王都セレヴェールの中心に位置する大広間――それは、まばゆいばかりの灯りと、華麗な衣装を身にまとった貴族たちの笑顔で満ちていた。石造りの高い天井には繊細な意匠のシャンデリアが幾つも吊るされ、まるで夜空を飾る星々のように輝いている。大理石の床は一面が淡いクリーム色で統一され、貴族たちの足音に合わせて仄かな反響をくり返す。その穏やかな喧噪の中心に佇むのは、ラヴェル伯爵令嬢、シャーリーズ・ラヴェル。
上質な深紅のドレスを身に纏った彼女の姿は、まさに王都随一の美女と謳われるにふさわしかった。金糸のように輝く亜麻色の髪は後ろで高く結い上げられ、首筋と肩が露わになるデザイン。肌は雪のように白く、澄んだ海を想起させる青い瞳は、見る者すべてを惹きつけてやまない。
彼女は幼い頃から「将来は王太子妃になる」と周囲から期待されてきた。それゆえか、貴族たちの羨望の視線だけでなく、嫉妬や中傷もそれなりに受けていた。だがシャーリーズは、凛とした態度を崩すことなく、己の矜持を守り続けている。今日もまた、第一王子アゼル・ヴァイアに付き添う形で、この華やかな夜会に招かれていた。
アゼル王子は国王夫妻の一人息子。漆黒の髪と金色の瞳を持ち、その容姿は人々を魅了するカリスマ性にあふれている。幼少期から神童と謳われ、武芸と魔術の両面で高い評価を得ていた。
シャーリーズがアゼルと正式に婚約を結んだのは、約半年前。小さい頃から二人は顔見知りだったとはいえ、本格的に関わりを深めるようになったのはここ数年のことだった。しかしながら、優雅に育てられたお嬢様と、王太子としての重責を担う青年という関係の中で、絶対的な信頼や愛情が築かれているのか――そこには一抹の不安を抱く者も少なくない。
事実、シャーリーズ自身も「アゼル殿下は私のことを本当に見てくださっているのだろうか」という疑問を密かに抱えていた。しかし、伯爵家の令嬢としての立場もあり、婚約が決まった後は疑問を振り払うように自分を奮い立たせていた。何より、王太子妃という立場は国に尽くすための重要な役目。シャーリーズは高貴な責務を全うしようと、自分を律してきたのである。
そうした表向きの取り繕いもあり、周囲からは「理想のカップル」と見られていた。
夜会の最中、シャーリーズは控えめな笑みを浮かべながら、貴族たちの挨拶に応じている。伯爵家の令嬢として、王太子妃の候補として、明るく柔和な態度で接するのは当然の作法。
しかし、その笑顔の裏には、どこか張り詰めた緊張と、不安の影が宿っていた。ここ数週間、王宮や貴族の間で奇妙な噂が流れているのだ。
曰く、
「シャーリーズは本当は魔力が極めて低く、王家の繁栄をもたらすことはできない」
「彼女の美しい外見は装飾でしかない。中身は傲慢で、周囲を見下している」
「ラヴェル伯爵家の娘は黒魔術に手を染めている」
などなど。どれも荒唐無稽なものだが、根も葉もない噂がなぜか執拗に広められている。その真偽を確かめようにも、相手は貴族社会。陰で糸を引いている人物がどこかにいるとしても、無闇に疑いをかけるわけにはいかない。
シャーリーズは自ら調査を試みたものの、直接的な証拠は何も掴めなかった。それに加え、彼女の家族であるラヴェル伯爵夫妻も「無視していれば消える」と言わんばかりに気にも留めていない様子。
だが、伯爵家が関わるような大きな社交の場でさえ、この噂は薄まるどころかますます勢いを増している。シャーリーズは耐えるしかなかった。恋人同士というよりは“婚約者としてのパートナー”という関係性に留まるアゼルも、近頃あまり自分に視線を向けない。静かに距離が開いていくような感覚に、彼女の胸はざわめいていた。
「――シャーリーズ、なぜこちらを見ていない?」
突然の声に、はっと顔を上げる。視線の先にはアゼルが立っており、その金色の瞳が冷たく細められていた。
「失礼いたしました、殿下。少々、考えごとをしておりました」
「そんなに悩むことがあるのか? お前には、わたしがいるというのに」
アゼルの声音には、どこか棘が含まれている。王族の鋭さなのか、あるいは心に余裕がないのか――いつものアゼルの声ではないと、シャーリーズは違和感を覚えた。
「はい、ですが……」
言い淀むシャーリーズに、アゼルはさらに続ける。
「この夜会は、我が王宮の威信を示す場でもある。ラヴェル伯爵家の令嬢が、浮かない顔をしていては示しがつかないだろう」
王太子の言葉というより、さながら冷徹な上官が部下を叱責するような調子だ。彼女は咄嗟に頭を下げた。
「仰るとおりです。申し訳ございません、殿下」
「……いや、いい。今はしばし黙ってついてこい。余計な考えは捨てろ」
それだけ言い置いて、アゼルは振り返る。背を向ける彼の姿は、シャーリーズがかつて知っていた穏やかで聡明な王子とはどこか違っていた。
やがて、夜会の来賓たちが一箇所へ集められ、王太子アゼルとその婚約者であるシャーリーズを中心として、国王夫妻が優雅に登場する。拍手喝采が起こり、広間の熱気はいっそう高まった。
シャーリーズは慣れた動作で優雅にお辞儀をする。だが、そのとき、ふと彼女の背後に立っていたアゼルの側近・ロドルフの目が、嫌悪と侮蔑に染まっているのを感じて身震いした。
ロドルフはアゼル王子の幼馴染みであり、王宮のさまざまな役職を任されている。聡明で有能、そして王太子に忠実と評判が高いが、シャーリーズに対してはなぜか常に敵意を滲ませていた。
(……なぜ、あんな目をするの?)
理由を尋ねたこともあったが、ロドルフは取りつく島もなく「貴女に用はありません」とだけ言い放った。おそらく、王家の内情や政治的思惑が関係しているのだろうが、詳細はわからない。
国王夫妻の挨拶が終わると、アゼル自らが一歩前へ進んだ。これからは、王太子としての言葉――すなわち、将来的な方針や婚約者との仲睦まじさなどを示すスピーチがなされるはずだった。会場は静まり返り、人々の視線は王子へと注がれる。
シャーリーズは内心で、(うまく取り繕わなければ……)と考えていた。何かぎこちない空気を感じる。もしやアゼル殿下は、噂が広がっていることを苦々しく思っているのかもしれない。
しかし、彼女の淡い期待は、わずか数秒後に打ち砕かれた。
アゼルは、まるで敵を見るかのようにシャーリーズを見据えると、はっきりと声を張り上げたのだ。
「……本日をもって、わたしはシャーリーズ・ラヴェルとの婚約を破棄する!」
一瞬、空気が凍りついた。自分の耳を疑い、シャーリーズは動揺で言葉が出ない。何を言われたのか理解できず、思考が真っ白になる。
そして会場は一瞬の静寂の後、蜂の巣をつついたような大混乱に包まれた。
「婚約破棄、だと……!?」「どういうことだ?」「あのラヴェル家の令嬢が一体何を……」
断片的な声が彼女の耳に飛び込んでくる。だが、その喧噪は遠く、まるで別世界の出来事のようだ。
目の前のアゼルは、鋭いまなざしを向けたまま、さらに言葉を継いだ。
「彼女は王家を支えるに足る器ではない。……裏で様々な不正に手を染め、魔力も貴族として最低限しか持ち合わせていない。国の未来を危うくする存在を、王太子妃と認めるわけにはいかないのだ!」
あまりにも唐突な断罪。根も葉もない誹謗に、シャーリーズの体は震えた。ここしばらく流れていた噂――あれは王子自身も信じ込まされていたのか?
「そ、そんな……まさか、わたしがどんな不正をしたと……?」
喉がひりつくような痛みを感じながら、ようやく声を絞り出す。
ところがアゼルは彼女の問いに答えることなく、むしろ冷徹な瞳で容赦のない言葉を浴びせる。
「お前は王宮の名を汚した。それ以上でも以下でもない」
シャーリーズの隣に立つはずの王妃や国王も、困惑や驚きを浮かべつつも、なぜか誰一人として止めに入らない。周囲の貴族たちも混乱に戸惑いながら、彼女を冷たい目で見始める。
やがてロドルフが進み出て、用意していた書簡を誇らしげに掲げた。
「ここに、彼女が辺境の魔物取引に関与した証拠文書があります。これは彼女の筆跡と酷似しており、伯爵家の印章も偽造され……」
「そ、そんなもの、知らない……!」
声を荒らげて否定したシャーリーズだが、人々の視線はすでに「裏切り者」へ向けられている。偽造文書だと彼女が叫んだところで、混乱と怒りに呑まれた会場では説得力に乏しい。
恐怖と絶望が胸を締めつける。ここで必死に弁明しても、状況が好転するとは思えない。まるで周囲が、最初から彼女を悪人として裁くために準備を整えていたかのようだ。
シャーリーズは必死に周囲を見回す。自分の父であるラヴェル伯爵、そして母も、顔を真っ青にして言葉を失っている。だが、止めに入る様子はない。むしろ、
「し、信じられない……まさか我が娘が……」
という母の呟きが微かに聞こえ、シャーリーズは目の前が真っ暗になった。
(母様、父様……どうして……?)
父と母は自分が潔白だと信じてくれると思っていた。しかし伯爵家も、この夜会での突然の告発に対応しきれず、パニックに陥っているのかもしれない。あるいは、噂が絶えず流布していたことで、疑念を拭えなくなっていたのかもしれない。
こうして孤立無援の状況に追い込まれたシャーリーズは、現実味のない感覚に陥りながらも、声を振り絞った。
「アゼル殿下……あなたは、本当にわたしがそんな悪事を働いたと思っていらっしゃるのですか?」
最後の望みをかけた問いだった。だが、アゼルは容赦なく言い放つ。
「そうだ。お前はもう、王家にふさわしくない。これ以上、近づくことは許さない」
その場に膝をつきそうになるのを必死にこらえる。伯爵家の令嬢として培った誇りが、最後の砦となって彼女を立たせていた。
しかし、周囲の視線は冷ややかだ。まるで公開処刑を見るかのように、シャーリーズの一挙一動を眺めている貴族たち。彼女は身を切られるような痛みを覚えた。
(逃げたい……けれど、ここで逃げたら、すべてを認めたことになってしまう……)
そんな思考の中、やがてロドルフがさらなる追い打ちをかけるように宣言する。
「ラヴェル伯爵家の意向としても、シャーリーズを勘当し、この件を明らかにするそうです。どなたか、これに異議を唱える方は……おりませんね?」
ロドルフの高圧的な物言いに、場内の人々は目を伏せたり、口を噤んだりしている。それも当然だ。王太子の最側近と対立すれば、自らの立場も危うくなりかねない。
父と母の視線は痛々しいほどの後悔と混乱に満ちているが、それでも彼らは口を開かない。
――孤立無援。
まるで世界のすべてがシャーリーズを拒絶し始めたように感じられ、彼女の心は恐怖で満たされた。
次の瞬間、バシャッという音が聞こえる。誰かがワイングラスを落としたらしい。その音を合図にしたかのように、シャーリーズの肩を押す力が働いた。
ロドルフが無理やりシャーリーズの腕を掴み、引き立てる。
「今宵、シャーリーズ・ラヴェルは不正の疑いにより、王宮を追放される。……その身分を剥奪されることは、伯爵家からの申し出に委ねられるがね」
このうえは抵抗しても無駄――そう悟ったシャーリーズの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。心の中では叫び声が何度もこだまするが、声にならない。
アゼルはそんな彼女を見ても、まるで興味を失ったかのように冷たい顔をしていた。いつか手を取り合って踊った日の穏やかな笑みは、どこにも残っていない。
騎士たちの威圧的な態度に押されるように、シャーリーズは王宮の大広間から引きずり出される。両脇を押さえられ、なす術もない。
戸口を抜けた廊下には、彼女と親交のあったはずの貴族令嬢の姿が見えた。しかし、彼女は怯えた様子で顔をそむける。
(もう……誰も信じてくれない……)
嘆きの思いが胸を貫き、絶望に沈みそうになる。脚が震えて意識が遠のきそうになりながら、シャーリーズは闇夜へと放り出された。
◇
荒々しく外へ押し出されると、そこは国王の馬車や衛兵が控える中庭だった。夜風が冷たい。先ほどまでの燦然とした室内とは対照的な静寂が広がっている。
「おい、さっさと乗れ」
護衛役の一人が、馬車を指し示して言う。通常であれば、伯爵令嬢が乗るような豪華なものではない。黒塗りの、王宮が持つ囚人護送用の小さな馬車だった。
シャーリーズは半ば力尽きた体で、乗り込むしかない。背後を護衛兵に強く押され、馬車の中で膝から崩れ落ちる形になった。
(こんな形で……わたしは王宮を去るのか?)
頭がぐらぐらと揺れ、目の前が暗い影に覆われる。思い返せば、物心ついたころから伯爵家の令嬢として立ち居振る舞いを叩き込まれ、優秀であることを求められた。さらに、王太子妃にふさわしい器量や気品を身につけるべく、血のにじむような努力もしてきた。
それなのに、いま得たのは婚約破棄と追放という結果。しかも、捏造された悪事の罪状まで背負わされる形だ。
馬車が出発すると、がたがたと大きく揺れる。ふと視線を落とすと、自分がまとっているはずの深紅のドレスが、すでに泥と埃で汚れかけていた。かつては「華やかで美しい」と褒められたその衣装が、いまはわずか数時間でこの有様になっていることが、シャーリーズに追い討ちをかける。
※コツン
頭が馬車の側面に軽くぶつかり、痛みを伴った。だが、その痛み以上に、胸の奥底から湧き上がる喪失感が大きい。
(どうして……どうしてこんなことに)
悔しくて仕方がない。黙って従うしかなかった自分自身にも腹立たしさを感じるが、今の彼女に抵抗する術はない。
伯爵令嬢という肩書は一夜にして失墜し、王宮との縁も断ち切られた。周囲の人々は皆、陰謀の意図を知らずに、あるいは気づいていながらも黙認しているのだろうか。それを考えると、この国そのものが恐ろしく思えてくる。
◇
馬車がガタガタと揺れながら王宮の門を抜けると、シャーリーズは護衛兵から追い立てられるように車外へと降ろされた。そこは王都セレヴェールの外れ、夜ともなれば人通りが少なく、街灯すらまばらな寂れた区画だった。
「ここまでだ。後は自由にする。……二度と王宮に近寄るなよ。下手に姿を見せれば、その場で捕縛されることになるぞ」
護衛兵は淡々と言い放ち、再び馬車を走らせる。シャーリーズをまるで厄介払いするかのように置き去りにして、闇の中へ消えていった。
とっさに追いすがる気力もない。彼女は地面に膝をつき、しばしそのまま動けなかった。深夜の冷たい空気が肌を刺し、ドレスの裾が石畳に広がる。
(伯爵家に戻っても……両親はもう、わたしを……)
追放された身で伯爵家の門を叩くことは許されないだろう。仮に向かったとしても、家門が危険にさらされるという理由で拒絶されるのは目に見えている。
絶望的な状況――にもかかわらず、泣き喚くことさえできない。彼女の中で感情がひどく麻痺しているのを感じた。ただ、ひんやりとした石畳に手をつきながら、静かに涙を落とす。
しばらくそうしていると、通りかかった馬車の御者らしき人物が、遠巻きに彼女を見てはすぐに去っていく。こんな深夜に、社交界の仮面舞踏会であろうドレスを着た女性がうずくまっているのだから、不審に思って当然だ。しかし、事情を聞いて助けたいと申し出る者はいない。関わり合いになりたくないのだろう。
シャーリーズは少しずつ呼吸を整え、何とか立ち上がる。ドレスの裾を引きずるまま、足を引きずるように暗い裏通りを進み始めた。どこへ行けばいいのか、まったくわからない。
(伯爵家に戻れないなら、泊まれる宿を探さないと……)
ひとまず、辺りに店があるか確かめようとするが、この区画は店という店が全部閉まっているか、そもそも廃業しているらしい。
夜の冷気が容赦なく体を包む。薄手のドレスでは寒さをしのげず、指先がかじかんで感覚を失いかけている。
――明日はどうする?
その問いに答えはない。求められる場所はどこにもなく、手元には何も残されていない。王宮を追放され、伯爵家との縁も断たれ、財産もすべて凍結されるかもしれない。
あまりに大きな喪失感に耐えきれず、足が縺れ、シャーリーズはくずおれるように壁に寄りかかった。呼吸が上手くできない。悔しさや悲しみが、嵐のように胸の奥をかき乱していく。
――ふと、手のひらに何か熱いものを感じた。
指先を見ると、薄暗がりでもわかるほど真っ赤な血が付着している。倒れそうになったとき、どこかで擦りむいたのかもしれない。けれど、その程度の怪我で痛むより、心が引き裂かれるような苦しみのほうが何倍も大きかった。
(……アゼル殿下。なぜわたしを信じてくださらなかったの?)
昔、ほんの少しだけ笑い合った思い出や、一緒に庭園を散歩した光景が脳裏をかすめる。あの温かい日々はすべて嘘だったのか……と疑いたくなる。それでも、あれは確かに存在した時間だったはずだ。
シャーリーズは絞り出すような声で、自問自答する。
「わたしが……王太子妃にふさわしくないって、そんな……」
声は虚空に吸い込まれていき、答えなど返ってこない。
(わたしは努力が足りなかった……? それとも、誰かに嫌われていたから?)
そんなことを考えだすと止まらなくなる。
やがて、頭の中にふと浮かんだのは、先ほどアゼル王子の後ろに控えていたロドルフの顔。あの男は、婚約が発表されて以来、一度も彼女に好意的な態度を見せなかった。王太子を守るのが仕事とはいえ、陰謀めいた動きを感じさせる鋭い視線は、常に彼女を値踏みしているようだった。
(もしかして、あの人が裏で何かを……?)
今となっては、そう疑わざるを得ない。だが、証拠もなければ、助けを乞う相手もいない。ひとりきりでどう立ち向かえばいいのか。
◇
その夜、シャーリーズは結局、街外れの小さな教会の軒先で夜を明かすことになった。幸い、門の傍には雨風を凌げる庇のような場所があった。内部は施錠されていて入れなかったが、外でもとりあえず一息つくことはできる。
深夜から明け方にかけて、氷のように冷え込む風が吹き付ける。空腹と疲労、そして精神的なショックが重なり、彼女はまともに眠ることすらできなかった。時折、うとうとと浅い眠りに落ちるが、すぐに身体の震えと痛みで目を覚ます。そのたびに、昨夜の出来事が現実であると突きつけられ、涙が枯れそうなほどに流れ落ちる。
夜が明け始めると、わずかに人通りが増えてきた。ここは王都の片隅とはいえ、商人や旅人が市外へ行き来する道沿いなのだろう。
ぼろぼろのドレス姿のまま身体を丸めているシャーリーズに、通りすがりの人々は訝しげな視線を投げかける。中には、「大丈夫ですか?」と声をかけてくれる慈悲深い者もいたが、彼女の身に起きた事情を聞くと、皆一様に顔を青ざめ、すぐに去っていった。下手に関わると自分まで王家や伯爵家の逆鱗に触れると考えるのは当然かもしれない。
こうして、誰もが離れていく。シャーリーズは改めて、自分がどれほど“居場所を失った存在”なのかを痛感させられた。
しばらくして、教会の神父らしき男が扉を開け、外に出てきた。やや白髪まじりの髪を持つ初老の男性で、柔和な瞳をしている。彼はシャーリーズを見つけると、眉をひそめてそっと近づいてきた。
「お嬢さん、こんなところで何をしているのです? もしや、困りごとがおありかな?」
その声は純粋な善意に満ちているように思えた。シャーリーズは弱り切った身体をどうにか起こし、掠れた声で答える。
「わ、わたしは……追い出されて……あの……」
これ以上何を言えばいいのか、自分でもわからない。ちぎれそうな心と体をなんとか繋ぎ止めながら、涙で顔を歪める。
「おやおや、これは……よほどのことがあったのでしょうな。私でよければ話を聞きますよ。中へお入りなさい」
男は静かにそう言って、扉を少し開き、中へ誘ってくれた。
冷え切った体で立ち上がると、シャーリーズは足元がおぼつかず、前のめりに倒れ込みそうになる。男は咄嗟に支え、優しく声をかける。
「ゆっくりでいいのですよ。急がなくて構いませんから」
彼女はその言葉に救われるような気持ちで、そっと教会の敷居をまたいだ。
教会の内部は、それほど広くはないものの、清廉な空気に包まれていた。窓から差し込む朝の光が美しい。シャーリーズは古びた木のベンチに腰掛けると、ほっと息をつく。
(……やっと座れた……)
頭がくらくらして視界がぼやける。神父が小さな水差しを持ってきてくれたので、一口飲むと、乾ききった喉がわずかに潤った。
「お嬢さん、あなたのお名前を伺っても?」
うまく言葉が出ない。名乗れば、もしかすると教会も危ない目に遭うかもしれないと逡巡するが、やはり嘘を言う気にはなれなかった。
「……シャーリーズ、といいます。ラ……ラヴェル伯爵家の……」
「ラヴェル伯爵家……というと、先の夜会で何やら大きな騒動があったと聞きましたが……」
神父は眉をひそめつつ、その言葉を飲み込むように口を閉じる。そして、深く事情を詮索することはせず、ただ困ったように微笑んだ。
「なるほど、そういう事情があったのですね。ならば、当教会としても……正直に申し上げると、保護に踏み切るのは難しいかもしれません。私個人の気持ちは別ですが、この教会は王宮や貴族の支援も受けていましてね……」
その言葉に、シャーリーズは暗澹たる気持ちになる。善意を持つ人が目の前にいても、彼らは“王家”や“貴族社会”という強大な力の前では無力に等しい。
「……お気持ちは、十分ありがたいです。少し、休ませていただけるだけで」
必死に笑みを作って答えると、神父は気まずそうにうなずいた。
「ここは私が管理している教会ですが、組織の上には大司教がおり、さらにその上は……ご存知のように王家との結びつきがあります。お嬢さんを匿うとなると、私にも大きな罰が下る可能性がある。それは怖いのです」
神父の言葉には、彼の人柄がにじみ出ていた。つまり、彼は決してシャーリーズを見捨てたいわけではない。けれど、現実として、彼が自分の身を顧みずに彼女を救ってくれる可能性は限りなく低い。
(本当に……わたしには、もう行くあてもないのか)
悲しみが再び胸に押し寄せる。だが、この神父のように、親切心を持って接してくれる人がいるだけでも、まだ救いなのかもしれない。
「少なくとも、今朝の礼拝が終わるまでの間なら、ここで休憩していて構いません。朝食が少しありますので、よろしければ差し上げましょう」
そう言って神父は簡素なパンとスープを持ってきてくれた。パンは少し硬く、スープも具が少なくて質素なものだったが、シャーリーズにとってはどんなごちそうよりありがたかった。
「ありがとうございます……」
震える手でパンをちぎり、口に運ぶ。わずかに胃が温まる感覚に、また涙が出そうになった。
◇
その後、神父は朝の礼拝の支度があるからと席を外し、シャーリーズは一人でベンチに腰を下ろしていた。教会の壁には聖人の絵や、古びた木の十字架が飾られている。どこか安らぎを与える空間ではあったが、彼女の不安はまったく消えなかった。
婚約破棄――しかも、捏造された罪のせいで、王宮を追放された。今後、ラヴェル伯爵家とも縁が切られるだろう。噂が広まれば、王都のどの宿屋も、彼女の身分を受け入れてはくれないかもしれない。
それどころか、自分が街を歩いているだけで、あの護衛兵やロドルフのような人間が「不正を働いた伯爵令嬢だ」と罵声を浴びせる可能性もある。そう考えると、王都に留まるのは危険極まりない。
(でも、こんな状態で王都を出たら、行き先もなく放浪することになる。それはそれで……)
シャーリーズは頭を抱えた。今まで培ってきた礼儀作法や高貴な知識は、追放された身では重荷でしかないかもしれない。料理や洗濯といった庶民の生活力をまったく身につけていないのだ。
(……どうすればいいの?)
考え込むうちに、不意に目の前がちらつき、意識が遠のきかける。昨夜から休めていない身体は限界近い。
小一時間ほどぼんやりしていたところで、入口付近から重そうな扉の開閉音が聞こえた。神父かと思って顔を上げると、そこには粗末な外套をまとった若い女性が立っていた。
「……ごきげんよう。あなたは……?」
その女性は、神父の身近で働いている修道女だろうか。それとも教会の使用人かもしれない。髪は短く、質素な身なりをしているが、瞳には優しげな光が宿っている。
「わたしは……ただの、困っている人です」
シャーリーズが答えると、相手はわずかに苦笑した。
「ここにいるってことは、神父様が何かお計らいを? 良かったですね。王都には色々な人がいますから……教会に来たのは正解ですよ」
彼女はそう言うと、少し申し訳なさそうに口を結んだ。どうやら、シャーリーズの“高貴そうな容姿”に気づいてはいるものの、あえて踏み込んでこないようだ。
「もし身の安全を考えるなら……なるべく早く別の場所へ移ったほうがいいかもしれません。この教会も、実はそこまで安心じゃありませんから」
ぼそりと漏らされた言葉に、シャーリーズは動揺する。
「それは……どういうことですか?」
「ここ数年、王国は貴族同士の権力争いが激化していて、教会も巻き込まれているんです。大きな寄付をしてくれる貴族や、王家の顔色を窺わなければならない立場の神官もいる。もしあなたが何か大きな問題に関わっているのなら、神父様だけでは守りきれないかもしれない」
修道女の声には現実的な憂いがある。彼女は単に優しいだけでなく、きちんと世の中の仕組みを理解しているのだろう。
シャーリーズは少し迷った末、正直に口を開いた。
「……実は、わたしはラヴェル伯爵家の娘で……昨夜、王太子殿下から婚約を破棄されて、追放されたんです。身に覚えのない罪を着せられて……」
聞いた相手は目を丸くし、一瞬言葉を失った。が、すぐに同情が混じった表情に変わる。
「なんてこと……あなたが噂の伯爵令嬢、シャーリーズさまで……。どおりで、その……高貴な雰囲気をお持ちだと」
修道女はショックを受けているようだが、すぐに意を決した様子で言葉を続けた。
「ここにいるのは危険でしょうね。少しばかり私に心当たりがあるのですが……すぐに動けますか? 王都の外れに、身を隠せるかもしれない場所があるんです」
その言葉に、シャーリーズは胸が高鳴る。まったくの他人である彼女が、自分を助けようとしてくれているのだ。
「本当ですか……? でも、あなたにご迷惑が……」
「もしかしたら、私自身が危険を被るかもしれません。でも、放っておけない。最悪、あなたが今この教会にいることが世間に知れ渡ったら、それこそ神父様にも迷惑がかかりますから」
正論だった。シャーリーズは一瞬躊躇したが、修道女の毅然とした表情を見て、すがるように決断した。
「……わかりました。お願いします」
すぐに身支度を整えると言っても、シャーリーズが持ち合わせているのは汚れたドレスだけ。まともな上着すらない。そこへ、修道女が古い外套を差し出してくれた。
「寒さをしのぐためにはこれが必要でしょう。私の古着ですが、ないよりましです」
彼女の優しさに胸が熱くなる。シャーリーズは外套を羽織り、修道女とともに教会を出た。扉を閉める前に神父の姿を探したが、礼拝の準備に忙しいのか姿は見えない。お礼を言えなかったのが心残りではあるが、今は一刻も早く安全な場所を探すべきだ。
修道女の名はリディアといった。リディアはシャーリーズを促しながら、裏通りの細い路地をくねくねと抜けていく。早朝のため人通りは少なく、ふたりの存在に気づく者はほとんどいない。
「私が知り合いに頼んで、馬車を用意してもらいます。王都の外れにある小さな村まで行きましょう。そこなら、噂も広まりにくいです」
そう言って、リディアはテキパキと行動している。こうした手際の良さを見ると、修道女になる前は、もしかしたら街で働いていたのかもしれない。
小一時間ほど経ったころ、裏道にひっそりと停められた荷車が見えてきた。荷馬車と呼ぶには少々小さめだが、乗って移動するには十分な大きさ。そこには年配の御者が待っていて、リディアに気づくと軽く手をあげた。
「おお、リディアか。こちらの嬢さんが噂の……?」
「ええ。あまり余計なことは聞かないでほしいの。申し訳ないけど、どうしても馬車をお借りしたいのよ」
御者は事情を深く聞こうとはしなかった。金銭的なやりとりがあったのかもしれないが、シャーリーズには知る由もない。
こうして彼女は、リディアとともに王都を離れる馬車に乗り込む。伯爵家での華やかな社交馬車とは比べものにならないほど粗末だが、いまの自分にはこれで十分すぎるほどだ。
木製の板がむき出しの荷台に腰掛けながら、シャーリーズはぎこちなくリディアに話しかける。
「あなたは、どうしてそこまで……」
馬車が動き始めると同時に、彼女は質問を口にした。
リディアは苦笑いを浮かべて、少し恥ずかしそうに目を伏せる。
「実は私、昔少しだけ貴族の屋敷で雑用をしていたことがあるの。そこはそれなりに立派な家だったけど、裏では酷い搾取や権力争いがあって……。結局、逃げ出す形であの屋敷を去ったのよ。そのときに恩を受けたのが、今の神父様と教会だったの」
だからこそ、困っている人を見ると放っておけない――リディアはそう言外に伝えていた。
シャーリーズは、彼女の言葉を聞いて小さく微笑む。
「ありがとう、リディア……」
それは今のシャーリーズにとって、心からの感謝の言葉だった。自分が貴族として生きてきた日々を思い返すと、決して当たり前の存在ではなかった人々の優しさが、今の彼女に唯一の救いをもたらしてくれている。
王太子との婚約破棄、実家からの追放――どれほどの苦難が待ち受けているのか、まだわからない。けれども、シャーリーズの心には、小さな光が生まれつつあった。
(わたしは、これからどうすればいいのだろう。でも、もう戻れない以上、前に進むしかない……)
馬車はガタゴトと揺れながら、王都の門を抜ける。外には広大な平野と、遠くに連なる山々が見える。空気は澄んでいて、朝日があたりを照らしている。
思えば、伯爵令嬢として過ごした日々は、王都という限られた範囲でのみ息苦しく生きてきた。今、こうして外の世界を目にすると、奇妙な開放感すら感じる。
だが、それも束の間の安息かもしれない。この先、噂が広がり、敵意を向けられる可能性は高い。
しかし、シャーリーズは自らを鼓舞した。
(このままでは終われない。きっと……真実を突き止める機会を見つけてみせる)
誇りをすべて奪われ、名誉を失いかけた今だからこそ、一層強くそう願う。
やがて、王都の高い城壁が遠ざかり、視界から消えていった。その向こう側では、あの夜会の熱狂と混乱が、まだ渦を巻いているのだろう。
シャーリーズは震える手を胸元で握りしめ、再び涙をぬぐった。後ろ髪を引かれる思いはあるが、今はただ、前を見るしかない。そして必ず、すべてを明らかにしてみせよう。
――追放された伯爵令嬢の物語は、こうして始まりの幕を開けたのだった。