼まなくっちゃ』
二人の関係は親友であると同時に、家族にも近いものであったと言っても過言ではない。
何でも話せる、何でも相談できる親友。性別を超えた絆が、二人の間にはあったのだ。そう。
フィオナは知っているし、逆にエメリーも知っているのである。自分達しか知らない、特別な秘密があるということを。それはこの国ではけして許されない悩みであるということを。
彼に林檎を取ってあげた、その日。深刻な顔をしたエメリーが、フィオナにある相談をしてきたのだった。
『あのさ、フィオナ。……僕、どうしてもフィオナに相談したいことがあるんだ。とてもお父様やお母様には言えなくて……ねえ、話、聞いてもらってもいい?』
『もちろんよ、エメリー』
実は、この頃。フィオナもまた、同じ悩みを抱えていたのである。
『私たちは、最高の親友で、相棒でしょう?隠し事はなしって、約束したものね』