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小さな恋の物語 一話で紡がれる、小さな恋の記憶。
小さな恋の物語 一話で紡がれる、小さな恋の記憶。
星空りん
恋愛現代恋愛
2025年06月14日
公開日
4.5万字
連載中
短い物語だからこそ、きっと、深く届く。 一話ごとの恋、はじめます。 この物語は、1話完結の恋愛小説です。 出会い、想い、そして別れまで―― たった一話の中に、ひとつの恋が詰まっています。 儚くて、優しくて、少しだけ苦しい。 そんな“忘れられない恋”を、あなたへ

恋、一話目 『君が、いない世界で。』

 潮風が、頬を冷たく撫でた。

 早朝の空気は思いのほか澄んでいて、肌にまとわりつく湿気さえも、この町ではどこか優しかった。


 駅前のロータリーには人気がなく、まだどの店のシャッターも下りたまま。

 干物のにおいと、潮の香りが混ざり合った空気の中で、蒼司はひとり、古びたベンチに腰を下ろした。


 長い夜だった。


 東京を夜行バスで発って、ここに着いたのは午前五時を少し回った頃。

 眠ったような、眠っていなかったような、そんな中途半端な感覚が体の奥に残っていて、頭がまだ霞がかっている。


 この町に来たのは、ただの気まぐれだった。

 スマートフォンの地図アプリを開き、適当にスクロールして指が止まった場所。それが、ここだった。


 何かを期待していたわけじゃない。

 何かを探していたわけでもない。

 ただ、どこか知らない場所で、自分という存在が薄くなるのを感じたかった。


 ポケットから、小さな黒いケースを取り出す。

 妹が遺していったカメラ。

 もう二度と、彼女がシャッターを切ることのないそれを、蒼司はずっと手放せずにいた。


(……どうして、こんなに重たく感じるんだろう)


 そのカメラは決して大きくない。だけど、持つたびに胸が痛んだ。


 妹が最後まで大切にしていたもの。

 入院先のベッドで、弱々しい声で言った言葉が、今も耳の奥に残っている。


 ――お兄ちゃん、写真って、いいよね。時間を閉じ込めてくれるから。


 蒼司は、そっと目を閉じた。

 時間が止まったままの心を抱えて、それでも今日もまた、朝が来る。


 気づけば、空がゆっくりと白み始めていた。

 遠くの水平線が淡い桃色に染まり、波がかすかに音を立てて打ち寄せている。


 彼は、ベンチから立ち上がった。

 防波堤の方へと足を向ける。

 なぜか、その先に“何か”がある気がした。


 数分も歩けば、町の喧騒は完全に消えた。

 広がるのは、静かな海と、白く塗られた防波堤、そして風の音だけだった。


 そして――その先に、ひとりの少女がいた。


 防波堤の端に、ぽつんと腰をかけている。

 白いワンピースに身を包み、風に揺れる髪を押さえながら、何かを見つめていた。


 手にはスケッチブック。

 鉛筆を動かす指先が細くて、儚い。


 その姿は、どこか現実味がなかった。

 まるで、誰かの夢の中にだけ存在しているような、そんな空気を纏っていた。


 ふと、彼女が顔を上げた。


「……ねえ、それ、人を撮るやつ?」


 不意に声をかけられて、蒼司は足を止める。

 そして自分の肩に下げていたカメラを見た。


「ああ……まあ、一応は」


「最近は、撮ってる?」


 少女の瞳は、まっすぐで、嘘がなかった。

 その透明さに、蒼司は少しだけ戸惑いを覚える。


「人は……あまり。風景ばかり」


「ふうん、じゃあ私は安心だ」


 彼女はそう言って、ふっと微笑んだ。

 けれどその笑顔は、どこか寂しげで。

 ほんのわずかだけど、“終わり”の匂いがした。


 次の瞬間、突風が吹いた。


 彼女の持っていたスケッチブックが風にあおられ、数枚の紙が宙に舞う。


「あっ……!」


 少女が手を伸ばすより早く、蒼司は動いていた。

 一枚を空中で受け止め、もう一枚を足元で拾い上げる。


 描かれていたのは、病室の窓辺だった。

 点滴のチューブ、白いシーツ、ベッドの上の花瓶。

 その奥には、曇った空と、ぼんやりとした夕陽。


「見ないで。……恥ずかしいから」


 少女が、そっと言った。

 けれどその声は震えていた。


「これ、病室……?」


 問いかけると、彼女は小さくうなずいた。


「うん。……私、たぶん、来年の春は見られないから。

 今のうちに、いろんな景色、ちゃんと焼きつけておきたいの」


 「来年の春は、見られない……?」


 蒼司はその言葉を、すぐには受け止めきれなかった。


 少女は微笑んでいた。けれどそれは、慰めのような、予防線のような、壊れやすいガラス細工のような笑顔だった。


 「なんてね。嘘かもしれないし、本当かもしれない。……こういうの、言ったもん勝ちだよね」


 小さく肩をすくめると、彼女はスケッチブックの紙をそっと重ね直した。

 風で折れた角を直すように指先が動く。

 その手の甲には、点滴の痕のような、薄い色のあざが残っていた。


 「ごめんね。朝から変なこと言っちゃって」


 「いや……」


 蒼司は言葉を飲み込んだ。

 何を返せばいいのか分からなかった。


 “頑張って”とも言えなかったし、

 “生きて”とも言えなかった。


 それは、あまりにも無責任な願いに思えた。


 「あなたは、旅人?」


 話題を変えるように、彼女が訊いた。


 「旅っていうほど、立派なもんじゃない。ただ……逃げてるだけ」


 「なにから?」


 「全部。……自分からも、誰かからも」


 少女は、その言葉に反応を示さなかった。

 ただ、静かに目を伏せて、唇をきゅっと結んだ。


 沈黙が、潮の音に溶けていく。

 でも、それは苦しいものじゃなかった。

 たった今出会ったばかりのはずなのに、なぜか息苦しさはなかった。


 「名前、聞いてもいい?」


 彼女が、ふと問いかけてきた。


 蒼司は少しだけ迷って――そして、小さく首を横に振った。


 「……たぶん、今は知らないほうがいい」


 「そっか」


 少女も、それ以上は追及しなかった。

 不思議な子だった。普通なら、興味本位でもう一歩踏み込んでくるのに、それをしない。


 「じゃあ、私のも……適当なやつ、教えとくね」


 くるりと防波堤の上で踵を返しながら、少女は笑った。


 「私の名前は、――灯(ともり)。ひらがなじゃなくて、ちゃんと“火”が入ったやつ。燃えかけてるみたいな名前」


 それが本当の名前ではないことは、すぐに分かった。

 けれど蒼司は頷いた。


 「……灯さん」


 「うん、似合ってる?」


 「ちょっとだけ」


 少女はくすっと笑い、視線を海へ向けた。


 「海って、いいよね。終わりみたいで、始まりみたいで」


 「……よく来るの?」


 「ううん、今日が初めて。でも、なんか引かれたんだ。

 もう、来られないかもしれないから」


 その言葉に、また胸の奥がざわつく。


 「君の描いた絵、すごく……優しい」


 思わず、そう呟いた。

 複雑な構図でも、技術的に上手いというわけでもない。

 けれど、一枚一枚に“何かを残したい”という願いがこもっていた。


 「うれしい。……絵ってね、自分のために描くものだって、ずっと思ってた。

 でも最近、“誰かのために”も、悪くないかなって」


 「誰かって?」


 少女は、答えなかった。


 ただ、遠くの海を見ながら――目を伏せて、小さく息を吐いた。


 「ねえ。あなた、明日もここに来る?」


 唐突な言葉に、蒼司は思わず顔を上げた。


 「……わからない。気まぐれで来たから」


 「そっか。じゃあ、もしも、また会えたら。

 そのときは……もう少しだけ、名前の話をしてもいい?」


 「……ああ」


 そのときの、彼女の笑顔が――

 どこまでも穏やかで、どこまでも、切なかった。


 まるで、もうそのときが来ないと知っているかのように。


 翌朝、蒼司は、昨日と同じ道を歩いていた。


 予定はなかった。

 理由もなかった。

 けれど、胸の奥にぽつんと残った少女の声が、潮の音に重なるように響いていた。


 「また会えたら、名前の話をしてもいい?」


 あの笑顔が忘れられなかった。

 まるで最初から、すべてを知っているような目をしていた。


 防波堤にたどり着くと、そこには誰もいなかった。

 風だけが昨日と同じように吹いていて、波の音だけが変わらずそこにあった。


 蒼司は、肩に下げたカメラを見下ろす。


 結局、昨日も一枚もシャッターを切れなかった。

 あの子を撮りたいと思ったのに、どうしても、レンズを向けられなかった。


 ――人を撮るのって、怖いよな。


 心のどこかで、そう呟いた。

 その人がいなくなってしまったあと、写真だけが残る。

 それが、たまらなく怖い。


 蒼司が妹を亡くしたのは、大学三年の春だった。


 「余命一年です」と告げられてから、家族はみんな必死だった。

 奇跡を信じて、医学の可能性を信じて、少しでも希望があるならと手を尽くした。


 けれど、病魔は静かに、けれど確実に、彼女の体を奪っていった。


 写真が好きだった。

 花や空や、家族の後ろ姿を、いつも笑いながら撮っていた。

 「記憶って、すぐに薄れるでしょ? だから、ちゃんと残しておきたいの」

 そう言って、何度もシャッターを切っていた。


 彼女が亡くなったあと、部屋に遺されたSDカードには、数え切れないほどの写真が残っていた。

 でも、どれだけ見返しても――

 もう、その声も、温度も、戻ってはこなかった。


 蒼司はカメラをしまい、ベンチに腰を下ろした。

 潮の匂いが、昨日より少しだけ強くなっている気がした。


「……来ないか」


 呟いた声は、風にかき消された。


 そのとき、足音がした。


 細くて軽い、サンダルのような足音。

 そして、どこか申し訳なさそうな声が、背後から聞こえた。


「ごめん、待った?」


 振り向くと、そこに昨日の少女――灯が立っていた。

 今日は白い帽子をかぶっていて、ワンピースの色も水色に変わっていた。


 「……来ると思ってなかった」


 「うん、私も。……でも、来ちゃった」


 彼女は隣に座り、スケッチブックを膝に広げた。


 「昨日描いてたの、ちょっと直したかったの」


 彼女が広げたページには、昨日の防波堤の風景が描かれていた。

 そこに、小さく、ベンチに座る人影が追加されていた。――蒼司だった。


 「……勝手に描いて、ごめん」


 「いや、……ありがとう」


 そう言って、彼は初めて、自分からカメラを構えた。


 「撮っても、いい?」


 灯は驚いたように目を見開いて、でもすぐに、ふんわりと微笑んだ。


 「うん。……今なら、たぶん平気」


 シャッターが切れる音が、小さく響いた。

 それは、蒼司が“誰か”に向けて撮った、久しぶりの一枚だった。


 写真を撮られるのが苦手な子だと思っていた。

 けれど、ファインダー越しに見た彼女は、思いのほか自然だった。


 風に揺れる髪、帽子の影にかかるまつ毛の曲線。

 カメラを向けられることに慣れていないはずなのに、彼女の表情は、どこか懐かしいようなやわらかさを持っていた。


 「すごいね、音が」


 灯はシャッター音に少し驚いたように言った。


 「なんか、ちゃんと“撮られた”って気分になる」


 「今どきのカメラは、もっと静かなんだけどな。……これは、古いやつだから」


 「でも……あたたかい音だね」


 蒼司は少しだけ笑った。

 “あたたかい”という言葉を、誰かがこのカメラにくれたのは初めてだった。


 「その帽子、似合ってる」


 そう言うと、灯は指先でつばをつまんで、くるんと回して見せた。


 「これ、病院の売店で買ったんだ。退院のとき、先生が“紫外線に気をつけて”ってうるさくて」


 病院。

 その言葉に、蒼司はふと表情を曇らせる。


 「……病院って、今も?」


 「うん。通院、っていうより、基本は入院生活。外出許可が出るのが、火曜と金曜だけ。……今日がその金曜日」


 彼女は笑いながらそう言ったが、その笑みに滲む疲労感を、蒼司は見逃さなかった。


 「この町の病院?」


 「ううん。もうちょっと山の上の方。救急もやってる大きい病院。景色は良いけど、ごはんはまあまあ」


 何気ない口調だった。

 まるで、自分の命に期限があることを特別なこととは思っていないような、そんな話し方だった。


 「君は……怖くないのか」


 その問いに、灯は一瞬だけ、目を伏せた。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


 「怖いよ。でも、それよりも“知られたくない”って気持ちの方が大きいかな。

 かわいそうって思われるの、すごく、苦手で」


 蒼司は黙って聞いていた。

 風が、帽子のリボンを揺らす。


 「私さ、長くは生きられないんだって、小さい頃からずっと言われてきたの。

 でもね、それって、最初はすごく苦しくて。だけど、あるときから、ちょっとだけ見え方が変わったの」


 「どう、変わった?」


 「“限られてる”ってことは、“選べる”ってことでもあるんだなって。

 何を大切にして、誰と過ごして、どこで笑いたいか。選ぶ時間だけは、誰よりも真剣だから」


 その言葉に、蒼司は返す言葉を見つけられなかった。

 胸の奥が静かに、だけど確実に締め付けられる。


 彼女は、時間の流れ方が違う。

 この世界で、同じ季節を何度も迎えられないことを知っている。


 それなのに、こんなふうに、穏やかな顔で笑えるなんて。


 「君は……強いな」


 「ううん、弱いよ。だから、強いフリをしてるだけ」


 灯は、少し照れたように笑った。


 「でも、“選ぶ”ってことに関してだけは、少しだけ自信があるの。

 たとえば、今日この場所に来たこととか、君と話したこととか。……きっと、間違ってなかったって思えるから」


 蒼司は、何も言わずに頷いた。


 その瞬間、彼の中で何かがわずかに動いた気がした。

 止まったままの時間が、ほんの少しだけ、音を立てて軋んだ気がした。


 太陽が、水平線の向こうへ傾き始めていた。


 町の空はうっすらと金色に染まり、波がきらきらと輝いていた。

 午後の柔らかな日差しが、ふたりの影を長く引き伸ばしている。


 灯は、防波堤の端に立ち、ゆっくりと風を受けながら空を見上げていた。

 どこか遠くを見るような、少し寂しげな目だった。


「そろそろ戻らないと。……門限、あるんだ」


 「そうか」


 蒼司はそれ以上、何も言わなかった。

 この数時間が、彼にとってどれほど特別だったのか、彼女に伝えるには言葉が足りなかった。


 灯は、スケッチブックを閉じて、そっと胸に抱えた。

 今日描いた景色は、まだ未完成。けれど、彼女の中では、きっともう完成していたのだろう。


 「次は……火曜日。もし、また晴れたら」


 「来るよ。……絶対に」


 その言葉に、灯は小さく笑った。


 「じゃあ、そのときは……名前、聞かせてね?」


 「うん。……約束する」


 灯は帽子を押さえながら、ゆっくりと歩き出した。

 小さなリュックを背負い、背中はどこか頼りなくて、でも不思議とまっすぐだった。


 蒼司はその後ろ姿を、ただ黙って見つめていた。

 何かを言おうとして、けれど言えずに、そっとカメラを構えた。


 ――シャッター音が、静かに鳴る。


 それは、たったひとつの背中に向けた、たった一度の祈りのようだった。


 誰にも知られずに、誰にも気づかれずに、

 その瞬間だけが、永遠になることを願って。


 灯が曲がり角に消える。

 そのとき、ほんの少しだけ振り返って、手を振った。


 それは、言葉にしない“またね”だった。


 蒼司は、軽く手を挙げて応えた。


 そして、深く息を吸い込む。


 胸の奥に、何かが確かにあった。

 もう二度と、誰かを撮ることなんてできないと思っていた。

 けれど今――彼は、もう一度シャッターを切った。


 ただの風景じゃない。

 ただの記録でもない。


 そこには、誰かが“生きていた”という証が、確かに焼きついていた。


 夕暮れの光の中、彼はもう一度だけ、同じ場所にレンズを向けた。

 灯のいない空間、灯のいない道。


 でも、どこかにまだ、彼女の気配が残っている気がした。


 風が吹いた。

 スケッチブックのページが、ひとりでにめくれる音がした気がした。


 彼は静かに呟いた。


 「……また、火曜日に」


◇ ◇ ◇


 再会は、思っていたよりも早く、そして静かに訪れた。


 火曜日の朝。

 陽射しはすでに夏の気配を帯びていて、潮風のにおいも強くなっていた。


 蒼司は、いつものように駅から町を抜け、防波堤の道を歩いていた。

 歩きながら、胸の奥が少しずつざわついてくる。


 “約束”をしたことに、今さらながら戸惑っていた。

 あのときは、自然に言えた。

 でも、約束を守るということは、そこに“誰かがいる”と信じることと同義だった。


 それが、ほんの少しだけ、怖かった。


 風が吹いた。

 遠くに、白い帽子が揺れているのが見えた。


 彼女は、いた。


 リュックを背負い、スケッチブックを抱えて、防波堤の上に座っていた。

 膝の上には小さなクロスが広げられ、薄いサンドイッチと紙パックの紅茶が置かれている。


「……おはよう」


 少しだけ、蒼司が声をかけると、灯は顔を上げた。

 眩しそうに目を細め、そして、ふわりと笑った。


「来たね。……ちゃんと、火曜日に」


 「君こそ」


 「うん、がんばった。朝から看護師さんに“お昼までには戻るから”ってお願いして、すごく急いできたの」


 蒼司は彼女の隣に腰を下ろす。

 日差しが少し強くなってきて、影が濃く伸びている。


「お昼まで?」


「そう。今日は、ちょっとだけわがまま言って。ほら、次に外に出られるのは金曜日でしょ? 間が空いちゃうから」


 灯は、サンドイッチの包みを少しだけ広げながら言った。

 ハムとチーズのシンプルなもの。小さなパンに、彼女の控えめな性格が滲んでいた。


「食べる? 半分こしようか」


「……いいのか?」


「うん。だって、誰かと食べる方が、おいしいでしょ?」


 当たり前みたいに差し出されて、蒼司は少しだけ戸惑いながらそれを受け取った。


 病院で暮らしている子に、こんなにも自然に“分け合う”という発想があることが、不思議でならなかった。


「病室、どんなとこなんだ?」


「うーん……ひとことで言うなら、“清潔すぎて落ち着かない空間”かな」


 彼女は肩をすくめて笑った。


「白い壁、白いベッド、白いカーテン。ぜんぶ同じ色なの。まるで誰かの夢の中にいるみたい」


 「夢?」


 「うん。……でもその夢から、いつか醒めるって、ずっとわかってるのに、そこから抜け出せない感じ」


 蒼司は一瞬、言葉を失った。


 夢――


 それは、彼女が現実から距離を置くための、ささやかな比喩だったのかもしれない。


 「君の夢は?」


 不意に、そんな言葉が口をついて出た。


 灯は、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに視線をそらして、小さな声で答えた。


「……ないよ。もう、持たないようにしてる。

 叶わないってわかってるものを持ってるのって、苦しいだけだから」


 その横顔が、どこまでも静かだった。

 波の音と風の音が、それをそっと包む。


 「でも、今は――」


 彼女は言いかけて、言葉を切った。


 「今は?」


 「……なんでもない」


 そう言って、サンドイッチをひと口かじる。


 だから蒼司は、何も追及しなかった。

 代わりに、カメラをそっと構えて、彼女の横顔を切り取った。


 また、シャッターの音が静かに響いた。


 「じゃあ、今日はこれで――また金曜日に」


 灯はそう言って、小さく手を振った。

 約束のように、まっすぐな目でそう言った。


 病院までの道のりは、歩いて二十分ほど。

 彼女は一人で歩いて帰ると言い張ったが、蒼司は半ば当然のように隣を歩いた。


 「付き添いなしで帰るのは、病院的にはアウトじゃないのか?」


 「内緒にしてくれるなら、大丈夫」


 「それがいちばん危ない発言だ」


 「ふふっ、正論」


 緩やかな坂を登る。

 左右には民家が並び、洗濯物が風に揺れている。


 灯は、歩幅を合わせながら、ときどき空を見上げた。

 雲の隙間から陽が差し、彼女の頬をやわらかく照らしている。


 「金曜日、また来れる?」


 「もちろん」


 蒼司は即答した。

 迷いはなかった。


 ほんの数日前までは、どこに向かう気力もなかったのに、

 彼女に「また」と言われるだけで、そこに立つ意味が生まれた気がした。


 病院は、坂の上の開けた場所にあった。


 真っ白な外壁と、広い中庭。

 どこか無機質で、けれど整った風景。

 それは、彼女が言っていた“夢の中”という言葉に、妙に合っていた。


 「じゃあ、また」


 門の前まで来ると、灯はリュックの肩紐を直して、振り返った。


 「今度は、もっとちゃんとした服で来るね。帽子も、新しいの探してみようかな」


 「似合ってたよ。今日の帽子も」


 その言葉に、彼女は少し照れて目を伏せた。


 「……じゃあ、次は、もっと似合うって言わせる」


 それだけ言って、彼女は病院の敷地へと歩き出した。

 蒼司はその背中を、静かに見送る。


 まるで、夢から現実に戻っていくみたいに――その姿は、どこか遠く感じられた。


 ◇


 夜。宿に戻った蒼司は、カメラのデータをパソコンに取り込んでいた。


 小さな背中。

 帽子のつば。

 光の差す横顔。

 笑った顔、少しだけ不安げな顔。


 一枚、一枚を眺めるたび、胸の奥がじんと熱を帯びる。


 スクロールしていく中で、ふと止まった。

 灯の病室の話を聞いたときに、思い出したことがあった。


 妹が、最後に自分でシャッターを切った写真。


 それもまた――病室の窓から撮ったものだった。


 カーテン越しに差し込む夕陽。

 窓枠に映る逆光の空。

 そして、遠くに見える木の陰。


 似ていた。

 灯のスケッチと、妹の写真が。

 描こうとした風景と、遺そうとした瞬間が、重なっていた。


 蒼司はそっと画面を閉じ、目を閉じた。


 もしも、この出会いが“偶然”じゃなかったとしたら。

 もしも――どこかで、誰かが繋いでくれた縁だったとしたら。


 その意味を、もう少しだけ信じてみてもいいのかもしれない。


 病室に戻った灯は、着替えを済ませてから、窓際の椅子に腰を下ろした。

 午後の回診はまだ先で、部屋には静かな時間が流れていた。


 ベッドの上に置いたスケッチブックを開く。

 今日の海、今日の空、そして――今日の蒼司。


 彼の横顔を描こうとして、手が止まる。

 思い出せるはずなのに、どこか線が定まらない。


 写真に撮られるのは、ほんの少しだけ怖かった。

 それは「この瞬間が、終わってしまう」という証のようで、どこか残酷だった。


 でも、彼のシャッター音は違った。

 それは、優しい音だった。

 心を脅かすのではなく、そっと輪郭を撫でてくれるような、あたたかな響きだった。


 「……また、会えるよね」


 つぶやいた声は、自分に向けたものだった。

 次の金曜日、それは約束された未来。でも、未来はいつだって不確かだ。


 彼に話していないことは、たくさんある。

 本当の名前も、病状のことも。

 どれも、まだ渡してはいけない気がしていた。


 “選べる時間”が、私には限られている。


 だからこそ、誰と過ごすかに慎重になる。

 そしていま、蒼司と過ごす時間が“心地よい”と感じてしまったことが、少しだけ怖かった。


 ほんの少しだけ、望んでしまった。

 もう少しだけ、生きていたいと。


 ◇


 一方その頃。

 宿の部屋で静かに横になっていた蒼司は、妹の遺したノートを読み返していた。


 短いメモのような言葉が、淡い筆致で綴られている。


 >「光の中で、ちゃんと笑ってる私を残したい。

 > 誰かの記憶の中じゃなくて、“写真”というカタチで残したい」


 >「死ぬってことは、消えることじゃなくて、残せるかどうかなんじゃないかな」


 その言葉の意味が、灯と出会った今、少しだけわかった気がした。


 妹が残そうとしたもの。

 灯が残そうとしているもの。


 それらは違うようで、同じものかもしれない。


 彼はそっと、妹のノートの間に、今日の灯の写真を印刷したものを挟んだ。

 ――その行為に、深い意味があるわけじゃない。

 ただ、ふたりの“祈り”がどこかで重なっていた気がしただけだ。


 窓の外は、夜風に揺れていた。

 どこか遠くの病院の窓にも、同じ風が吹いているのだろうか。

 彼は、そっと目を閉じた。


 金曜日。

 それまで、もう少しだけ、この町にいよう。


 金曜日は、少し曇っていた。


 朝から雲が空を覆い、風もどこか湿気を帯びていた。

 でも、雨が降る気配はなかった。


 蒼司はいつものように防波堤へ向かった。

 潮の匂いが、少しだけ重たい。


 「来てくれるだろうか」

 そう思いながら歩く道は、初めて来たときよりも少し短く感じた。


 そして、防波堤の先――そこに、灯はいた。


 いつもの白い帽子に、今日は薄いピンクのカーディガンを羽織っていた。

 風が少し強かったせいか、前髪を留めるピンが増えていた。


 「おはよう。……ちゃんと、来たね」


 「君も」


 「うん、今回は病院の車で送ってもらったの。時間は一時間だけって、しっかり釘を刺されたけど」


 蒼司は笑って頷いた。

 言葉の数は少ないのに、安心だけがしっかり伝わってくる。


 灯はスケッチブックを開いて、昨日までの絵に少しだけ手を加える。

 彼はその隣で、静かにカメラのシャッターを切った。


 そしてふと、思い立ったように言った。


 「……今度、君の病室、見せてもらえる?」


 灯は、少し驚いたように顔を上げた。


 「……なんで?」


 「君の目に映ってる景色を、見てみたい。

 君が“残そう”としてるものを、俺もちゃんと見たいんだ」


 灯はしばらく黙っていた。

 風が帽子のリボンを揺らす。


 「……変な部屋だよ。白くて、冷たくて、好きになれない」


 「そうかもしれない。でも、君がそこにいた時間は、君にしか残せないから」


 その言葉に、灯は静かに目を伏せた。

 そして、ゆっくりと頷いた。


 「……今度、来て。窓から見える景色、紹介する」


 ◇


 午後。

 蒼司は、見舞いという名目で病院を訪れた。


 ナースステーションで手続きを済ませると、灯の病室の番号を教えられる。

 案内されたのは、三階の東棟――窓が大きく取られた明るい個室だった。


 「入っていいよ」


 そう声をかけられ、静かにドアを開ける。


 灯はベッドの上に座っていた。

 点滴スタンドが隣に立ち、心拍のモニターが規則的な音を刻んでいる。


 白いシーツ、白い壁、白いカーテン。

 ――たしかに、夢の中みたいだった。


 「これが、私の世界」


 灯が小さく言った。


 「どう?」


 「……思ったより、静かだな」


 「うん。うるさいのは心臓だけ」


 冗談めかした言葉に、蒼司は苦笑した。

 けれど、そのモニター音が、なぜか心の奥を強く打った。


 彼女が今も“生きている”証が、そこに確かに鳴っている。


 「窓、開けてもいい?」


 「いいよ。海、見えるよ」


 蒼司は窓をそっと開けた。

 遠くに、いつもの防波堤が小さく見えた。

 見慣れた景色なのに、病室の中から見ると、それはまるで別の世界だった。


 「この窓からね、朝の光がすごく綺麗に差すの。

 でも、一番好きなのは夕方。オレンジ色の影がね、ここまで伸びてくるの」


 灯はスケッチブックを開き、窓辺の景色を描いたページを蒼司に見せた。


 それは、彼の妹が遺した写真と、驚くほど似ていた。


 「……同じ景色を、見ていたのかもな」


 蒼司は、ぽつりと呟いた。


 灯は、首を傾げる。


 「え?」


 「いや……君と、よく似た誰かがいた。

 その人も、窓の外をよく見てたんだ」


 灯は何も言わなかった。

 ただ、静かにうなずいた。


 窓から差し込む光が、淡くオレンジに染まりはじめていた。


 病室の壁も、床も、ベッドの白いシーツさえも――

 すべてが柔らかな茜色を帯びて、まるで別の世界にいるかのようだった。


 灯は、ベッドの上で膝を抱え、少しだけ目を細めて空を見ていた。


 「……ねえ」


 「ん?」


 「この光の色、すき。

  でも、それと同じくらい……この時間も、すき」


 蒼司は黙って、彼女の言葉を聞いていた。


 「なんていうか、夕暮れって、すべてが“過ぎていく”音がするでしょ。

  今日が終わるんだって、ちゃんと教えてくれる感じ」


 「……そうだな」


 「でもね、不思議なんだ。

  あなたといると、その“終わる音”が、ちょっとだけ優しくなる気がするの」


 灯の言葉は、とても静かだった。


 それがあまりにも自然で、蒼司は少しだけ胸が痛んだ。


 彼女はきっと、日々“終わり”と向き合っている。

 どんなに笑っていても、その奥には、抗いようのない現実が横たわっている。


 「……君にとって、俺は何かを“延ばして”しまってるんじゃないか」


 ふと、そんな言葉がこぼれた。


 灯は少しだけ驚いたように、彼の方を見つめた。


 「延ばす?」


 「終わりを。……見ないふりをさせてるんじゃないかって。

  本当は、誰にも近づかない方が、君は……」


 「それ、違うよ」


 彼女は、きっぱりと言った。


 「私は、ちゃんと見てる。

  終わりがあることも、時間が限られてることも、ずっと前からわかってる」


 そして――ほんの少しだけ、声を震わせながら、続けた。


 「でもね。

  “誰かと一緒にいる時間”が、終わりを怖くさせることもあるけど――

  逆に、“いま”が愛しくなることも、あるんだよ」


 その言葉に、蒼司は何も言えなかった。

 ただ、彼女の小さな肩を、夕陽が照らしていた。


 病室の奥で、モニターが静かにリズムを刻む。


 “生きている”という証が、確かにそこにあった。


 「……もう少し、この町にいようと思う」


 ふと、蒼司が呟く。


 「いいの?」


 「いい。……むしろ、そうしたい」


 灯は、ほんのわずかだけ、息を飲んだようだった。

 けれどすぐに、あたたかな笑みが浮かんだ。


 「そっか。じゃあ、また会えるね」


 「もちろん。何度でも」


 「……でも、そろそろ、ちゃんと名前を教えてほしいな」


 蒼司は、少しだけ照れたように笑って、小さく頷いた。


 「――結城 蒼司」


 彼女は、その名前を口の中でゆっくり繰り返す。


 「……結城くん、か。なんか、まじめそうな名前」


 「それ、褒めてる?」


 「半分だけ」


 ふたりの間に、小さな笑いが生まれる。

 ほんのわずかでも、この空間が“普通の世界”になる瞬間だった。


 外の空は、ゆっくりと青から藍に変わっていく。


 しばらくして、彼女がぽつりとつぶやいた。


 「私ね、**花守 紬(はなもり つむぎ)**っていうの」

 「……花を守るって書いて、“紬”。ちょっと変な名前でしょ」


 「別に。……似合ってるよ」


 灯――紬は、少しだけ驚いたような顔をして、すぐに笑った。


 その笑顔が、なぜだか蒼司の胸に静かに残った。


 「君と過ごす時間が、夢じゃなかったらいいのに」


 その言葉が、風の音に溶けていく。

 蒼司は、それに答えられなかった。

 答えなんて、あるはずもなかった。


 でも――心の奥で、そっと誓った。


 彼女が目を背けないのなら、自分も逃げずにいよう。

 この町で、もう少しだけ、彼女と“いま”を歩いていこう。


◇ ◇ ◇


 八月に入ると、町の空気が変わった。


 空は高く、雲は遠く、蝉の声が朝から夕方まで途切れず響いていた。

 太陽はぎらつくような熱を帯びて、風もまるで息をしているかのように熱を運んでくる。


 そして、病室の中も、どこか“熱”を帯びていた。


 紬の顔色は、ここ数日で目に見えて変わった。

 頬が痩せ、声にわずかな掠れが混ざる。

 モニターのアラーム音が、夜中に二度、鳴ったと看護師から聞かされた。


「外出は、しばらく控えたほうがいい」

 そう医師が告げたのは、八月最初の月曜日だった。


 けれど紬は、それでも“今日だけは”と頼み込み、短時間の許可をもらっていた。


 彼女のリュックには、いつものスケッチブックと、小さな手紙の束が入っていた。


 蒼司と会うのは、病院の屋上。

 以前から「一度だけ、そこに連れて行って」と頼まれていた場所だった。


 「景色がすごく綺麗なんだって。……ほんとは患者はあまり行けないんだけど」


 それは、特別な場所。

 紬にとって、きっと“最後になるかもしれない場所”だった。


 ◇


「……ごめんね、遅くなって」


 エレベーターの扉が開き、蒼司が現れたとき、紬はすでにベンチに座っていた。


 頭にはいつもの帽子。

 けれど、今日はひときわ肌が透き通って見えた。


「体調、大丈夫か」


「うん、大丈夫。今日はね、“意地”で来たの」


 そう言って笑う彼女の目は、少し赤かった。

 それが、泣いたあとのせいなのか、風のせいなのか、蒼司にはわからなかった。


 二人は、並んでベンチに座る。

 屋上からは、町が一望できた。海と空の境界線も見える。


 「この景色、見せたかったんだ。……君に」


 紬の声は、どこか儚く、それでも優しかった。


「今日ね、先生に言われたの。“今月中はもう外出できないと思って”って」


「……そうか」


「うん。でも、思ったより平気。

 だって、“会いに来てくれる人”がいるって思うだけで、

 私、ちょっとだけ強くなれる気がするから」


 蒼司は、何も言えなかった。

 ただ、彼女の横顔を見つめる。


 そして、カメラを構えた。

 何度も、何度も、撮ってきたはずの角度なのに――今日の紬は、まるで違って見えた。


 空の色が、彼女の背中に重なる。


 「……一つだけ、お願いがあるの」


 ふと、紬が言った。


 「私の“いちばん好きな景色”を、撮ってほしいの」


 蒼司は、目を見開く。


 「それは――どこに?」


 「ここにあるよ。……でも、それは“私の目”じゃないと見えないから。

 君に、それを“写して”ほしいの」


 彼女の声が、ほんのかすかに震えていた。

 でも、その目はまっすぐだった。


 「私ね、もうすぐ“残すこと”より、“託すこと”を選ばなきゃいけなくなると思う。

 だから……君の手で、それを残してくれないかな」


 蒼司は、何も言わずに頷いた。

 そして、ファインダーを覗いたまま、そっとシャッターを切った。


 それが、紬の“願い”の始まりだった。


◇ ◇ ◇


 その日、蒼司が病室を訪れたのは夕方だった。


 見舞いとしての手続きを済ませて病棟に向かうと、紬は窓際で何かを綴っていた。


 小さな便箋。細いペン。

 それらを扱う彼女の指先は、とても丁寧で、どこか祈るような仕草だった。


 「……おじゃま、だったか」


 声をかけると、紬は小さく首を振った。


 「ううん。ちょうど、書き終わったところ」


 そう言って、そっと封を折り畳んで、小さな箱の中へしまった。

 その箱の中には、すでに何通もの手紙が重ねられていた。


 「それ……?」


 蒼司が問いかけると、紬は少し照れたように笑った。


 「うん、手紙。昔からね、“会えなくなったら困る人”に、何か伝えたいって思ったときだけ、書いてるの」


 「昔から?」


 「うん、小学生のときくらいから。

  いつ病気が悪くなるかわからないから、“いまの私”が伝えたいことを残しておこうって」


 彼女は、箱のふたをそっと閉じた。


 「結局ね、渡せた手紙って少ないの。

  気持ちが変わったり、状況が変わったりして。……でも、不思議と“書いた”ってことが、私を救ってくれてる気がしてた」


 紬の言葉は、淡々としているようで、どこか温かかった。


 蒼司は、しばらく黙って彼女の手元を見ていた。

 そして、おそるおそる尋ねた。


 「その中に……俺宛の手紙も、あるのか?」


 紬は、少しだけ目を見開き――けれど、すぐにふっと微笑んだ。


 「うん。……あるよ」


 「……いつ書いた?」


 「最初に会った日。防波堤で。帰ってすぐ。

  “きっともう、会えない”って思ってたから。あんなふうに、誰かに何かを拾ってもらったの、すごく久しぶりだったの」


 蒼司は、胸の奥がじわっと熱くなるのを感じた。


 彼女にとって、出会いの瞬間は“永遠には続かない一瞬”だった。

 だからこそ、その一瞬の感情を残そうとしたのだ。


 「……読んでも、いい?」


 「……まだ、ダメ。

  ちゃんと、“渡すべきとき”が来たら、開けてほしい。

  それまでは、この箱の中に眠らせておくね」


 紬は、微笑みながらそう言った。

 けれどその笑顔には、かすかな痛みが宿っていた。


 「……じゃあさ。俺からも、ひとつお願いしていい?」


 「なに?」


 「手紙じゃなくて、“直接”聞かせて。

  君が好きな景色、君が嬉しかった瞬間。

  言葉で、写真みたいに、俺に残して」


 紬は、目を見開いた。

 そして、ほんの少しだけ震える声で、答えた。


 「……うん。約束する」


 部屋に西日が差し込み、窓辺のカーテンがやわらかく揺れている。

 風の匂いと、モニターの音と、ふたりの静かな息遣いが、ゆるやかに重なった。


 その日、蒼司は病室を出る間際、ふと振り返って言った。


 「また明日、来ていい?」


 紬は笑ってうなずいた。


 「明日が来るって、すごくいい言葉だね」


◇ ◇ ◇


 紬が自分の過去を語ったのは、それから数日後のことだった。

 病室の空はやわらかく晴れていて、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。


 その日、蒼司は小さな花束を持っていた。

 町の雑貨屋で見つけた、野花のドライフラワー。

 “何か残るもの”を、彼女に渡したかった。


 「……ありがとう。これ、飾るね」


 紬はそれをベッドのそばに置き、静かに微笑んだ。

 そして、ふと目を伏せて、ぽつりと口を開いた。


 「私、小さい頃に一度だけ、“治るかもしれない”って言われたことがあるの」


 蒼司は、言葉を失った。


 紬は、窓の外を見つめたまま続けた。


 「奇跡みたいな話だった。海外の医療技術で、心臓を部分的に補助する機械を埋め込めば、

  五年、十年……もしかしたら、普通に生きられるかもしれないって」


 その声には、希望の代わりに、静かな哀しみがあった。


 「でも、うちはそんなに裕福じゃなかったし、両親もすごく悩んでた。

  保険も効かないし、成功率も五割以下だった。

  “生きられるかもしれない”未来と、“このままでも穏やかに過ごせるかもしれない”現在の間で、ずっと揺れてた」


 蒼司は、何も言えずに彼女の横顔を見ていた。


 「最終的には、見送った。……でもね、それを“諦めた”って言われるのが、私はすごく、いやだった」


 紬は、手をぎゅっと握りしめる。


 「だって私は、“諦めた”んじゃなくて、“選んだ”んだよ。

  限られた時間の中で、自分がちゃんと笑える時間を、大切にしようって。

  それって、本当はすごく勇気のいることなのに……」


 「……そうだな」


 蒼司は、小さくうなずいた。


 「誰かに“生きてほしい”って言われること。

  誰かに“死なないで”って願われること。

  それは時々、とても残酷なんだよ。

  だって、その願いを叶えられなかったとき、私の中には、

  “足りなかった”って想いだけが残るから」


 その言葉に、蒼司の胸がきゅっと締めつけられた。


 ――あの日、妹に言えなかった言葉。

 “生きて”と願うことの意味が、ようやく理解できた気がした。


 「だからね、私ね、

  “死ぬこと”そのものより、“忘れられること”の方が、ずっと怖いの」


 紬の声は震えていた。


 「私がいなくなったあと、この部屋も、ノートも、手紙も、全部消えていくでしょ?

  私という存在が、誰の記憶にも残らなかったら……

  それは、“いなかった”ことと同じじゃないかなって」


 蒼司は、椅子から立ち上がり、彼女の手をそっと握った。


 「君のことは、俺が覚えてる」


 その言葉は、約束ではなかった。

 でも、それは、彼にできるいちばんの誓いだった。


 紬は、少しだけ涙をにじませて、けれど笑った。


 「……ありがとう。

  じゃあ、私は君の中で、生きていくのかな。少しだけ」


 「ずっと、だよ」


 「……欲張りだね、私」


 「それでいい。生きるって、きっと“誰かの中に残ること”なんだから」


◇ ◇ ◇


 病室の窓の外では、蝉の声が遠くで鳴いていた。


 陽は傾きかけていて、病院の廊下にも夕暮れ色の光が差し込んでいる。

 その光に包まれるようにして、紬はベッドの上で小さく丸まっていた。


 蒼司が部屋に入ると、彼女はすぐに気づいて顔を上げた。

 けれど、いつものような微笑みを浮かべるには、少しだけ時間がかかった。


 「……ごめんね。今日は、ちょっと体が重いの」


 そう言って、彼女はかすかに笑った。


 「無理しなくていい。会えただけで、十分だ」


 蒼司が言うと、紬は目を細めた。


 「優しいね。……でも今日は、どうしても伝えたいことがあったの」


 彼女は、枕元の引き出しから、ひとつの紙袋を取り出した。

 中には、小さな紙の束と、封筒が一枚。

 そして、折りたたまれた服が入っていた。


 「これ、ね……“私の最後のお願い”」


 蒼司は、その言葉に小さく息を飲む。


 紬は、袋の中の封筒をゆっくりと差し出した。


 「お願いしたいのは、“一日だけ、普通の女の子として過ごすこと”」


 「……一日?」


 「そう。病院じゃなくて、点滴も心電図もない、ただの町の一角で、

  普通に歩いて、普通に笑って、普通にごはんを食べて、空を見て、風を感じたいの」


 紬の瞳は、まっすぐだった。

 もう、嘘をついていない目だった。


 「体調は悪くなってきてるって、自分でもわかってる。

  だからこそ……もう逃げない。

  このまま何もしないで終わるより、一回だけ、ちゃんと“私の願い”を叶えたいの」


 蒼司は、言葉を探した。

 それが叶えられる願いかどうかは、わからなかった。


 けれど――それでも彼は、うなずいた。


 「……いつがいい?」


 紬は、微笑んだ。


 「来週の日曜。少しでも涼しい日がいいなって思ってた」


 「じゃあ、準備する。行きたい場所は?」


 「この町の、海辺の遊歩道。あとは、ちいさな喫茶店があって……私ね、いつか入ってみたいって思ってたの。ガラス越しに見てた。ドアの音とか、アイスティーの色とか、全部が“外の世界”って感じで」


 「全部、行こう。君がしたいこと、全部」


 紬は、静かに笑った。


 「ありがとう。……その日だけは、カメラ、持ってこないでほしい」


 「……どうして?」


 「思い出を残すのは、君の目と心で十分だから。

  その一日だけは、“今”を刻んでほしいの。残さなくてもいいから、私を忘れないで」


 それは、とてもわがままで、とても切ないお願いだった。


 けれど蒼司は、深く頷いた。


 「……わかった。君と、ちゃんと一日、歩くよ」


 「ありがとう。……それだけで、もう十分すぎるくらい幸せ」


 紬の声は、風に揺れるカーテンの音に溶けていった。


 彼女の手は、少し冷たかった。

 でも、そこには確かに“生きている”熱があった。


 次の日曜日――

 それが、ふたりにとっての“最後の夏”になると、蒼司はまだ知らなかった。


◇ ◇ ◇


 八月の終わり、日曜日の朝。


 雲ひとつない空は、まだ夏の色を残していた。

 けれど、空気の中にはわずかに秋の気配が混ざりはじめていて、風は前よりも穏やかだった。


 その朝、蒼司は、駅前の小さなベンチに立っていた。

 白いシャツに、黒のスニーカー。カメラは、持っていない。


 それは、紬が願った“条件”のひとつだったから。


 ――今日だけは、記録じゃなくて記憶に残して。


 時計の針が、約束の時間を指す頃。

 遠くから、白いワンピースの少女が歩いてきた。


 帽子の代わりに、今日は淡いスカーフを髪に巻いている。

 頬の色は薄かったけれど、笑顔は確かだった。


 「……来てくれたんだ」


 「もちろん」


 蒼司は微笑んで、自然に手を差し出した。

 紬は一瞬戸惑ったように目を見開き、それから、そっとその手を握った。


 「じゃあ、行こうか。……君だけの夏、始めに行こう」


 ◇


 最初に訪れたのは、海沿いの遊歩道だった。

 青くきらめく波が、太陽の光を受けて何色にも揺れる。


 紬は、両手を大きく広げて風を受けた。

 その姿は、本当にどこか“自由な鳥”のようで――

 蒼司は思わず、手を伸ばしかけて、そして思い直した。


 「ねえ、結城くん」


 「ん?」


 「今日の私は、病人に見える?」


 「……全然」


 「よかった。じゃあ、私、今日だけは“君の彼女”でもいいかな」


 不意の言葉に、蒼司は目を見開いた。


 けれど、彼女の真っ直ぐな瞳に、冗談の色はなかった。


 「……いいに決まってる。今日だけじゃなくても」


 その言葉に、紬はふっと微笑んで、彼の腕にそっと寄り添った。


 「ありがとう。……その言葉だけで、胸がいっぱいになりそう」


 ◇


 昼過ぎ、ふたりは、紬が行きたがっていた喫茶店を訪れた。


 古びた木製の扉。ステンドグラスの窓。

 小さな店内には、アイスティーのグラスが並び、優しいジャズが流れていた。


 「ねえ、すごく素敵。……本当に、現実なんだね」


 「うん」


 「夢じゃないよね?」


 「夢じゃない。これは、君と僕の“現実”だ」


 紬は、しばらく無言でアイスティーの色を見つめたあと、ゆっくりと飲んだ。

 その一口に、どれだけの想いがこもっていたのか、蒼司にはわかる気がした。


 彼女の笑顔は穏やかで、壊れそうなくらい静かだった。


 「……ねえ、ひとつだけ、もう一つだけ、お願いしてもいい?」


 「何でも言って」


 「このあと、夕暮れの海が見える場所に行きたいの。

  最後に、もう一度だけ、あの色をちゃんと目に焼きつけたいの」


 蒼司は、迷わずうなずいた。


 「……行こう。君の一日が終わる、その前に」


 夕方になり、海は茜色の光をまといはじめていた。


 陽が沈む少し前――蒼司と紬は、静かな入り江の近くに立っていた。

 観光客の姿はほとんどなく、聞こえるのは、波が岩を撫でる音と、遠くの風鈴の音だけ。


 紬は、スカーフを外して風にあずけた。

 細い肩が、少しだけ震えていた。


 「風、気持ちいいね」


 「うん。……夏の終わりの風って、すこしだけ、やさしい」


 「わかる。それに……この時間って、ぜんぶがゆっくりになる気がするの。

  空も、音も、時間も、感情も。全部が、“止まる寸前”みたいな感じ」


 蒼司は黙って、紬の隣に立ち、海を見つめた。


 空は、彼女の言うとおりだった。

 まるで時間の流れが緩やかになっているようで、夕陽が海に溶けるまでの一秒一秒が、胸に染み込んでいく。


 「……今日って、ね。私が、願ってた“いちばんの夢”だったの」


 紬が、小さな声で言った。


 「病院の中じゃない日。

  何かを測られたり、薬を飲まされたりするんじゃない時間。

  点滴の針も、心拍数のグラフもない世界。

  ただ、“普通の女の子”として過ごす一日」


 蒼司はゆっくりうなずいた。


 「願いは、叶った?」


 紬は、少しだけ笑って、首を横に振った。


 「……まだ、半分だけ」


 「半分?」


 「残りの半分はね――

  “好きな人に、ちゃんと伝える”ってこと。

  本当の気持ちを、ちゃんと自分の言葉で、届くように言うこと」


 蒼司は、鼓動が一瞬止まるような感覚に包まれた。


 紬は、深く息を吸い込んで、そして、まっすぐ彼を見た。


 「――私は、あなたが好き。

  心から好き。

  この夏の全部が、あなたとだから、大切になった。

  この景色も、風も、味も、光も――

  ぜんぶ、あなたがそばにいてくれたから、意味を持てたの」


 その言葉は、震えながらも、確かに響いていた。


 「たった一日でも、たった一度でも。

  誰かをちゃんと“好きになれた”って記憶が、

  きっと、死ぬことよりずっと大きな意味を持つと思うの」


 「紬……」


 蒼司の声が、かすかに揺れる。


 「だからね。

  私はもう、こわくない。

  あなたが、私を忘れない限り、私はここに生きていられるから」


 海風がふたりの間を吹き抜け、スカーフが舞い上がって、海へと流れていく。


 蒼司は、紬の手をしっかりと握った。


 「俺は、絶対に忘れない。……絶対に」


 「……ありがとう」


 紬は、涙を見せなかった。

 けれど、その頬を流れた光は、夕陽だけじゃなかった。


 ふたりは、ただ海を見ていた。

 沈んでいく光、終わっていく時間。

 けれど、その中に確かにあった、“生きている”という実感だけを握りしめるように。


 紬と過ごした一日が終わりに近づいたころ、ふたりは、再び病院の正門前にいた。


 夜の空気はひんやりとしていて、昼間の暑さが嘘のように消えていた。

 街灯が、病院の壁を淡く照らしている。


 蒼司は、何度も振り返りそうになる気持ちを押し殺しながら、紬と並んで歩いていた。


 「今日は、ありがとう。……ほんとに、ありがとう」


 紬が、やさしく言った。

 その声には、達成感と、微かな別れの気配が混じっていた。


 「ありがとうを言うのは、俺の方だよ」


 「ふふ、じゃあ、五分五分ね」


 そう言って、紬はポケットから小さな封筒を取り出した。


 「これ、預かってほしいの。……もし、私が言葉にできなくなったときのために、書いたもの」


 蒼司は、それを両手で受け取った。

 少し厚みのある封筒。あの手紙の束の中から、選ばれた一枚。


 「……読んでいいのは、ちゃんと“お別れ”したあとね。

  ずるいけど、そうしないと、きっと私は泣いちゃうから」


 「そんな日が……来なくていいのに」


 蒼司がそう言うと、紬はかすかに微笑んだ。


 「ううん、来ていいんだよ。だって、“永遠”なんて誰にもないでしょ?

  でも、“一緒にいた”っていう時間は、どんな終わりよりも、強いから」


 彼女の言葉は、どこまでも優しく、どこまでも強かった。


 ふたりは、しばし無言で並んで立っていた。

 門の外には夜風が吹き、病院の中では看護師の巡回の足音が響いている。


 「ねえ、最後に、もうひとつだけお願いしてもいい?」


 「……何?」


 「生きていて。ちゃんと、これからも生きていて」


 蒼司は、息を呑んだ。


 「誰かに会って、笑って、喧嘩して、写真撮って、

  また恋をして――

  それでも、“誰かのことを想った夏”が、ちゃんと残っているように。

  私の代わりに、生きてほしいの」


 紬は、蒼司の手に、そっと自分の指を重ねた。


 「……君のことを、俺はずっと忘れない。

  それが、生きるってことなら、何度でも思い出すよ」


 紬は、静かにうなずいた。


 「じゃあ、もう十分。……おやすみ、結城くん」


 「おやすみ、紬」


 その言葉を交わして、ふたりは別れた。


 振り返ると、紬の背中が、病院の扉の向こうに消えていく。

 その姿は、まるで光に溶けていく幻のようだった。


 その夜、蒼司は紬からもらった封筒を開けなかった。

 きっと、それを開くときは、もう彼女の声が聞こえなくなったときだと思ったから。


 ただ――

 その封を胸元に抱いて、彼は目を閉じた。


 波の音が聞こえる気がした。

 あの日の空の色が、まぶたの裏に浮かんだ。


 “君のいた夏”が、確かにそこにあった。


◇ ◇ ◇


 九月の風が吹きはじめたある朝、病院から一通の連絡が届いた。


 紬が、眠るように息を引き取ったという報せだった。


 朝方のことだったらしい。

 苦しまず、静かに、ただ目を閉じたままだったと。


 蒼司は、そのとき、不思議と泣かなかった。

 けれど、何かが胸の奥で“音もなく崩れていく”感覚が、ずっと続いていた。


 気づけば、ポケットの中にある小さな封筒に指を添えていた。


 ――あの日、紬が託した最後の手紙。


 夜。

 彼は、海辺の小さな宿の部屋でそれを開いた。



 結城くんへ


 この手紙を読んでいる頃、私はもう、この世界にいないんだと思う。

 だけどね、不思議と怖くはないよ。

 たぶんそれは、あなたが“ここにいた私”をちゃんと見てくれたから。


 生きていることって、きっと、ただ心臓が動いていることじゃないよね。

 笑ったり、怒ったり、誰かを好きになったり。

 そのすべてが“私だった”って、私は信じたい。


 あなたと過ごしたあの夏の一日は、

 私がこれまで願ってきたすべての夢を、ひとつにしてくれた日だったよ。


 ありがとう。

 出会ってくれて、名前を呼んでくれて、

 そして――私のことを、“残して”くれて。


 最後に、ひとつだけお願いがあります。


 どうか、あなたの“見つけた景色”を、

 誰かに見せてあげてください。


 私が愛した世界を、あなたの目を通して、誰かに届けてあげて。


 それがきっと、私が“生きていた証”になるから。


 紬より



 手紙を読み終えたあと、蒼司は声を出さずに泣いた。

 ただ、両手で顔を覆い、嗚咽だけが夜の部屋に響いた。


 “紬”という名の少女は、もういない。


 でも、彼女の声も、笑顔も、涙も、

 あの夏のすべての記憶が、胸の奥で確かに生きていた。


 数日後、蒼司は静かに旅支度を整えた。


 紬と過ごした町を離れるのは、あまりにも寂しくて。

 けれど、同じ場所に留まってしまえば、彼女の願いを果たせない気がしていた。


 「あなたの目を通して、誰かに届けてあげて」


 手紙に書かれていたその言葉が、胸の奥にずっと残っていた。


 彼女がこの世界で見て、触れて、愛したもの。

 それを、自分のレンズを通して残すこと――それこそが、彼女に“託された”ものなのだと、ようやく理解できた。


 東京に戻った蒼司は、かつて妹と一緒に通っていたギャラリーに足を運んだ。

 小さな貸しスペース。白い壁と、木のフロア。


 そこに、紬の写真を並べる。

 彼女が笑った場所、歩いた道、見上げていた空。

 そして――あの日、海に向かって両手を広げた、あの一枚。


 シャッターを切ったとき、蒼司は「残してしまった」と感じていた。

 でも今は、それが「残すための一瞬だった」と思える。


 展示の準備は、丁寧に、時間をかけて進めた。

 どの写真にもキャプションはつけなかった。

 けれど、紬の言葉を引き写した手紙だけを、ひとつの台にそっと置いた。


 > “たった一度でも、誰かをちゃんと好きになれた記憶が、

 >  死ぬことよりずっと大きな意味を持つと思うの。”


 オープン初日、会場には数人の来場者が訪れた。


 静かな空間に、淡い光と風景が並ぶ。

 誰も声を上げない。

 ただ、立ち止まり、眺めて、目を伏せ、そしてまた次の写真へと進んでいく。


 その中に、見覚えのある姿があった。


 紬の母親だった。


 控えめに入ってきた彼女は、ひとつひとつの写真の前で、そっと目を閉じるように佇んでいた。

 そして、紬のあの一枚――海に向かって立つ背中の前で、ゆっくりと膝を折り、小さくつぶやいた。


 「……ありがとう」


 蒼司は、声をかけなかった。

 けれど、その一言が、この写真展のすべてを肯定してくれた気がした。


 展示の最後に置かれた手紙を、彼女はそっと読み、涙を拭いながら頭を下げて出ていった。


 その姿を見届けたあと、蒼司はひとりギャラリーの中央に立ち、改めて彼女の“残した光”を見渡した。


 紬はもう、この世界にはいない。

 けれど――確かに、ここに“生きている”。


 写真展が終わった翌週、蒼司は再びカメラを手に、旅に出た。


 目的地は決まっていなかった。

 ただ風の吹く方へ、光の差す方へ、彼女が好きだった空の色を探して歩く。


 「残すこと」――かつては、それが怖かった。

 誰かの記憶を焼きつけることが、喪失と直結するように思えた。


 けれど今は違う。


 残すという行為は、誰かの生を肯定すること。

 “ここにいた”という証を、世界に刻みつけること。


 紬は言った。


 >「私の代わりに、生きてほしいの」


 それは、あまりに重く、けれど確かな祈りだった。


 宿の部屋で、彼はふとノートを開いた。

 そこに、自分の手でひとことだけ書く。


 >「今日、名前も知らない少女が、小さな花を拾って笑った。

 >  その笑顔を、ちゃんと見ていた。

 >  シャッターは押さなかったけれど、たしかに残った」


 カメラを持っていても、すべてを写真にする必要はない。

 でも、“残す”という気持ちは、たぶん、今の自分にとっての“生きること”だった。


 夜。

 蒼司は、紬の手紙の最後のページを、もう一度だけ読み返した。



 ――ねえ、結城くん。


 君がいつか誰かと笑って、

 また新しい景色に出会ったとき、

 どうかほんの一瞬でいいから、私を思い出して。


 それだけで、私はその世界にもう一度生きていられるから。


 私は、君に出会えてよかった。


 君が、私の“最後の風景”になってくれて、本当にありがとう。


 君がいない世界で、私は――

 ずっと、君の幸せを祈っています。



 涙は、もう流れなかった。


 ただ、胸の奥に灯った光が、彼の背をそっと押した。


 窓の外、朝焼けが空を満たしていく。

 その色は、紬が愛した色と、まったく同じだった。


 彼女はいない。

 でも――


 “君が、いない世界で。”

 蒼司は、今も確かに、生きている。



〈完〉

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