「初めまして、羽闇様。
壱月さんと名乗るその執事服の男性は、薄い笑みを浮かべながら私に深々と頭を下げる。その所作は洗練されており、無駄な動きが一切ない。吸い込まれそうな深みのある紫色の瞳、白い肌によく映えているさらりと揺れる紺色の髪。とても美しい男性ではあるが、彼の笑みはまるで仮面の様に貼り付けられたものに感じた。
「大旦那様。現在、羽闇様を狙っているとされる組織達の情報データをお持ち致しました。」
壱月さんは静かに足を進め、大切そうに手に持っていた分厚い書類の束を大旦那様の重厚な机に丁寧に置いた。
「ご苦労だったな、壱月。ふむふむ…さて、どうする羽闇?これだけの組織の者共がお主を血眼で捜索しているみたいだぞ。」
大旦那様は壱月さんから渡されたデータを軽く目を通した後、その紙をひらひらと私にわざとらしく見せびらかす。
「羽闇様。此方にお住まいになりましたら、我々は全力で貴方をお守りする事が出来ます。日常生活でも何不自由させる事はありません。もし今後、引き続きあのアパートにお住まいになるのであれば貴方は間違いなく組織へと誘拐されるでしょう…そうなると流石の我々でも貴方の捜索が困難となる可能性も御座います。」
「でも、このペンダントのおかげで私はもう戦う事も出来るんでしょ?さっき大旦那様が、月の姫の歌は色んな能力を発揮するって―…」
「それはあくまで伝説です。もしそれが仮に本当だとしても、彼等は何十年も厳しい訓練をこなしてきた様な連中ですよ。ましてや、月姫様の力を発揮したとはいってもまだ覚醒されていない貴方では戦う事すら不可能でしょう。」
私と壱月さんは睨み合うも、彼は引き下がる様子は全くない。どうやら私にはもうこの選択しかないらしい。
「…ハァ、わかった。此処で暮らせば良いんでしょ。」
それに、何処の誰だか分からない様なチンピラの花嫁になるなんてまっぴらごめんだ。殺されるなんてもっとごめん。
取り敢えずここはお言葉に甘えさせて頂こう。
「よし…決まりだな。では、これより羽闇を『月の姫』としてこの月光家に迎え入れる。」
「羽闇様、これから宜しくお願い致します。」
「…此方こそ宜しくお願いします。」
これからは大旦那様や壱月さんにお世話になる事になるんだ―私は二人にお辞儀をする。
「さて、羽闇よ。お前には今後、月の姫としてその力で人々を守るという大いなる使命がある。そして、代々月の姫が受け継いできた聖なる血筋を絶やさぬよう、お前には複数の
…………え?
………………………思考が止まってしまった。
この人、今何て言った?
こ、婚約者?伴侶?後継者って、一体どういう事?
頭の中で、二つの言葉が台風の様に渦巻いている。
「はあぁ〜!?ちょっと待ってよ!そんな話、私聞いてないんだけど!!」
私は、思わず大旦那様の机を思い切り叩いた。バァン!と音を響かせると、大旦那様が飲んでいたであろう珈琲がゆらゆらと揺れている。
「そりゃあ、今言ったばかりだからな。」
よくも、そんなに平然とした顔で……!目の前の大旦那様のその様子が、私をますます苛立たせる。
「月の力を発揮出来なければ、二十五歳で死に至ると言ったな。だが、力を発揮したところで終わりではない。単に条件が切り替わるというだけだ。しかし、周囲の人間が伝染病の様に次々と死んでいく呪い。この呪いは力を発揮すれば完全に
「条件が切り替わる…?それってつまり、月の力を発揮した人でも新たな条件を満たさないと結局二十五歳で死んでしまう事には変わりない…そういう解釈で合ってる?」
「理解が早いな、その通り。力の発揮…月姫に選ばれた者の寿命の呪いを解く為の条件は、『二十五歳となる前に結婚し、力の有り無しに関わらず女の後継者をもうける事』だ。この条件を満たせなかった場合は、力の発揮出来なかった者と同様―
大旦那様は机に目線をやりながら、静かに言葉を続ける。
「…これは歴代の月姫の話になるのだが、この者には想いが通じ合っていたとされる婚約者がいたらしい。だが、その婚約者はある日突然姿を消してしまってな。そして、歴代は結婚も子を宿す事も出来ぬまま二十五歳となり…死に至ってしまった。そう月光家の歴史に刻まれているのは確かだ。」
「先々代の月姫様ですね。私も月光家の歴史については色々と調べさせて頂いた事が御座いますが、その失踪した婚約者というのは確か月光家の情報を入手目的とした組織のスパイだったとか。そして月の力を発揮出来なかった者―この家では『欠片』と呼ばれているのですが、先々代の死因はその欠片達と同様だったらしいのです。」
壱月さんは「もし月光家の歴史に興味がありましたら屋敷にある書斎へどうぞ。」と、告げながら私に微笑んだ。
「…事情は分かった。でも月光家が選んだ相手だって、結局はその歴代の婚約者みたいに私を裏切る可能性だってあるじゃない…!」
それに手が届かないと分かっていても、私には好きな人が…!
「だからこそ、しっかり見極めて愛を育めると思える相手を選べば良いんじゃん♪」
その声と同時に背中に温もりを感じ、気付けば私は見知らぬ男性に後ろからそっと抱きしめられていた。