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第26話【月の撫子】

「…また駄目でした。」


私は、力なく呟いた。差し出された撫子の鉢植えは先程よりも僅かに色を取り戻したものの、完全に回復するには至らなかった。私の歌声は相変わらず不安定で、撫子の生命力を十分に引き出すことが出来ない。


「いいえ。少しだけれど、先程よりも歌声の波長が安定していたわ。少しずつ力の制御が出来るようになってきている。」


有栖川さんの言葉は凪いだ水面の様に静かだけれど、その奥には決して揺るがない強い意志が感じられる。彼女の言葉に私は縋り付くように顔を上げた。


「力の制御ってこんなにも難しいんですね。」


「まぁ、そうね。月の力はかなり特別なものだから。生半可な覚悟では、到底扱いきれないわ。」


私は正直な気持ちを吐露すると、有栖川さんは静かに頷く。月の力を操る事は想像を絶する困難を伴う。


「月の力は生命を育む優しい力であると同時に、全てを破壊し尽くす強大な力でもあるの。その両方を理解し、制御する事が今の貴方に課せられた使命よ。」


「…はい。頑張ります。」


「じゃあもう一度試してみましょうか。今度は歌声の波長だけでなく、歌に込める感情にも意識を向けてみて頂戴。撫子の生命力を引き出すイメージをより具体的に思い描くの。」


有栖川さんの指示に従い、私は再び撫子の鉢植えに向き合った。目を閉じ、呼吸を整え、心を静める。そして、枯れかけた撫子が私の歌声によって徐々に色を取り戻し、力強く咲き誇る光景を目の前にあるかの様に鮮明に思い描いた。


「(撫子よ、力を取り戻して…!)」


私は心の中でそう願いながら、そのイメージを歌に乗せて歌い始めた。先程よりも歌声に力がこもっているのがわかる。撫子の生命力を呼び覚ますという強い意志が、歌声に乗って響き渡る。すると、光の粒子が安定し始め、撫子が徐々に色を取り戻していく。その変化を私は息を呑んで見守る。しかし、完全に色を取り戻すにはまだ力が足りなかったのか。花弁は薄い桃色を取り戻したものの、葉はまだ生気を失い、全体的に何処かくすんでいる。


「…駄目でした、もう少しなのに。」


私は思わずそう呟き、悔しさを噛み締めながら目の前にある撫子の鉢植えを見つめ、歯噛みした。


「…羽闇様、本日はここまでと致しましょう。」


静かに、しかし毅然とした声が私の耳に届いた。声の主は壱月だった。彼はいつもの様に冷静な表情で私を見つめている。


「え…?待ってよ、壱月!もう少しで…!」


「羽闇様は既に長時間集中して特訓をされております。これ以上続けても集中力が途切れ、かえって効率が悪くなるかと。」


壱月の言葉にハッとした。確かに私はいつの間にか時間の感覚を失い、只ひたすらに撫子の花と向き合っていた。


「…そう、だね。分かったよ。」


私は素直に壱月の言葉を受け入れた。まだ完全に納得したわけではないけれど、彼の忠告を受け入れるだけの落ち着きを辛うじて取り戻していた。


「有栖川様、折角来て頂いたところ申し訳御座いません。」


壱月は有栖川の方へ向き直り、丁寧に頭を下げたながら静かにそう告げた。


「別に構わないわ、これも想定内だもの。むしろ、この短時間でそこまで到達するとは少し驚いた位だわ。」


有栖川さんは淡々とした口調で答える。表情からは感情を読み取る事は難しかったけれど、その言葉には私の成長に対する確かな期待が込められていた。


「では、羽闇様。長時間にわたる特訓、誠にお疲れ様で御座いました。明日の特訓に万全を期す為、今宵はご自室にてご静養下さいませ。」


私は小さく頷き、壱月と共に部屋を出ようとした。その時だった。


「…ねぇ、羽闇さん。少し宜しいかしら?」


背後から有栖川さんに呼び止められると私はきょとんとした表情を浮かべながら足を止め、振り返る。有栖川さんはいつものように感情の起伏を一切感じさせない、冷静な表情で私を見つめていた。


「はい、何でしょうか?有栖川さん。」


「確かに今回はまだ完全に撫子を咲かせる事は出来なかった。けれど、貴方の歌声は確実に成長しているわ。焦らずに根気強く続ける事が大切よ。月の力は感情と深く結びついている。自分の感情と向き合い、それを歌に乗せる事でより強い力を引き出せるのよ。明日からはその点を意識して特訓に臨んでみて欲しいの。」


有栖川さんは私の努力を評価しつつも、感情的な言葉は一切使わなかった。そして、私がこれからどうすればいいのか的確な指示を与えてくれる。私は彼女の言葉に、再び前を向く力を得た。


「分かりました!有栖川さん、今日は本当にありがとうございました。」


有栖川さんの言葉に私は背筋が伸びる思いだった。厳しいけれど、ちゃんと見ていてくれる。


「いい返事ね。今日はもう休みなさい、敵だっていつ襲ってくるか分からない…明日の特訓の為にしっかりと体を休めて。」


有栖川さんはそう言い残すとくるりと背を向け、部屋を出て行った。彼女が部屋を去った後、壱月は私の肩にそっと手を置いて優しく微笑みかけた。その微笑みは言葉以上に私の心を癒した。


「さあ、お部屋に戻りましょう。」


壱月の手のひらから伝わる温かさが、今日の特訓で張り詰めていた私の心をゆっくりと解きほぐしていく。私はまだ少し名残惜しく、最後に一度だけ撫子の鉢植えに視線を送った。そこには、私の歌でほんの少しだけ色を取り戻した花弁が控えめな光を浴びて静かに佇んでいる。


「…うん、今行く。」


私は小さく頷き、壱月の隣に並び立った。足取りはまだ鉛の様に重くて、今日の特訓で使い果たしたはずの力が、まだ体の奥底に残っているみたいだった。廊下を歩きながら、壱月が穏やかな声で話し掛けてくれた。


「今日の羽闇様は本当によく頑張られました。有栖川様が仰る通り、着実に力を制御出来るようになっています。焦る気持ちは分かりますが、力は一朝一夕に身につくものではありません。大切なのは、諦めずに一歩ずつ前に進む事です。」


「…壱月の言う通りだよね、その言葉を信じて焦らずに進んでみるよ。ありがとう。」


私は壱月の優しい言葉に小さく微笑み返した。けれど、心の奥底では焦燥感が渦巻いていた。いつ敵が襲ってくるか分からないのだ。壱月に連れられて自室へと戻ると、私はそのままベッドに倒れ込んだ。今日一日、力の制御に集中し、心身ともに疲れ切っていた。夢の中では枯れかけた撫子の花が私の歌声に反応し、薄紅色の花弁が月の光を浴びて、宝石の様にキラキラと輝きながら僅かに色を取り戻していく光景が繰り返される。そして、その光景は私に諦めない勇気を与えてくれるのだった。




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