潮風が、頬を冷たく撫でた。
早朝の空気は思いのほか澄んでいて、肌にまとわりつく湿気さえも、この町ではどこか優しかった。
駅前のロータリーには人気がなく、まだどの店のシャッターも下りたまま。
干物のにおいと、潮の香りが混ざり合った空気の中で、蒼司はひとり、古びたベンチに腰を下ろした。
長い夜だった。
東京を夜行バスで発って、ここに着いたのは午前五時を少し回った頃。
眠ったような、眠っていなかったような、そんな中途半端な感覚が体の奥に残っていて、頭がまだ霞がかっている。
この町に来たのは、ただの気まぐれだった。
スマートフォンの地図アプリを開き、適当にスクロールして指が止まった場所。それが、ここだった。
何かを期待していたわけじゃない。
何かを探していたわけでもない。
ただ、どこか知らない場所で、自分という存在が薄くなるのを感じたかった。
ポケットから、小さな黒いケースを取り出す。
妹が遺していったカメラ。
もう二度と、彼女がシャッターを切ることのないそれを、蒼司はずっと手放せずにいた。
(……どうして、こんなに重たく感じるんだろう)
そのカメラは決して大きくない。だけど、持つたびに胸が痛んだ。
妹が最後まで大切にしていたもの。
入院先のベッドで、弱々しい声で言った言葉が、今も耳の奥に残っている。
――お兄ちゃん、写真って、いいよね。時間を閉じ込めてくれるから。
蒼司は、そっと目を閉じた。
時間が止まったままの心を抱えて、それでも今日もまた、朝が来る。
気づけば、空がゆっくりと白み始めていた。
遠くの水平線が淡い桃色に染まり、波がかすかに音を立てて打ち寄せている。
彼は、ベンチから立ち上がった。
防波堤の方へと足を向ける。
なぜか、その先に“何か”がある気がした。
数分も歩けば、町の喧騒は完全に消えた。
広がるのは、静かな海と、白く塗られた防波堤、そして風の音だけだった。
そして――その先に、ひとりの少女がいた。
防波堤の端に、ぽつんと腰をかけている。
白いワンピースに身を包み、風に揺れる髪を押さえながら、何かを見つめていた。
手にはスケッチブック。
鉛筆を動かす指先が細くて、儚い。
その姿は、どこか現実味がなかった。
まるで、誰かの夢の中にだけ存在しているような、そんな空気を纏っていた。
ふと、彼女が顔を上げた。
「……ねえ、それ、人を撮るやつ?」
不意に声をかけられて、蒼司は足を止める。
そして自分の肩に下げていたカメラを見た。
「ああ……まあ、一応は」
「最近は、撮ってる?」
少女の瞳は、まっすぐで、嘘がなかった。
その透明さに、蒼司は少しだけ戸惑いを覚える。
「人は……あまり。風景ばかり」
「ふうん、じゃあ私は安心だ」
彼女はそう言って、ふっと微笑んだ。
けれどその笑顔は、どこか寂しげで。
ほんのわずかだけど、“終わり”の匂いがした。
次の瞬間、突風が吹いた。
彼女の持っていたスケッチブックが風にあおられ、数枚の紙が宙に舞う。
「あっ……!」
少女が手を伸ばすより早く、蒼司は動いていた。
一枚を空中で受け止め、もう一枚を足元で拾い上げる。
描かれていたのは、病室の窓辺だった。
点滴のチューブ、白いシーツ、ベッドの上の花瓶。
その奥には、曇った空と、ぼんやりとした夕陽。
「見ないで。……恥ずかしいから」
少女が、そっと言った。
けれどその声は震えていた。
「これ、病室……?」
問いかけると、彼女は小さくうなずいた。
「うん。……私、たぶん、来年の春は見られないから。
今のうちに、いろんな景色、ちゃんと焼きつけておきたいの」
「来年の春は、見られない……?」
蒼司はその言葉を、すぐには受け止めきれなかった。
少女は微笑んでいた。けれどそれは、慰めのような、予防線のような、壊れやすいガラス細工のような笑顔だった。
「なんてね。嘘かもしれないし、本当かもしれない。……こういうの、言ったもん勝ちだよね」
小さく肩をすくめると、彼女はスケッチブックの紙をそっと重ね直した。
風で折れた角を直すように指先が動く。
その手の甲には、点滴の痕のような、薄い色のあざが残っていた。
「ごめんね。朝から変なこと言っちゃって」
「いや……」
蒼司は言葉を飲み込んだ。
何を返せばいいのか分からなかった。
“頑張って”とも言えなかったし、
“生きて”とも言えなかった。
それは、あまりにも無責任な願いに思えた。
「あなたは、旅人?」
話題を変えるように、彼女が訊いた。
「旅っていうほど、立派なもんじゃない。ただ……逃げてるだけ」
「なにから?」
「全部。……自分からも、誰かからも」
少女は、その言葉に反応を示さなかった。
ただ、静かに目を伏せて、唇をきゅっと結んだ。
沈黙が、潮の音に溶けていく。
でも、それは苦しいものじゃなかった。
たった今出会ったばかりのはずなのに、なぜか息苦しさはなかった。
「名前、聞いてもいい?」
彼女が、ふと問いかけてきた。
蒼司は少しだけ迷って――そして、小さく首を横に振った。
「……たぶん、今は知らないほうがいい」
「そっか」
少女も、それ以上は追及しなかった。
不思議な子だった。普通なら、興味本位でもう一歩踏み込んでくるのに、それをしない。
「じゃあ、私のも……適当なやつ、教えとくね」
くるりと防波堤の上で踵を返しながら、少女は笑った。
「私の名前は、――灯(ともり)。ひらがなじゃなくて、ちゃんと“火”が入ったやつ。燃えかけてるみたいな名前」
それが本当の名前ではないことは、すぐに分かった。
けれど蒼司は頷いた。
「……灯さん」
「うん、似合ってる?」
「ちょっとだけ」
少女はくすっと笑い、視線を海へ向けた。
「海って、いいよね。終わりみたいで、始まりみたいで」
「……よく来るの?」
「ううん、今日が初めて。でも、なんか引かれたんだ。
もう、来られないかもしれないから」
その言葉に、また胸の奥がざわつく。
「君の描いた絵、すごく……優しい」
思わず、そう呟いた。
複雑な構図でも、技術的に上手いというわけでもない。
けれど、一枚一枚に“何かを残したい”という願いがこもっていた。
「うれしい。……絵ってね、自分のために描くものだって、ずっと思ってた。
でも最近、“誰かのために”も、悪くないかなって」
「誰かって?」
少女は、答えなかった。
ただ、遠くの海を見ながら――目を伏せて、小さく息を吐いた。
「ねえ。あなた、明日もここに来る?」
唐突な言葉に、蒼司は思わず顔を上げた。
「……わからない。気まぐれで来たから」
「そっか。じゃあ、もしも、また会えたら。
そのときは……もう少しだけ、名前の話をしてもいい?」
「……ああ」
そのときの、彼女の笑顔が――
どこまでも穏やかで、どこまでも、切なかった。
まるで、もうそのときが来ないと知っているかのように。
翌朝、蒼司は、昨日と同じ道を歩いていた。
予定はなかった。
理由もなかった。
けれど、胸の奥にぽつんと残った少女の声が、潮の音に重なるように響いていた。
「また会えたら、名前の話をしてもいい?」
あの笑顔が忘れられなかった。
まるで最初から、すべてを知っているような目をしていた。
防波堤にたどり着くと、そこには誰もいなかった。
風だけが昨日と同じように吹いていて、波の音だけが変わらずそこにあった。
蒼司は、肩に下げたカメラを見下ろす。
結局、昨日も一枚もシャッターを切れなかった。
あの子を撮りたいと思ったのに、どうしても、レンズを向けられなかった。
――人を撮るのって、怖いよな。
心のどこかで、そう呟いた。
その人がいなくなってしまったあと、写真だけが残る。
それが、たまらなく怖い。
蒼司が妹を亡くしたのは、大学三年の春だった。
「余命一年です」と告げられてから、家族はみんな必死だった。
奇跡を信じて、医学の可能性を信じて、少しでも希望があるならと手を尽くした。
けれど、病魔は静かに、けれど確実に、彼女の体を奪っていった。
写真が好きだった。
花や空や、家族の後ろ姿を、いつも笑いながら撮っていた。
「記憶って、すぐに薄れるでしょ? だから、ちゃんと残しておきたいの」
そう言って、何度もシャッターを切っていた。
彼女が亡くなったあと、部屋に遺されたSDカードには、数え切れないほどの写真が残っていた。
でも、どれだけ見返しても――
もう、その声も、温度も、戻ってはこなかった。
蒼司はカメラをしまい、ベンチに腰を下ろした。
潮の匂いが、昨日より少しだけ強くなっている気がした。
「……来ないか」
呟いた声は、風にかき消された。
そのとき、足音がした。
細くて軽い、サンダルのような足音。
そして、どこか申し訳なさそうな声が、背後から聞こえた。
「ごめん、待った?」
振り向くと、そこに昨日の少女――灯が立っていた。
今日は白い帽子をかぶっていて、ワンピースの色も水色に変わっていた。
「……来ると思ってなかった」
「うん、私も。……でも、来ちゃった」
彼女は隣に座り、スケッチブックを膝に広げた。
「昨日描いてたの、ちょっと直したかったの」
彼女が広げたページには、昨日の防波堤の風景が描かれていた。
そこに、小さく、ベンチに座る人影が追加されていた。――蒼司だった。
「……勝手に描いて、ごめん」
「いや、……ありがとう」
そう言って、彼は初めて、自分からカメラを構えた。
「撮っても、いい?」
灯は驚いたように目を見開いて、でもすぐに、ふんわりと微笑んだ。
「うん。……今なら、たぶん平気」
シャッターが切れる音が、小さく響いた。
それは、蒼司が“誰か”に向けて撮った、久しぶりの一枚だった。
写真を撮られるのが苦手な子だと思っていた。
けれど、ファインダー越しに見た彼女は、思いのほか自然だった。
風に揺れる髪、帽子の影にかかるまつ毛の曲線。
カメラを向けられることに慣れていないはずなのに、彼女の表情は、どこか懐かしいようなやわらかさを持っていた。
「すごいね、音が」
灯はシャッター音に少し驚いたように言った。
「なんか、ちゃんと“撮られた”って気分になる」
「今どきのカメラは、もっと静かなんだけどな。……これは、古いやつだから」
「でも……あたたかい音だね」
蒼司は少しだけ笑った。
“あたたかい”という言葉を、誰かがこのカメラにくれたのは初めてだった。
「その帽子、似合ってる」
そう言うと、灯は指先でつばをつまんで、くるんと回して見せた。
「これ、病院の売店で買ったんだ。退院のとき、先生が“紫外線に気をつけて”ってうるさくて」
病院。
その言葉に、蒼司はふと表情を曇らせる。
「……病院って、今も?」
「うん。通院、っていうより、基本は入院生活。外出許可が出るのが、火曜と金曜だけ。……今日がその金曜日」
彼女は笑いながらそう言ったが、その笑みに滲む疲労感を、蒼司は見逃さなかった。
「この町の病院?」
「ううん。もうちょっと山の上の方。救急もやってる大きい病院。景色は良いけど、ごはんはまあまあ」
何気ない口調だった。
まるで、自分の命に期限があることを特別なこととは思っていないような、そんな話し方だった。
「君は……怖くないのか」
その問いに、灯は一瞬だけ、目を伏せた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「怖いよ。でも、それよりも“知られたくない”って気持ちの方が大きいかな。
かわいそうって思われるの、すごく、苦手で」
蒼司は黙って聞いていた。
風が、帽子のリボンを揺らす。
「私さ、長くは生きられないんだって、小さい頃からずっと言われてきたの。
でもね、それって、最初はすごく苦しくて。だけど、あるときから、ちょっとだけ見え方が変わったの」
「どう、変わった?」
「“限られてる”ってことは、“選べる”ってことでもあるんだなって。
何を大切にして、誰と過ごして、どこで笑いたいか。選ぶ時間だけは、誰よりも真剣だから」
その言葉に、蒼司は返す言葉を見つけられなかった。
胸の奥が静かに、だけど確実に締め付けられる。
彼女は、時間の流れ方が違う。
この世界で、同じ季節を何度も迎えられないことを知っている。
それなのに、こんなふうに、穏やかな顔で笑えるなんて。
「君は……強いな」
「ううん、弱いよ。だから、強いフリをしてるだけ」
灯は、少し照れたように笑った。
「でも、“選ぶ”ってことに関してだけは、少しだけ自信があるの。
たとえば、今日この場所に来たこととか、君と話したこととか。……きっと、間違ってなかったって思えるから」
蒼司は、何も言わずに頷いた。
その瞬間、彼の中で何かがわずかに動いた気がした。
止まったままの時間が、ほんの少しだけ、音を立てて軋んだ気がした。
太陽が、水平線の向こうへ傾き始めていた。
町の空はうっすらと金色に染まり、波がきらきらと輝いていた。
午後の柔らかな日差しが、ふたりの影を長く引き伸ばしている。
灯は、防波堤の端に立ち、ゆっくりと風を受けながら空を見上げていた。
どこか遠くを見るような、少し寂しげな目だった。
「そろそろ戻らないと。……門限、あるんだ」
「そうか」
蒼司はそれ以上、何も言わなかった。
この数時間が、彼にとってどれほど特別だったのか、彼女に伝えるには言葉が足りなかった。
灯は、スケッチブックを閉じて、そっと胸に抱えた。
今日描いた景色は、まだ未完成。けれど、彼女の中では、きっともう完成していたのだろう。
「次は……火曜日。もし、また晴れたら」
「来るよ。……絶対に」
その言葉に、灯は小さく笑った。
「じゃあ、そのときは……名前、聞かせてね?」
「うん。……約束する」
灯は帽子を押さえながら、ゆっくりと歩き出した。
小さなリュックを背負い、背中はどこか頼りなくて、でも不思議とまっすぐだった。
蒼司はその後ろ姿を、ただ黙って見つめていた。
何かを言おうとして、けれど言えずに、そっとカメラを構えた。
――シャッター音が、静かに鳴る。
それは、たったひとつの背中に向けた、たった一度の祈りのようだった。
誰にも知られずに、誰にも気づかれずに、
その瞬間だけが、永遠になることを願って。
灯が曲がり角に消える。
そのとき、ほんの少しだけ振り返って、手を振った。
それは、言葉にしない“またね”だった。
蒼司は、軽く手を挙げて応えた。
そして、深く息を吸い込む。
胸の奥に、何かが確かにあった。
もう二度と、誰かを撮ることなんてできないと思っていた。
けれど今――彼は、もう一度シャッターを切った。
ただの風景じゃない。
ただの記録でもない。
そこには、誰かが“生きていた”という証が、確かに焼きついていた。
夕暮れの光の中、彼はもう一度だけ、同じ場所にレンズを向けた。
灯のいない空間、灯のいない道。
でも、どこかにまだ、彼女の気配が残っている気がした。
風が吹いた。
スケッチブックのページが、ひとりでにめくれる音がした気がした。
彼は静かに呟いた。
「……また、火曜日に」
◇ ◇ ◇
再会は、思っていたよりも早く、そして静かに訪れた。
火曜日の朝。
陽射しはすでに夏の気配を帯びていて、潮風のにおいも強くなっていた。
蒼司は、いつものように駅から町を抜け、防波堤の道を歩いていた。
歩きながら、胸の奥が少しずつざわついてくる。
“約束”をしたことに、今さらながら戸惑っていた。
あのときは、自然に言えた。
でも、約束を守るということは、そこに“誰かがいる”と信じることと同義だった。
それが、ほんの少しだけ、怖かった。
風が吹いた。
遠くに、白い帽子が揺れているのが見えた。
彼女は、いた。
リュックを背負い、スケッチブックを抱えて、防波堤の上に座っていた。
膝の上には小さなクロスが広げられ、薄いサンドイッチと紙パックの紅茶が置かれている。
「……おはよう」
少しだけ、蒼司が声をかけると、灯は顔を上げた。
眩しそうに目を細め、そして、ふわりと笑った。
「来たね。……ちゃんと、火曜日に」
「君こそ」
「うん、がんばった。朝から看護師さんに“お昼までには戻るから”ってお願いして、すごく急いできたの」
蒼司は彼女の隣に腰を下ろす。
日差しが少し強くなってきて、影が濃く伸びている。
「お昼まで?」
「そう。今日は、ちょっとだけわがまま言って。ほら、次に外に出られるのは金曜日でしょ? 間が空いちゃうから」
灯は、サンドイッチの包みを少しだけ広げながら言った。
ハムとチーズのシンプルなもの。小さなパンに、彼女の控えめな性格が滲んでいた。
「食べる? 半分こしようか」
「……いいのか?」
「うん。だって、誰かと食べる方が、おいしいでしょ?」
当たり前みたいに差し出されて、蒼司は少しだけ戸惑いながらそれを受け取った。
病院で暮らしている子に、こんなにも自然に“分け合う”という発想があることが、不思議でならなかった。
「病室、どんなとこなんだ?」
「うーん……ひとことで言うなら、“清潔すぎて落ち着かない空間”かな」
彼女は肩をすくめて笑った。
「白い壁、白いベッド、白いカーテン。ぜんぶ同じ色なの。まるで誰かの夢の中にいるみたい」
「夢?」
「うん。……でもその夢から、いつか醒めるって、ずっとわかってるのに、そこから抜け出せない感じ」
蒼司は一瞬、言葉を失った。
夢――
それは、彼女が現実から距離を置くための、ささやかな比喩だったのかもしれない。
「君の夢は?」
不意に、そんな言葉が口をついて出た。
灯は、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに視線をそらして、小さな声で答えた。
「……ないよ。もう、持たないようにしてる。
叶わないってわかってるものを持ってるのって、苦しいだけだから」
その横顔が、どこまでも静かだった。
波の音と風の音が、それをそっと包む。
「でも、今は――」
彼女は言いかけて、言葉を切った。
「今は?」
「……なんでもない」
そう言って、サンドイッチをひと口かじる。
だから蒼司は、何も追及しなかった。
代わりに、カメラをそっと構えて、彼女の横顔を切り取った。
また、シャッターの音が静かに響いた。
「じゃあ、今日はこれで――また金曜日に」
灯はそう言って、小さく手を振った。
約束のように、まっすぐな目でそう言った。
病院までの道のりは、歩いて二十分ほど。
彼女は一人で歩いて帰ると言い張ったが、蒼司は半ば当然のように隣を歩いた。
「付き添いなしで帰るのは、病院的にはアウトじゃないのか?」
「内緒にしてくれるなら、大丈夫」
「それがいちばん危ない発言だ」
「ふふっ、正論」
緩やかな坂を登る。
左右には民家が並び、洗濯物が風に揺れている。
灯は、歩幅を合わせながら、ときどき空を見上げた。
雲の隙間から陽が差し、彼女の頬をやわらかく照らしている。
「金曜日、また来れる?」
「もちろん」
蒼司は即答した。
迷いはなかった。
ほんの数日前までは、どこに向かう気力もなかったのに、
彼女に「また」と言われるだけで、そこに立つ意味が生まれた気がした。
病院は、坂の上の開けた場所にあった。
真っ白な外壁と、広い中庭。
どこか無機質で、けれど整った風景。
それは、彼女が言っていた“夢の中”という言葉に、妙に合っていた。
「じゃあ、また」
門の前まで来ると、灯はリュックの肩紐を直して、振り返った。
「今度は、もっとちゃんとした服で来るね。帽子も、新しいの探してみようかな」
「似合ってたよ。今日の帽子も」
その言葉に、彼女は少し照れて目を伏せた。
「……じゃあ、次は、もっと似合うって言わせる」
それだけ言って、彼女は病院の敷地へと歩き出した。
蒼司はその背中を、静かに見送る。
まるで、夢から現実に戻っていくみたいに――その姿は、どこか遠く感じられた。
◇
夜。宿に戻った蒼司は、カメラのデータをパソコンに取り込んでいた。
小さな背中。
帽子のつば。
光の差す横顔。
笑った顔、少しだけ不安げな顔。
一枚、一枚を眺めるたび、胸の奥がじんと熱を帯びる。
スクロールしていく中で、ふと止まった。
灯の病室の話を聞いたときに、思い出したことがあった。
妹が、最後に自分でシャッターを切った写真。
それもまた――病室の窓から撮ったものだった。
カーテン越しに差し込む夕陽。
窓枠に映る逆光の空。
そして、遠くに見える木の陰。
似ていた。
灯のスケッチと、妹の写真が。
描こうとした風景と、遺そうとした瞬間が、重なっていた。
蒼司はそっと画面を閉じ、目を閉じた。
もしも、この出会いが“偶然”じゃなかったとしたら。
もしも――どこかで、誰かが繋いでくれた縁だったとしたら。
その意味を、もう少しだけ信じてみてもいいのかもしれない。
病室に戻った灯は、着替えを済ませてから、窓際の椅子に腰を下ろした。
午後の回診はまだ先で、部屋には静かな時間が流れていた。
ベッドの上に置いたスケッチブックを開く。
今日の海、今日の空、そして――今日の蒼司。
彼の横顔を描こうとして、手が止まる。
思い出せるはずなのに、どこか線が定まらない。
写真に撮られるのは、ほんの少しだけ怖かった。
それは「この瞬間が、終わってしまう」という証のようで、どこか残酷だった。
でも、彼のシャッター音は違った。
それは、優しい音だった。
心を脅かすのではなく、そっと輪郭を撫でてくれるような、あたたかな響きだった。
「……また、会えるよね」
つぶやいた声は、自分に向けたものだった。
次の金曜日、それは約束された未来。でも、未来はいつだって不確かだ。
彼に話していないことは、たくさんある。
本当の名前も、病状のことも。
どれも、まだ渡してはいけない気がしていた。
“選べる時間”が、私には限られている。
だからこそ、誰と過ごすかに慎重になる。
そしていま、蒼司と過ごす時間が“心地よい”と感じてしまったことが、少しだけ怖かった。
ほんの少しだけ、望んでしまった。
もう少しだけ、生きていたいと。
◇
一方その頃。
宿の部屋で静かに横になっていた蒼司は、妹の遺したノートを読み返していた。
短いメモのような言葉が、淡い筆致で綴られている。
>「光の中で、ちゃんと笑ってる私を残したい。
> 誰かの記憶の中じゃなくて、“写真”というカタチで残したい」
>「死ぬってことは、消えることじゃなくて、残せるかどうかなんじゃないかな」
その言葉の意味が、灯と出会った今、少しだけわかった気がした。
妹が残そうとしたもの。
灯が残そうとしているもの。
それらは違うようで、同じものかもしれない。
彼はそっと、妹のノートの間に、今日の灯の写真を印刷したものを挟んだ。
――その行為に、深い意味があるわけじゃない。
ただ、ふたりの“祈り”がどこかで重なっていた気がしただけだ。
窓の外は、夜風に揺れていた。
どこか遠くの病院の窓にも、同じ風が吹いているのだろうか。
彼は、そっと目を閉じた。
金曜日。
それまで、もう少しだけ、この町にいよう。
金曜日は、少し曇っていた。
朝から雲が空を覆い、風もどこか湿気を帯びていた。
でも、雨が降る気配はなかった。
蒼司はいつものように防波堤へ向かった。
潮の匂いが、少しだけ重たい。
「来てくれるだろうか」
そう思いながら歩く道は、初めて来たときよりも少し短く感じた。
そして、防波堤の先――そこに、灯はいた。
いつもの白い帽子に、今日は薄いピンクのカーディガンを羽織っていた。
風が少し強かったせいか、前髪を留めるピンが増えていた。
「おはよう。……ちゃんと、来たね」
「君も」
「うん、今回は病院の車で送ってもらったの。時間は一時間だけって、しっかり釘を刺されたけど」
蒼司は笑って頷いた。
言葉の数は少ないのに、安心だけがしっかり伝わってくる。
灯はスケッチブックを開いて、昨日までの絵に少しだけ手を加える。
彼はその隣で、静かにカメラのシャッターを切った。
そしてふと、思い立ったように言った。
「……今度、君の病室、見せてもらえる?」
灯は、少し驚いたように顔を上げた。
「……なんで?」
「君の目に映ってる景色を、見てみたい。
君が“残そう”としてるものを、俺もちゃんと見たいんだ」
灯はしばらく黙っていた。
風が帽子のリボンを揺らす。
「……変な部屋だよ。白くて、冷たくて、好きになれない」
「そうかもしれない。でも、君がそこにいた時間は、君にしか残せないから」
その言葉に、灯は静かに目を伏せた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……今度、来て。窓から見える景色、紹介する」
◇
午後。
蒼司は、見舞いという名目で病院を訪れた。
ナースステーションで手続きを済ませると、灯の病室の番号を教えられる。
案内されたのは、三階の東棟――窓が大きく取られた明るい個室だった。
「入っていいよ」
そう声をかけられ、静かにドアを開ける。
灯はベッドの上に座っていた。
点滴スタンドが隣に立ち、心拍のモニターが規則的な音を刻んでいる。
白いシーツ、白い壁、白いカーテン。
――たしかに、夢の中みたいだった。
「これが、私の世界」
灯が小さく言った。
「どう?」
「……思ったより、静かだな」
「うん。うるさいのは心臓だけ」
冗談めかした言葉に、蒼司は苦笑した。
けれど、そのモニター音が、なぜか心の奥を強く打った。
彼女が今も“生きている”証が、そこに確かに鳴っている。
「窓、開けてもいい?」
「いいよ。海、見えるよ」
蒼司は窓をそっと開けた。
遠くに、いつもの防波堤が小さく見えた。
見慣れた景色なのに、病室の中から見ると、それはまるで別の世界だった。
「この窓からね、朝の光がすごく綺麗に差すの。
でも、一番好きなのは夕方。オレンジ色の影がね、ここまで伸びてくるの」
灯はスケッチブックを開き、窓辺の景色を描いたページを蒼司に見せた。
それは、彼の妹が遺した写真と、驚くほど似ていた。
「……同じ景色を、見ていたのかもな」
蒼司は、ぽつりと呟いた。
灯は、首を傾げる。
「え?」
「いや……君と、よく似た誰かがいた。
その人も、窓の外をよく見てたんだ」
灯は何も言わなかった。
ただ、静かにうなずいた。
窓から差し込む光が、淡くオレンジに染まりはじめていた。
病室の壁も、床も、ベッドの白いシーツさえも――
すべてが柔らかな茜色を帯びて、まるで別の世界にいるかのようだった。
灯は、ベッドの上で膝を抱え、少しだけ目を細めて空を見ていた。
「……ねえ」
「ん?」
「この光の色、すき。
でも、それと同じくらい……この時間も、すき」
蒼司は黙って、彼女の言葉を聞いていた。
「なんていうか、夕暮れって、すべてが“過ぎていく”音がするでしょ。
今日が終わるんだって、ちゃんと教えてくれる感じ」
「……そうだな」
「でもね、不思議なんだ。
あなたといると、その“終わる音”が、ちょっとだけ優しくなる気がするの」
灯の言葉は、とても静かだった。
それがあまりにも自然で、蒼司は少しだけ胸が痛んだ。
彼女はきっと、日々“終わり”と向き合っている。
どんなに笑っていても、その奥には、抗いようのない現実が横たわっている。
「……君にとって、俺は何かを“延ばして”しまってるんじゃないか」
ふと、そんな言葉がこぼれた。
灯は少しだけ驚いたように、彼の方を見つめた。
「延ばす?」
「終わりを。……見ないふりをさせてるんじゃないかって。
本当は、誰にも近づかない方が、君は……」
「それ、違うよ」
彼女は、きっぱりと言った。
「私は、ちゃんと見てる。
終わりがあることも、時間が限られてることも、ずっと前からわかってる」
そして――ほんの少しだけ、声を震わせながら、続けた。
「でもね。
“誰かと一緒にいる時間”が、終わりを怖くさせることもあるけど――
逆に、“いま”が愛しくなることも、あるんだよ」
その言葉に、蒼司は何も言えなかった。
ただ、彼女の小さな肩を、夕陽が照らしていた。
病室の奥で、モニターが静かにリズムを刻む。
“生きている”という証が、確かにそこにあった。
「……もう少し、この町にいようと思う」
ふと、蒼司が呟く。
「いいの?」
「いい。……むしろ、そうしたい」
灯は、ほんのわずかだけ、息を飲んだようだった。
けれどすぐに、あたたかな笑みが浮かんだ。
「そっか。じゃあ、また会えるね」
「もちろん。何度でも」
「……でも、そろそろ、ちゃんと名前を教えてほしいな」
蒼司は、少しだけ照れたように笑って、小さく頷いた。
「――結城 蒼司」
彼女は、その名前を口の中でゆっくり繰り返す。
「……結城くん、か。なんか、まじめそうな名前」
「それ、褒めてる?」
「半分だけ」
ふたりの間に、小さな笑いが生まれる。
ほんのわずかでも、この空間が“普通の世界”になる瞬間だった。
外の空は、ゆっくりと青から藍に変わっていく。
しばらくして、彼女がぽつりとつぶやいた。
「私ね、**花守 紬(はなもり つむぎ)**っていうの」
「……花を守るって書いて、“紬”。ちょっと変な名前でしょ」
「別に。……似合ってるよ」
灯――紬は、少しだけ驚いたような顔をして、すぐに笑った。
その笑顔が、なぜだか蒼司の胸に静かに残った。
「君と過ごす時間が、夢じゃなかったらいいのに」
その言葉が、風の音に溶けていく。
蒼司は、それに答えられなかった。
答えなんて、あるはずもなかった。
でも――心の奥で、そっと誓った。
彼女が目を背けないのなら、自分も逃げずにいよう。
この町で、もう少しだけ、彼女と“いま”を歩いていこう。
◇ ◇ ◇
八月に入ると、町の空気が変わった。
空は高く、雲は遠く、蝉の声が朝から夕方まで途切れず響いていた。
太陽はぎらつくような熱を帯びて、風もまるで息をしているかのように熱を運んでくる。
そして、病室の中も、どこか“熱”を帯びていた。
紬の顔色は、ここ数日で目に見えて変わった。
頬が痩せ、声にわずかな掠れが混ざる。
モニターのアラーム音が、夜中に二度、鳴ったと看護師から聞かされた。
「外出は、しばらく控えたほうがいい」
そう医師が告げたのは、八月最初の月曜日だった。
けれど紬は、それでも“今日だけは”と頼み込み、短時間の許可をもらっていた。
彼女のリュックには、いつものスケッチブックと、小さな手紙の束が入っていた。
蒼司と会うのは、病院の屋上。
以前から「一度だけ、そこに連れて行って」と頼まれていた場所だった。
「景色がすごく綺麗なんだって。……ほんとは患者はあまり行けないんだけど」
それは、特別な場所。
紬にとって、きっと“最後になるかもしれない場所”だった。
◇
「……ごめんね、遅くなって」
エレベーターの扉が開き、蒼司が現れたとき、紬はすでにベンチに座っていた。
頭にはいつもの帽子。
けれど、今日はひときわ肌が透き通って見えた。
「体調、大丈夫か」
「うん、大丈夫。今日はね、“意地”で来たの」
そう言って笑う彼女の目は、少し赤かった。
それが、泣いたあとのせいなのか、風のせいなのか、蒼司にはわからなかった。
二人は、並んでベンチに座る。
屋上からは、町が一望できた。海と空の境界線も見える。
「この景色、見せたかったんだ。……君に」
紬の声は、どこか儚く、それでも優しかった。
「今日ね、先生に言われたの。“今月中はもう外出できないと思って”って」
「……そうか」
「うん。でも、思ったより平気。
だって、“会いに来てくれる人”がいるって思うだけで、
私、ちょっとだけ強くなれる気がするから」
蒼司は、何も言えなかった。
ただ、彼女の横顔を見つめる。
そして、カメラを構えた。
何度も、何度も、撮ってきたはずの角度なのに――今日の紬は、まるで違って見えた。
空の色が、彼女の背中に重なる。
「……一つだけ、お願いがあるの」
ふと、紬が言った。
「私の“いちばん好きな景色”を、撮ってほしいの」
蒼司は、目を見開く。
「それは――どこに?」
「ここにあるよ。……でも、それは“私の目”じゃないと見えないから。
君に、それを“写して”ほしいの」
彼女の声が、ほんのかすかに震えていた。
でも、その目はまっすぐだった。
「私ね、もうすぐ“残すこと”より、“託すこと”を選ばなきゃいけなくなると思う。
だから……君の手で、それを残してくれないかな」
蒼司は、何も言わずに頷いた。
そして、ファインダーを覗いたまま、そっとシャッターを切った。
それが、紬の“願い”の始まりだった。
◇ ◇ ◇
その日、蒼司が病室を訪れたのは夕方だった。
見舞いとしての手続きを済ませて病棟に向かうと、紬は窓際で何かを綴っていた。
小さな便箋。細いペン。
それらを扱う彼女の指先は、とても丁寧で、どこか祈るような仕草だった。
「……おじゃま、だったか」
声をかけると、紬は小さく首を振った。
「ううん。ちょうど、書き終わったところ」
そう言って、そっと封を折り畳んで、小さな箱の中へしまった。
その箱の中には、すでに何通もの手紙が重ねられていた。
「それ……?」
蒼司が問いかけると、紬は少し照れたように笑った。
「うん、手紙。昔からね、“会えなくなったら困る人”に、何か伝えたいって思ったときだけ、書いてるの」
「昔から?」
「うん、小学生のときくらいから。
いつ病気が悪くなるかわからないから、“いまの私”が伝えたいことを残しておこうって」
彼女は、箱のふたをそっと閉じた。
「結局ね、渡せた手紙って少ないの。
気持ちが変わったり、状況が変わったりして。……でも、不思議と“書いた”ってことが、私を救ってくれてる気がしてた」
紬の言葉は、淡々としているようで、どこか温かかった。
蒼司は、しばらく黙って彼女の手元を見ていた。
そして、おそるおそる尋ねた。
「その中に……俺宛の手紙も、あるのか?」
紬は、少しだけ目を見開き――けれど、すぐにふっと微笑んだ。
「うん。……あるよ」
「……いつ書いた?」
「最初に会った日。防波堤で。帰ってすぐ。
“きっともう、会えない”って思ってたから。あんなふうに、誰かに何かを拾ってもらったの、すごく久しぶりだったの」
蒼司は、胸の奥がじわっと熱くなるのを感じた。
彼女にとって、出会いの瞬間は“永遠には続かない一瞬”だった。
だからこそ、その一瞬の感情を残そうとしたのだ。
「……読んでも、いい?」
「……まだ、ダメ。
ちゃんと、“渡すべきとき”が来たら、開けてほしい。
それまでは、この箱の中に眠らせておくね」
紬は、微笑みながらそう言った。
けれどその笑顔には、かすかな痛みが宿っていた。
「……じゃあさ。俺からも、ひとつお願いしていい?」
「なに?」
「手紙じゃなくて、“直接”聞かせて。
君が好きな景色、君が嬉しかった瞬間。
言葉で、写真みたいに、俺に残して」
紬は、目を見開いた。
そして、ほんの少しだけ震える声で、答えた。
「……うん。約束する」
部屋に西日が差し込み、窓辺のカーテンがやわらかく揺れている。
風の匂いと、モニターの音と、ふたりの静かな息遣いが、ゆるやかに重なった。
その日、蒼司は病室を出る間際、ふと振り返って言った。
「また明日、来ていい?」
紬は笑ってうなずいた。
「明日が来るって、すごくいい言葉だね」
◇ ◇ ◇
紬が自分の過去を語ったのは、それから数日後のことだった。
病室の空はやわらかく晴れていて、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
その日、蒼司は小さな花束を持っていた。
町の雑貨屋で見つけた、野花のドライフラワー。
“何か残るもの”を、彼女に渡したかった。
「……ありがとう。これ、飾るね」
紬はそれをベッドのそばに置き、静かに微笑んだ。
そして、ふと目を伏せて、ぽつりと口を開いた。
「私、小さい頃に一度だけ、“治るかもしれない”って言われたことがあるの」
蒼司は、言葉を失った。
紬は、窓の外を見つめたまま続けた。
「奇跡みたいな話だった。海外の医療技術で、心臓を部分的に補助する機械を埋め込めば、
五年、十年……もしかしたら、普通に生きられるかもしれないって」
その声には、希望の代わりに、静かな哀しみがあった。
「でも、うちはそんなに裕福じゃなかったし、両親もすごく悩んでた。
保険も効かないし、成功率も五割以下だった。
“生きられるかもしれない”未来と、“このままでも穏やかに過ごせるかもしれない”現在の間で、ずっと揺れてた」
蒼司は、何も言えずに彼女の横顔を見ていた。
「最終的には、見送った。……でもね、それを“諦めた”って言われるのが、私はすごく、いやだった」
紬は、手をぎゅっと握りしめる。
「だって私は、“諦めた”んじゃなくて、“選んだ”んだよ。
限られた時間の中で、自分がちゃんと笑える時間を、大切にしようって。
それって、本当はすごく勇気のいることなのに……」
「……そうだな」
蒼司は、小さくうなずいた。
「誰かに“生きてほしい”って言われること。
誰かに“死なないで”って願われること。
それは時々、とても残酷なんだよ。
だって、その願いを叶えられなかったとき、私の中には、
“足りなかった”って想いだけが残るから」
その言葉に、蒼司の胸がきゅっと締めつけられた。
――あの日、妹に言えなかった言葉。
“生きて”と願うことの意味が、ようやく理解できた気がした。
「だからね、私ね、
“死ぬこと”そのものより、“忘れられること”の方が、ずっと怖いの」
紬の声は震えていた。
「私がいなくなったあと、この部屋も、ノートも、手紙も、全部消えていくでしょ?
私という存在が、誰の記憶にも残らなかったら……
それは、“いなかった”ことと同じじゃないかなって」
蒼司は、椅子から立ち上がり、彼女の手をそっと握った。
「君のことは、俺が覚えてる」
その言葉は、約束ではなかった。
でも、それは、彼にできるいちばんの誓いだった。
紬は、少しだけ涙をにじませて、けれど笑った。
「……ありがとう。
じゃあ、私は君の中で、生きていくのかな。少しだけ」
「ずっと、だよ」
「……欲張りだね、私」
「それでいい。生きるって、きっと“誰かの中に残ること”なんだから」
◇ ◇ ◇
病室の窓の外では、蝉の声が遠くで鳴いていた。
陽は傾きかけていて、病院の廊下にも夕暮れ色の光が差し込んでいる。
その光に包まれるようにして、紬はベッドの上で小さく丸まっていた。
蒼司が部屋に入ると、彼女はすぐに気づいて顔を上げた。
けれど、いつものような微笑みを浮かべるには、少しだけ時間がかかった。
「……ごめんね。今日は、ちょっと体が重いの」
そう言って、彼女はかすかに笑った。
「無理しなくていい。会えただけで、十分だ」
蒼司が言うと、紬は目を細めた。
「優しいね。……でも今日は、どうしても伝えたいことがあったの」
彼女は、枕元の引き出しから、ひとつの紙袋を取り出した。
中には、小さな紙の束と、封筒が一枚。
そして、折りたたまれた服が入っていた。
「これ、ね……“私の最後のお願い”」
蒼司は、その言葉に小さく息を飲む。
紬は、袋の中の封筒をゆっくりと差し出した。
「お願いしたいのは、“一日だけ、普通の女の子として過ごすこと”」
「……一日?」
「そう。病院じゃなくて、点滴も心電図もない、ただの町の一角で、
普通に歩いて、普通に笑って、普通にごはんを食べて、空を見て、風を感じたいの」
紬の瞳は、まっすぐだった。
もう、嘘をついていない目だった。
「体調は悪くなってきてるって、自分でもわかってる。
だからこそ……もう逃げない。
このまま何もしないで終わるより、一回だけ、ちゃんと“私の願い”を叶えたいの」
蒼司は、言葉を探した。
それが叶えられる願いかどうかは、わからなかった。
けれど――それでも彼は、うなずいた。
「……いつがいい?」
紬は、微笑んだ。
「来週の日曜。少しでも涼しい日がいいなって思ってた」
「じゃあ、準備する。行きたい場所は?」
「この町の、海辺の遊歩道。あとは、ちいさな喫茶店があって……私ね、いつか入ってみたいって思ってたの。ガラス越しに見てた。ドアの音とか、アイスティーの色とか、全部が“外の世界”って感じで」
「全部、行こう。君がしたいこと、全部」
紬は、静かに笑った。
「ありがとう。……その日だけは、カメラ、持ってこないでほしい」
「……どうして?」
「思い出を残すのは、君の目と心で十分だから。
その一日だけは、“今”を刻んでほしいの。残さなくてもいいから、私を忘れないで」
それは、とてもわがままで、とても切ないお願いだった。
けれど蒼司は、深く頷いた。
「……わかった。君と、ちゃんと一日、歩くよ」
「ありがとう。……それだけで、もう十分すぎるくらい幸せ」
紬の声は、風に揺れるカーテンの音に溶けていった。
彼女の手は、少し冷たかった。
でも、そこには確かに“生きている”熱があった。
次の日曜日――
それが、ふたりにとっての“最後の夏”になると、蒼司はまだ知らなかった。
◇ ◇ ◇
八月の終わり、日曜日の朝。
雲ひとつない空は、まだ夏の色を残していた。
けれど、空気の中にはわずかに秋の気配が混ざりはじめていて、風は前よりも穏やかだった。
その朝、蒼司は、駅前の小さなベンチに立っていた。
白いシャツに、黒のスニーカー。カメラは、持っていない。
それは、紬が願った“条件”のひとつだったから。
――今日だけは、記録じゃなくて記憶に残して。
時計の針が、約束の時間を指す頃。
遠くから、白いワンピースの少女が歩いてきた。
帽子の代わりに、今日は淡いスカーフを髪に巻いている。
頬の色は薄かったけれど、笑顔は確かだった。
「……来てくれたんだ」
「もちろん」
蒼司は微笑んで、自然に手を差し出した。
紬は一瞬戸惑ったように目を見開き、それから、そっとその手を握った。
「じゃあ、行こうか。……君だけの夏、始めに行こう」
◇
最初に訪れたのは、海沿いの遊歩道だった。
青くきらめく波が、太陽の光を受けて何色にも揺れる。
紬は、両手を大きく広げて風を受けた。
その姿は、本当にどこか“自由な鳥”のようで――
蒼司は思わず、手を伸ばしかけて、そして思い直した。
「ねえ、結城くん」
「ん?」
「今日の私は、病人に見える?」
「……全然」
「よかった。じゃあ、私、今日だけは“君の彼女”でもいいかな」
不意の言葉に、蒼司は目を見開いた。
けれど、彼女の真っ直ぐな瞳に、冗談の色はなかった。
「……いいに決まってる。今日だけじゃなくても」
その言葉に、紬はふっと微笑んで、彼の腕にそっと寄り添った。
「ありがとう。……その言葉だけで、胸がいっぱいになりそう」
◇
昼過ぎ、ふたりは、紬が行きたがっていた喫茶店を訪れた。
古びた木製の扉。ステンドグラスの窓。
小さな店内には、アイスティーのグラスが並び、優しいジャズが流れていた。
「ねえ、すごく素敵。……本当に、現実なんだね」
「うん」
「夢じゃないよね?」
「夢じゃない。これは、君と僕の“現実”だ」
紬は、しばらく無言でアイスティーの色を見つめたあと、ゆっくりと飲んだ。
その一口に、どれだけの想いがこもっていたのか、蒼司にはわかる気がした。
彼女の笑顔は穏やかで、壊れそうなくらい静かだった。
「……ねえ、ひとつだけ、もう一つだけ、お願いしてもいい?」
「何でも言って」
「このあと、夕暮れの海が見える場所に行きたいの。
最後に、もう一度だけ、あの色をちゃんと目に焼きつけたいの」
蒼司は、迷わずうなずいた。
「……行こう。君の一日が終わる、その前に」
夕方になり、海は茜色の光をまといはじめていた。
陽が沈む少し前――蒼司と紬は、静かな入り江の近くに立っていた。
観光客の姿はほとんどなく、聞こえるのは、波が岩を撫でる音と、遠くの風鈴の音だけ。
紬は、スカーフを外して風にあずけた。
細い肩が、少しだけ震えていた。
「風、気持ちいいね」
「うん。……夏の終わりの風って、すこしだけ、やさしい」
「わかる。それに……この時間って、ぜんぶがゆっくりになる気がするの。
空も、音も、時間も、感情も。全部が、“止まる寸前”みたいな感じ」
蒼司は黙って、紬の隣に立ち、海を見つめた。
空は、彼女の言うとおりだった。
まるで時間の流れが緩やかになっているようで、夕陽が海に溶けるまでの一秒一秒が、胸に染み込んでいく。
「……今日って、ね。私が、願ってた“いちばんの夢”だったの」
紬が、小さな声で言った。
「病院の中じゃない日。
何かを測られたり、薬を飲まされたりするんじゃない時間。
点滴の針も、心拍数のグラフもない世界。
ただ、“普通の女の子”として過ごす一日」
蒼司はゆっくりうなずいた。
「願いは、叶った?」
紬は、少しだけ笑って、首を横に振った。
「……まだ、半分だけ」
「半分?」
「残りの半分はね――
“好きな人に、ちゃんと伝える”ってこと。
本当の気持ちを、ちゃんと自分の言葉で、届くように言うこと」
蒼司は、鼓動が一瞬止まるような感覚に包まれた。
紬は、深く息を吸い込んで、そして、まっすぐ彼を見た。
「――私は、あなたが好き。
心から好き。
この夏の全部が、あなたとだから、大切になった。
この景色も、風も、味も、光も――
ぜんぶ、あなたがそばにいてくれたから、意味を持てたの」
その言葉は、震えながらも、確かに響いていた。
「たった一日でも、たった一度でも。
誰かをちゃんと“好きになれた”って記憶が、
きっと、死ぬことよりずっと大きな意味を持つと思うの」
「紬……」
蒼司の声が、かすかに揺れる。
「だからね。
私はもう、こわくない。
あなたが、私を忘れない限り、私はここに生きていられるから」
海風がふたりの間を吹き抜け、スカーフが舞い上がって、海へと流れていく。
蒼司は、紬の手をしっかりと握った。
「俺は、絶対に忘れない。……絶対に」
「……ありがとう」
紬は、涙を見せなかった。
けれど、その頬を流れた光は、夕陽だけじゃなかった。
ふたりは、ただ海を見ていた。
沈んでいく光、終わっていく時間。
けれど、その中に確かにあった、“生きている”という実感だけを握りしめるように。
紬と過ごした一日が終わりに近づいたころ、ふたりは、再び病院の正門前にいた。
夜の空気はひんやりとしていて、昼間の暑さが嘘のように消えていた。
街灯が、病院の壁を淡く照らしている。
蒼司は、何度も振り返りそうになる気持ちを押し殺しながら、紬と並んで歩いていた。
「今日は、ありがとう。……ほんとに、ありがとう」
紬が、やさしく言った。
その声には、達成感と、微かな別れの気配が混じっていた。
「ありがとうを言うのは、俺の方だよ」
「ふふ、じゃあ、五分五分ね」
そう言って、紬はポケットから小さな封筒を取り出した。
「これ、預かってほしいの。……もし、私が言葉にできなくなったときのために、書いたもの」
蒼司は、それを両手で受け取った。
少し厚みのある封筒。あの手紙の束の中から、選ばれた一枚。
「……読んでいいのは、ちゃんと“お別れ”したあとね。
ずるいけど、そうしないと、きっと私は泣いちゃうから」
「そんな日が……来なくていいのに」
蒼司がそう言うと、紬はかすかに微笑んだ。
「ううん、来ていいんだよ。だって、“永遠”なんて誰にもないでしょ?
でも、“一緒にいた”っていう時間は、どんな終わりよりも、強いから」
彼女の言葉は、どこまでも優しく、どこまでも強かった。
ふたりは、しばし無言で並んで立っていた。
門の外には夜風が吹き、病院の中では看護師の巡回の足音が響いている。
「ねえ、最後に、もうひとつだけお願いしてもいい?」
「……何?」
「生きていて。ちゃんと、これからも生きていて」
蒼司は、息を呑んだ。
「誰かに会って、笑って、喧嘩して、写真撮って、
また恋をして――
それでも、“誰かのことを想った夏”が、ちゃんと残っているように。
私の代わりに、生きてほしいの」
紬は、蒼司の手に、そっと自分の指を重ねた。
「……君のことを、俺はずっと忘れない。
それが、生きるってことなら、何度でも思い出すよ」
紬は、静かにうなずいた。
「じゃあ、もう十分。……おやすみ、結城くん」
「おやすみ、紬」
その言葉を交わして、ふたりは別れた。
振り返ると、紬の背中が、病院の扉の向こうに消えていく。
その姿は、まるで光に溶けていく幻のようだった。
その夜、蒼司は紬からもらった封筒を開けなかった。
きっと、それを開くときは、もう彼女の声が聞こえなくなったときだと思ったから。
ただ――
その封を胸元に抱いて、彼は目を閉じた。
波の音が聞こえる気がした。
あの日の空の色が、まぶたの裏に浮かんだ。
“君のいた夏”が、確かにそこにあった。
◇ ◇ ◇
九月の風が吹きはじめたある朝、病院から一通の連絡が届いた。
紬が、眠るように息を引き取ったという報せだった。
朝方のことだったらしい。
苦しまず、静かに、ただ目を閉じたままだったと。
蒼司は、そのとき、不思議と泣かなかった。
けれど、何かが胸の奥で“音もなく崩れていく”感覚が、ずっと続いていた。
気づけば、ポケットの中にある小さな封筒に指を添えていた。
――あの日、紬が託した最後の手紙。
夜。
彼は、海辺の小さな宿の部屋でそれを開いた。
⸻
結城くんへ
この手紙を読んでいる頃、私はもう、この世界にいないんだと思う。
だけどね、不思議と怖くはないよ。
たぶんそれは、あなたが“ここにいた私”をちゃんと見てくれたから。
生きていることって、きっと、ただ心臓が動いていることじゃないよね。
笑ったり、怒ったり、誰かを好きになったり。
そのすべてが“私だった”って、私は信じたい。
あなたと過ごしたあの夏の一日は、
私がこれまで願ってきたすべての夢を、ひとつにしてくれた日だったよ。
ありがとう。
出会ってくれて、名前を呼んでくれて、
そして――私のことを、“残して”くれて。
最後に、ひとつだけお願いがあります。
どうか、あなたの“見つけた景色”を、
誰かに見せてあげてください。
私が愛した世界を、あなたの目を通して、誰かに届けてあげて。
それがきっと、私が“生きていた証”になるから。
紬より
⸻
手紙を読み終えたあと、蒼司は声を出さずに泣いた。
ただ、両手で顔を覆い、嗚咽だけが夜の部屋に響いた。
“紬”という名の少女は、もういない。
でも、彼女の声も、笑顔も、涙も、
あの夏のすべての記憶が、胸の奥で確かに生きていた。
数日後、蒼司は静かに旅支度を整えた。
紬と過ごした町を離れるのは、あまりにも寂しくて。
けれど、同じ場所に留まってしまえば、彼女の願いを果たせない気がしていた。
「あなたの目を通して、誰かに届けてあげて」
手紙に書かれていたその言葉が、胸の奥にずっと残っていた。
彼女がこの世界で見て、触れて、愛したもの。
それを、自分のレンズを通して残すこと――それこそが、彼女に“託された”ものなのだと、ようやく理解できた。
東京に戻った蒼司は、かつて妹と一緒に通っていたギャラリーに足を運んだ。
小さな貸しスペース。白い壁と、木のフロア。
そこに、紬の写真を並べる。
彼女が笑った場所、歩いた道、見上げていた空。
そして――あの日、海に向かって両手を広げた、あの一枚。
シャッターを切ったとき、蒼司は「残してしまった」と感じていた。
でも今は、それが「残すための一瞬だった」と思える。
展示の準備は、丁寧に、時間をかけて進めた。
どの写真にもキャプションはつけなかった。
けれど、紬の言葉を引き写した手紙だけを、ひとつの台にそっと置いた。
> “たった一度でも、誰かをちゃんと好きになれた記憶が、
> 死ぬことよりずっと大きな意味を持つと思うの。”
オープン初日、会場には数人の来場者が訪れた。
静かな空間に、淡い光と風景が並ぶ。
誰も声を上げない。
ただ、立ち止まり、眺めて、目を伏せ、そしてまた次の写真へと進んでいく。
その中に、見覚えのある姿があった。
紬の母親だった。
控えめに入ってきた彼女は、ひとつひとつの写真の前で、そっと目を閉じるように佇んでいた。
そして、紬のあの一枚――海に向かって立つ背中の前で、ゆっくりと膝を折り、小さくつぶやいた。
「……ありがとう」
蒼司は、声をかけなかった。
けれど、その一言が、この写真展のすべてを肯定してくれた気がした。
展示の最後に置かれた手紙を、彼女はそっと読み、涙を拭いながら頭を下げて出ていった。
その姿を見届けたあと、蒼司はひとりギャラリーの中央に立ち、改めて彼女の“残した光”を見渡した。
紬はもう、この世界にはいない。
けれど――確かに、ここに“生きている”。
写真展が終わった翌週、蒼司は再びカメラを手に、旅に出た。
目的地は決まっていなかった。
ただ風の吹く方へ、光の差す方へ、彼女が好きだった空の色を探して歩く。
「残すこと」――かつては、それが怖かった。
誰かの記憶を焼きつけることが、喪失と直結するように思えた。
けれど今は違う。
残すという行為は、誰かの生を肯定すること。
“ここにいた”という証を、世界に刻みつけること。
紬は言った。
>「私の代わりに、生きてほしいの」
それは、あまりに重く、けれど確かな祈りだった。
宿の部屋で、彼はふとノートを開いた。
そこに、自分の手でひとことだけ書く。
>「今日、名前も知らない少女が、小さな花を拾って笑った。
> その笑顔を、ちゃんと見ていた。
> シャッターは押さなかったけれど、たしかに残った」
カメラを持っていても、すべてを写真にする必要はない。
でも、“残す”という気持ちは、たぶん、今の自分にとっての“生きること”だった。
夜。
蒼司は、紬の手紙の最後のページを、もう一度だけ読み返した。
⸻
――ねえ、結城くん。
君がいつか誰かと笑って、
また新しい景色に出会ったとき、
どうかほんの一瞬でいいから、私を思い出して。
それだけで、私はその世界にもう一度生きていられるから。
私は、君に出会えてよかった。
君が、私の“最後の風景”になってくれて、本当にありがとう。
君がいない世界で、私は――
ずっと、君の幸せを祈っています。
⸻
涙は、もう流れなかった。
ただ、胸の奥に灯った光が、彼の背をそっと押した。
窓の外、朝焼けが空を満たしていく。
その色は、紬が愛した色と、まったく同じだった。
彼女はいない。
でも――
“君が、いない世界で。”
蒼司は、今も確かに、生きている。
⸻
〈完〉