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恋、二話目 『君がくれた、未来へ』

『君がくれた、未来へ』


 冷たい雨が、屋根を静かに叩いていた。


 その日、目が覚めた瞬間から、何かが胸の奥に引っかかっていた。空は重たく曇り、窓の外はどこまでも灰色に濁っていた。まるで、心の中を映し出すように。


 「……また雨か」


 小さく呟いて、俺はカーテンをわずかに開けた。

 けれど、そこに広がっていたのは、ただ濡れた景色と、ぼやけた輪郭の世界。


 いつも通りの朝――そう言い聞かせようとしても、喉の奥が詰まったように言葉が続かない。


 ワンルームのアパートは、相変わらず質素で静かだった。家具も、音も、ぬくもりも少ない。けれど、唯一の救いは、この小さな空間の中に「日常」があったことだ。


 コーヒーメーカーがかすかに鳴る音。トースターの焼ける匂い。味気ない生活の中で、それでも俺は、今日も同じように“朝”を迎えている。


 ただひとつ、昨日とは違うことがある。


 ――となりの部屋に、女の子が引っ越してきた。



 名前も知らない。声も、まだ聞いたことはない。

 けれど、昨夜、雨の中でふとした拍子に、俺は彼女を見かけた。


 「……すみません……傘、持ってなくて」


 薄く震えた声。

 小さな体をかばうようにして、玄関前で濡れていた姿。


 咄嗟に、俺は差し出していた。自分の傘を。


 「入る? ……部屋に、って意味じゃない。アパートの階段の下、少し屋根あるから」


 言葉はぶっきらぼうだったと思う。でも、彼女は目を見開いたあと、こくんと頷いた。


 その時、少しだけ笑った顔が、妙に頭に残っている。



 玄関のチャイムが鳴いたのは、午前八時を少し回った頃だった。


 俺はマグカップを置いて、少しだけ乱れた髪を整えながら、ゆっくり扉を開ける。


 そこにいたのは、昨日の、あの女の子だった。


 髪は濡れていなかったけれど、肩からかけた小さなバッグと、胸元を押さえるしぐさに、どこか遠慮がちさが残っていた。


 「……昨日は、ありがとうございました」


 彼女は、そう言って、包みを差し出した。


 「お礼……って言っても、たいしたものじゃなくて。でも……助かりました」


 受け取った紙袋の中には、手作りの小さな焼き菓子が三つ。ラッピングも簡素で、それでもまっすぐな“ありがとう”の気持ちが伝わってくる。


 「別に……そんなの、いいのに」


 俺は視線をそらしながら、そう答えた。

 でも、たぶん、ほんの少しだけ笑っていたと思う。


 彼女は安心したように微笑んだ。

 その顔は、昨夜見たものと同じだった。


 そして、小さく頭を下げたあと、彼女はくるりと背を向けた。


 けれど、去り際にふと立ち止まり、こちらを振り返る。


 「私……芹沢ひよりって言います」


 雨に濡れた空の下。

 その名前は、やけにあたたかく、そして透明に響いた。


 「……月島。月島悠真」


 口にした自分の名前が、少しだけやわらかく聞こえた。


 アパートの廊下に、静かな雨音がまた戻ってくる。


 それは、何も起きていないはずの一日。

 だけど、この朝の出会いが、すべての始まりだった。


* * *


 その日も雨だった。


 ただ、昨日のような冷たさは、どこか和らいでいた。小ぶりになった雨は、アスファルトを濡らしながら、街の音を少しだけ優しくしてくれている。


 月島悠真は、傘をさしてアパートの階段を下りると、見慣れた角を曲がった。会社までは電車で二駅。ほんの十分ほどの通勤だけれど、その短い時間すら憂鬱に感じる日もある。


 けれど、今日は違った。


 理由は分かっている。


 「……芹沢ひより、さん……か」


 昨日名乗ってくれた名前を、無意識のうちに口の中で繰り返していた。


 それだけで、ほんの少し心が和らぐ気がするのは、自分でも不思議だった。



 仕事を終えて帰ってきたのは、夕方六時を少し過ぎた頃だった。


 曇った空がまだ明るく、雨もようやく上がっていた。濡れた路面が、街灯の明かりを映している。何気ない風景。だけど、いつもより少しだけ、彩りがあった。


 アパートの階段を上がると、前方の扉の前に、ひよりの姿があった。


 「あ……こんばんは」


 彼女は少し驚いたように振り返ったあと、すぐに笑顔を見せた。


 「今日、雨止みましたね。昨日の傘……ありがとうございました」


 「ああ……うん」


 言葉がうまく出てこなかった。けれど、彼女は気にする様子もなく、少しだけ前に出て、手を合わせるように言った。


 「実は、ちゃんとお礼言えてなかったと思って……今日、もう一度言いたかったんです」


 その言葉が、真っ直ぐだったからこそ、悠真はなぜか戸惑ってしまう。


 ひよりはふと、ポケットから小さなメモを取り出した。


 「これ……手紙、ってほどでもないですけど……良かったら」


 白い紙に、細いペンで丁寧に書かれた文字が並んでいた。

 「助けてくれて、ありがとうございました」と、それだけが書かれた、短い文章。


 でも、そこに込められた気持ちは、誰よりも丁寧だった。


 「……そんな、わざわざ」


 「ううん。わたし、誰かに助けてもらったの、すごく久しぶりで。だから……うれしかったんです」


 彼女の声は、静かだった。

 でも、少しだけ震えていた。


 悠真は、何も言わずに頷いた。

 そして、そのまま自分の部屋のドアノブに手をかけた――が、ふと思い直す。


 「……よかったら、コーヒーでも飲んでいく?」


 それは、気まぐれでも、義務でもなかった。


 ただ、もう少しだけ、この“偶然の隣人”と話したいと思った。それだけだった。


 ひよりは一瞬目を見開いたあと、ふわりと笑って、うなずいた。


 「……じゃあ、お言葉に甘えて」



 部屋には、温かいコーヒーの香りが満ちていた。


 簡素なマグカップが二つ。ローテーブルに、彼女が昨日くれた焼き菓子。何気ない風景だけれど、どこか新しい空気が流れている気がした。


 「このお菓子、全部ひよりさんが?」


 「うん。料理はそんなに得意じゃないけど、甘いもの作るのは好きで」


 彼女は照れくさそうに笑う。けれど、その笑顔にはどこか“強がり”にも似た空気が混じっていた。


 「……ここに来たばかり、なんですよね」


 「ええ。一週間くらい前に。東京は久しぶりで……こっちの空気、まだ慣れてないです」


 「もともとは?」


 「神奈川です。……あ、でも、それほど遠くはないから」


 会話は、どこまでも穏やかだった。


 だけど、ふとした瞬間に、彼女の表情が陰ることがあった。

 それは、まるで“過去”という重りを、心のどこかにずっと持ち続けているような――そんな影だった。


 けれど、それを無理に聞く気にはなれなかった。


 「ここ、静かでいい場所ですよ」


 そう言うと、ひよりは少し驚いた顔をした。


 「そうですね……ほんとに静か。だから、ちゃんと考えられるんです。いろんなこと」


 「たとえば?」


 「……生きることとか」


 その言葉に、思わず手が止まった。


 けれど、彼女はそれ以上何も言わなかった。ただ、マグカップを両手で包むようにして、そっと口をつけた。


 気がつけば、雨の音は完全に止んでいた。


 雲の切れ間から、夜の月がわずかに覗き、アパートの窓を淡く照らしている。リビングの明かりを落とすと、その静かな光が床に影を落とした。


 「……そろそろ、戻りますね」


 マグカップをそっとテーブルに置いて、ひよりが立ち上がる。

 悠真も、それに合わせて立ち上がった。


 「ごめんなさい、長居しちゃって……」


 「いや、全然。……久しぶりに、ゆっくり話せたから」


 それは本心だった。


 いつもなら、誰とも会話せずに過ぎる夜。

 けれど、今夜は違った。

 言葉を交わすことが、こんなにも心を温めるものだったなんて。


 ひよりが玄関まで歩き、扉に手をかけたそのとき、ふと振り返った。


 「……あの、月島さんは、どうしてあのとき傘をくれたんですか?」


 唐突な問いに、少しだけ戸惑う。


 けれど、それはどこか不器用な「ありがとう」の続きのように思えて、悠真はしばらく考えたあと、ゆっくり言葉を紡いだ。


 「……たぶん、あのときの君の顔が、昔の誰かに、少しだけ似てたから」


 それは、昔に失った、淡くて痛い記憶だった。

 けれど、ひよりは無理に聞き返すこともなく、ただ、小さく頷いた。


 「……そっか」


 静かな声が、夜の空気に吸い込まれていく。


 そのまま彼女はドアを開け、廊下に出る。

 けれど、ほんの一歩進んだところで、もう一度振り返った。


 「じゃあ、また……いつか、コーヒー、飲ませてください」


 「……ああ、もちろん」


 笑いながら言ったその瞬間、彼女もふっと笑った。

 今夜の笑顔は、少しだけ、心からのものに見えた。


 扉が閉まる音は、やけに静かだった。

 けれど、それは別れではなく、どこか新しい始まりの合図のように感じた。



 部屋に戻った悠真は、テーブルの上に残された焼き菓子をひとつ手に取った。


 手作りの甘さが、じんわりと口の中に広がる。

 それはまるで、心の奥にしみ込んでくるような優しさだった。


 隣の部屋から、かすかに物音がした。

 カップを洗う水音だろうか。あるいは、窓を閉める音。


 こんなにも近くに、誰かの気配を感じること。

 それが、こんなにもあたたかいものだったなんて。


 ――また、話せたらいい。


 そう思ったとき、自分でも気づかないうちに、胸の奥がふわりと揺れていた。


 雨が止んだ夜に、少しだけ、心が前に進んだ気がした。


* * *


 土曜日の朝、いつもより遅く目が覚めた。


 窓から差し込む光は、やわらかく部屋を包み込んでいた。静かな週末。外は晴れ。洗濯日和だ。ベランダに出て空を見上げると、高く澄んだ空に、白い雲がゆったりと流れていた。


 「……久しぶりの晴れか」


 そうつぶやいて、悠真は洗濯機を回し始めた。


 このアパートのベランダは、隣の部屋と薄い仕切り板で分けられている。声は聞こえないが、洗濯物を干すタイミングが重なると、なんとなく気配でわかる程度の距離感だった。


 そして、今日も――


 「……おはようございます」


 ひよりの声が、仕切りの向こうからふわりと届いた。


 「ああ、おはよう」


 悠真も、ベランダに出てタオルを干しながら、自然に応じる。


 顔は見えない。けれど、不思議とそのほうが気楽だった。言葉のやりとりも、少しずつ慣れてきている。


 「今日は、いい天気ですね」


 「そうだな。……久しぶりに洗濯ができる」


 「ふふっ、私もです。……ずっと部屋干しだったから」


 小さな笑い声が、風に乗って届く。

 ただそれだけの会話なのに、不思議と心が軽くなる。


 洗濯物を干し終えて、悠真は缶コーヒーを片手にベランダの手すりによりかかった。向こう側でも、ひよりが一息ついた気配があった。


 「……このアパート、静かで落ち着きますね」


 「うん。……俺、あんまり人と話すの得意じゃないから、こういう場所がちょうどいい」


 「私も……ちょっと似てます。……人と距離をとるの、癖になってて」


 ひよりの言葉は、どこか自嘲気味だった。


 その言葉の奥に、何かを隠しているような気がした。けれど、悠真は無理に踏み込まなかった。自分にも、語りたくない過去があるから。


 沈黙がしばらく続いたあと、ひよりがぽつりと言った。


 「……月島さんって、休みの日は何してるんですか?」


 「俺? うーん……家事、買い物、昼寝。あとは……漫画読んだり」


 「なんか、意外。漫画とか読むんですね」


 「意外か?」


 「もっと……真面目で、そういうの読まなそうなイメージだったから」


 「ふつうに読むよ。ジャンル問わず、何でも」


 「へえ……今度、オススメ教えてくださいね」


 「……いいけど、俺の趣味、変わってるかもよ」


 ひよりがまた、小さく笑う気配がした。

 そして、そのままふっと風が吹き、洗濯物が揺れた。


 何でもない、土曜日の午前中。

 でも、こうして言葉を交わすだけで、部屋の中に少しだけ“誰かの気配”があるような気がした。


 ――隣に誰かがいる。

 ただ、それだけで。



 その日の午後、偶然にもふたりは、近くのスーパーでばったり会った。


 買い物かごを片手に通路を曲がったとき、ひよりがいた。驚いて立ち止まると、彼女もこちらに気づいて目を丸くした。


 「あ……!」


 「よ。奇遇だな」


 「ほんとですね……こんなとこで会うなんて」


 ひよりは、カゴの中に野菜や調味料をいくつか入れていた。メモ帳を片手にしていて、どうやら真面目に献立を考えているらしい。


 「ちゃんと料理するんだな」


 「いちおう、がんばってます。……でもひとり分って難しくて」


 「分かる。ついカップ麺とか手が伸びる」


 「それはダメですよ。栄養偏っちゃう」


 そう言って軽く睨まれたが、どこかあたたかかった。

 悠真は思わず、笑ってしまった。


 「じゃあ……たまには、お裾分けとか……してもらえると、助かるかも」


 言ったあと、少し気恥ずかしくなって目をそらす。

 けれどひよりは、ほんの少し照れたように、でも嬉しそうにうなずいた。


 「……気が向いたら、ですね」


 それは、翌日の夕方のことだった。


 休日最後の日曜、悠真は昼過ぎまで掃除や洗濯をして過ごし、遅めの昼食を終えてのんびりしていた。時計の針が午後四時を回った頃、ふとチャイムが鳴った。


 こんな時間に誰かが来るのは珍しい。

 インターホンを覗くと、モニター越しにひよりの姿があった。


 「……?」


 玄関の扉を開けると、ひよりが両手にタッパーを抱えて立っていた。


 「こんにちは……ちょっとだけ、いいですか?」


 「あ、ああ。もちろん」


 少し戸惑いながらも招き入れると、ひよりは緊張した面持ちで、手にしていたものを差し出してきた。


 「これ……さっき作ったんですけど、よかったら」


 それは、手作りの煮物と、卵焼き。家庭的な、どこか懐かしい香りが漂っていた。


 「お裾分けって言ってたから……ほんとに、気が向いたので」


 彼女は、少しだけ恥ずかしそうに笑う。

 その表情が、どこか“誰かに食べてもらいたい”と願っていたようにも見えた。


 「ありがとう。……めちゃくちゃ助かる」


 悠真は素直に言って、タッパーを受け取った。


 「……食べたら、感想くださいね」


 「うん、ちゃんと味わって食べるよ」


 彼女はほっとしたように微笑んで、静かに帰っていった。



 その夜。


 温め直した料理をひと口食べた瞬間、思わず目を細めた。


 出汁の効いた煮物の味。ふんわり焼かれた卵焼き。

 どれも、派手さはないけれど、しっかりと優しい味がした。


 (……美味い)


 思わずつぶやくと同時に、心の奥に微かな温もりが広がっていく。


 いつもなら、電子レンジで温めるだけの冷凍弁当か、手抜きのカップ麺。

 でも、今夜は誰かが自分のために作ってくれたご飯だった。


 ――こんな、当たり前みたいなことが、こんなにも嬉しいなんて。


 気がつけば、タッパーの中身はあっという間に空になっていた。


 そして、ふと、何か返したくなった。

 それは“礼儀”とか“お返し”なんて理由じゃない。

 ただ――ひよりに、少しでも何か届けたかった。



 次の日、悠真は朝のうちにスーパーへ寄り、いつもは買わない材料をそっとカゴに入れた。


 コーヒーゼリーの素。

 牛乳、生クリーム、チョコチップ。

 そして、小さな透明のカップ。


 夜、帰宅してからキッチンで作ったのは、不器用ながらも精一杯の「お返し」だった。


 ――見た目はちょっといびつでも、味でカバーできれば。


 そんな思いを込めて、出来上がったゼリーを冷やす。

 翌朝、まだ少し涼しさが残る朝の空気の中、ひよりのポストに小さなメモと共にそれを置いた。


 《昨日のお礼です。もし甘いものが好きなら、どうぞ》



 その日の夜。ひよりがまたチャイムを鳴らした。


 開けたドアの向こう、彼女はゼリーの空カップを手にしていた。


 「すっごく、おいしかったです。……本当に」


 目を輝かせて言うひよりに、悠真はなぜか少し照れたように笑った。


 「そりゃよかった。……ちゃんと、甘さ控えめにしたつもりだったけど」


 「うん。でも、ちゃんと甘くて……やさしい味でした」


 それは、きっとゼリーの味じゃなくて――彼の気持ちに対しての言葉だった。


 「また、作ってくださいね?」


 「……じゃあ、今度は一緒に作るか」


 言ったあと、自分でも驚くほど自然な言葉だったと気づく。

 ひよりは一瞬目を丸くしたあと、笑顔で頷いた。


 「……はい」


* * *


 ある晩、仕事から帰ってきた悠真が自室でカーテンを閉めようとしたとき、隣のベランダが妙に静かなことに気づいた。


 いつもなら、夕食後に洗濯物を取り込んだり、植物に水をやったりするひよりの姿が、少しの気配でも感じられるのに――今夜は、何もない。


 窓の向こう、仕切り板の向こうからも、物音ひとつしなかった。


 (……どうかしたのか?)


 そう思ってはみたものの、すぐに扉をノックするのも気が引けて、やがてそのまま夜が更けていった。



 次の日の朝。

 アパートの前で、偶然、出勤する彼女の姿を見かけた。


 「……おはよう」


 声をかけると、ひよりは立ち止まり、小さく会釈を返した。けれど――その目元が、少し赤い。


 「……大丈夫か?」


 その言葉に、ひよりは一瞬だけ言葉を飲み込んだように見えた。けれどすぐに、小さく笑って首を振る。


 「ううん、平気。……ありがとう」


 その笑顔が、“平気じゃないとき”に浮かべる種類のものだと、悠真はすぐにわかった。

 けれど、それ以上は何も聞けなかった。

 聞いたところで、彼女はきっと、笑って「大丈夫」って言うに決まっている。


 その日は、それだけだった。



 そして――その夜。


 いつものようにリビングで過ごしていると、突然、隣の部屋から“かすかな嗚咽”のような音が聞こえた。


 はじめは気のせいかと思った。

 でも、二度、三度と、こらえるような小さな泣き声が、壁越しに響く。


 思わず立ち上がって、玄関を出た。

 そして、躊躇いながらも、ひよりの部屋のドアをそっとノックした。


 ……応答はない。


 それでも、ほんの少しの間をおいて、カチャ、と内鍵の開く音がした。


 扉がゆっくりと開くと、そこにいたひよりは――目を真っ赤に腫らして、何かをこらえるように立っていた。


 「……ごめんなさい。うるさくしちゃって……」


 その声が、泣き疲れた子どものように震えていた。


 「中……入ってもいいか?」


 少しの沈黙のあと、彼女は頷いた。



 部屋の中は薄暗く、カーテンは閉じられたままだった。

 テーブルの上には、食べかけの夕飯と、ぐしゃぐしゃになったハンカチ。


 「……どうしたんだ?」


 問いかけると、ひよりはソファに座り込み、ぽつりぽつりと話しはじめた。


 「……今日、病院に行ってきたんです。定期検診……みたいなものなんだけど」


 「……うん」


 「やっぱり、良くはなってないって。……むしろ、少し進んでるかも、って言われて」


 その声は、笑っているようで、泣いていた。


 「自分では、元気なつもりでいたのに……。仕事もして、ご飯も作って、普通に生活できてるって思ってたのに。……でも、身体の中は……少しずつ、崩れていってて……」


 泣き出すことを我慢していた涙が、ぽろぽろと溢れはじめた。


 悠真は、隣に座り、黙ってそっとハンカチを差し出した。


 「……ごめんなさい。こんなの、見せたくなかったのに」


 「……見せてもいい。俺、いるから」


 その言葉に、ひよりの肩が少しだけ震えた。


 そして彼女は、何も言わずに、そっと悠真の肩にもたれかかった。


 彼女の身体は細くて、軽くて、触れるのが怖いほどだった。

 けれどその重みは、確かに“誰かと生きている”という証だった。



 夜が深まる中、ふたりはしばらく、何も言葉を交わさずに座っていた。


 ただ、静かに寄り添って。


 それだけで、何かが少しだけ救われる気がした。


 あの夜から、ふたりの距離はほんの少しだけ、変わった。


 変わらない日常の中で、でも確かに――ひよりの部屋から漂う空気が、どこか柔らかくなっていた。


 そして週末の土曜日。

 昼前にスーパーで買い物を済ませた悠真が帰宅すると、部屋の前で、ひよりが待っていた。


 白いエプロンをつけたまま、少し照れたように立っている。

 彼女の手には、小さな紙袋が握られていた。


 「こんにちは。あのね、今日のお昼……いっしょにどうかなって。よかったら、なんだけど」


 不意にそんな言葉をかけられて、悠真は少しだけ驚いた。

 でも、すぐに頷く。


 「……じゃあ、手ぶらじゃ悪いから。俺、飲み物持ってく」


 「うん。待ってるね」


 そんな自然なやりとりができるようになったことが、

 不思議と、とても嬉しかった。



 ひよりの部屋のダイニングには、湯気を立てたシチューと、バターの香りが広がっていた。


 テーブルの上には、シチューとバゲット、そして手作りのサラダ。

 彩り豊かな食卓は、まるで雑誌の一ページのようだった。


 「……これ、ひとり分には見えないな」


 「ふふ。がんばりました。……たまには、誰かと食べたくて」


 それはきっと、“ひとりで食べたくなかった”という意味だった。


 悠真は黙って席につき、スプーンを手に取った。

 シチューはやわらかく煮込まれた野菜と、ほんのりとした甘さがあって、口に運ぶたび、ほっとする味だった。


 「……美味しい。なんか、あったかくなる味」


 「よかった。ちゃんと食べてくれる人がいるって、嬉しいんです」


 ひよりはそう言って、そっと笑った。


 ――誰かと食卓を囲むという、ただそれだけの時間が、

 こんなにも静かで、優しいものだったとは。


 ふたりで話す話題は、なんてことのない日常のことばかりだった。


 仕事のこと。

 スーパーのポイントカードがもうすぐ貯まること。

 好きな料理の話。

 子どものころの、好き嫌いの話。


 笑ったり、ちょっとふざけたり。

 そんな時間が、永遠に続いてほしいと思えるほど――穏やかだった。



 食後に片づけを終えると、ひよりが不意に言った。


 「……いつか、一緒に行きたいなって思う場所があるんです」


 「行きたい場所?」


 「うん。子どものころ、両親とよく行ったんだけど……海の見える小さな町。そこにある、ベンチに座って、サンドイッチ食べてたの。いつも決まって、同じ場所で」


 ひよりは、ほんの少し遠くを見つめるように言った。


 「ずっと、もう行けないって思ってた。でも……最近、行きたいなって、思えるようになって」


 「……じゃあ、一緒に行こう。天気のいい日に」


 悠真のその言葉に、ひよりは少しだけ目を見開いたあと、ゆっくりと笑った。


 「うん。ありがとう」


 その笑顔には、悲しみも迷いも、どこか小さな決意も混ざっていて――

 ただの“お礼”以上の意味を含んでいるように感じた。


* * *


 月曜日の夜、ひよりの部屋のポストに、厚みのある白い封筒が投函された。


 差出人は、名前を見ただけで胸が締めつけられるような相手だった。


 ――母親からだった。


 その手紙を見た瞬間、ひよりはしばらく動けなかった。

 封筒の縁には、小さなにじみがある。水滴の跡か、手汗か、それとも母の涙かは分からない。

 けれど確かに、それは「今さら」という時間を越えて届いたものだった。



 リビングのソファに座り込み、彼女は封を切った。

 便箋三枚。筆跡は丁寧で、昔と変わらない母の文字。


 内容は、こうだった。


 ――あなたのことを、いつも考えています。

 ――会いたいけど、どう声をかければいいか分からなかった。

 ――病気のことを受け止めるには、時間が必要でした。

 ――けれど今は、あなたがどこかで笑ってくれているなら、それでいいと、本気で思っています。


 どこまでも優しい言葉だった。

 でも、それ以上に遠くて、残酷なほど静かな“距離”も感じた。


 (……どうして、いまさら)


 封筒を胸に抱いたまま、ひよりはしばらく泣いた。

 怒りとか悲しみではない。

 ただ、ずっとどこかで欲しかった言葉が、

 やっと届いたという事実が、涙になって溢れただけだった。



 翌日。

 帰宅してから、悠真はひよりの部屋をそっと訪ねた。


 「……大丈夫か?」


 彼女は、手紙をテーブルに伏せたまま、頷いた。


 「……母から、手紙が来たんです」


 その言葉に、悠真は表情を変えず、ただ静かにうなずく。


 ひよりは、ゆっくりと語り始めた。


 「私ね、病気のことを知ってすぐに、家を出たの。

 両親はすごく混乱してて……たぶん、“そんなの嘘だ”って、最初は受け入れてくれなかった。

 でも、私は“ありのままの私”を、誰かと一緒に生きたかったの。だから、離れたの」


 「……今のほうが、ひよりは“ひより”らしくいられるってことか」


 「……うん。そう、思えるようになったの、最近だけど」


 彼女は少しだけ笑い、伏せていた手紙を指でなぞった。


 「……でも、許せるようになってきた気がする。あの人も、あの人なりに精一杯だったのかもって。

 ――そう思えるようになったのは、きっと……悠真くんがいてくれたから、かもしれない」


 その言葉に、悠真は何も返さなかった。

 ただ、静かにうなずいた。


 彼は、言葉ではなく、隣にいることで答えを示していた。


 それが、いまの彼女にとって、何よりの支えだった。



 夜が更け、ひよりはふと呟いた。


 「……ねぇ、いつか一緒に、母に会ってくれる?」


 その問いは、決して軽いものではなかった。

 けれど悠真は、驚くことなく、ごく自然に頷いた。


 「うん。行こう。……一緒に行こう」


 その言葉が、彼女の心の奥の奥にある、長い間しまっていた鍵をそっと開けていく。


* * *


 それは、週末の晴れた日のことだった。


 朝の光がカーテンの隙間から差し込んで、春の気配を部屋いっぱいに運んでくる。

 隣の部屋から聞こえてきた食器の音に誘われるように、悠真はゆっくりと身支度を整えた。


 ピンポンと軽やかなチャイムが鳴ったのは、その直後だった。


 「……おはよう。早く起きてたんだな」


 玄関の前には、薄いニットにコートを羽織ったひよりが立っていた。

 その手には、小さなトートバッグと、お弁当らしき包み。


 「うん。お弁当、作ったの。……ちょっとだけ、ピクニックしない?」


 そう言って差し出されたそれは、昨日の夜「今度、一緒に行きたい」と話していた“海の見える町”への小さな旅のお誘いだった。



 電車を乗り継ぎ、ふたりが辿り着いたのは、坂道の先に海が広がる、小さな港町。


 潮の香りと、カモメの鳴き声。

 ゆったりと流れる時間に、都会の慌ただしさは影も形もなかった。


 「ここ、だと思う……」


 ひよりが立ち止まったのは、小さな広場の片隅にある木製のベンチ。

 海を真正面に見渡せるその場所には、風に揺れる白い布の屋台がひとつ、ゆるやかにたたずんでいた。


 「昔、家族で来たとき、ここでサンドイッチ食べてたの。何度も、何度も」


 その声には懐かしさと、少しの切なさがにじんでいた。


 ふたりはベンチに腰をかけ、お弁当の包みを広げた。


 卵焼きに、ほうれん草の胡麻和え、俵型のおにぎり。

 全部がどこか素朴で、だけど優しさが詰まっていて、口に運ぶたびに心がほどけていくようだった。


 「美味しい……。なんか、落ち着く」


 「ふふ……よかった。こういうの、ちゃんと誰かに食べてもらえるのって、すごく幸せ」


 そう呟いたあと、ひよりは海の方を見つめながら、ぽつりと言った。


 「ねぇ、もし……わたしがいなくなったら、この場所を、覚えててくれる?」


 悠真は、一瞬だけ箸の動きを止めた。

 けれど次の瞬間には、視線をそらさず、まっすぐに頷いた。


 「……覚えてるよ。絶対に忘れない。

 でも、そんな“もし”より、今をちゃんと見よう。

 今、ここにいる“ひより”と、この時間をちゃんと残しておきたいんだ」


 その言葉に、ひよりの目がふっと潤んだ。


 「……ありがとう」


 潮風に乗って、彼女の声がかすかに揺れる。

 でも、そこにはもう迷いがなかった。


 ふたりで過ごす“今”を大切にしたいと、そう願うひよりの心が、ようやく言葉にできた瞬間だった。



 日が傾き始めた頃、ふたりは広場をあとにした。


 帰り道、坂の上から見下ろす海は、まるで光をまとったガラスのようにきらきらと輝いていた。


 ひよりは立ち止まり、静かに呟いた。


 「こんなふうに思い出を作れるなんて、思ってなかった。

 ……ありがとう、悠真くん」


 「俺の方こそ。ひよりがいたから、ここに来られたんだ」


 その言葉に、ひよりはそっと目を閉じ、深く深く頷いた。


 ――この時間を、絶対に忘れない。


 ふたりで見た海。

 ふたりで食べたお弁当。

 そして、ふたりで交わした約束。


 それらすべてが、“未来”へと静かにつながっていく。


* * *


 春の陽気が少しずつ初夏の風を連れてくる頃、ひよりの様子がほんの少しだけ変わりはじめた。


 それは、朝。


 「……ん……」


 小さな吐き気に目を覚ましたひよりは、洗面台に手をつきながら、自分の鼓動が妙に早いことに気づいた。


 前の晩に食べた夕食は、ごく普通のものだった。体調も、そこまで悪くなかったはず。

 けれど、胸の奥に微かな不安がよぎる。


 (……まさか。まさか、そんなはず……)


 そう思いながらも、どこか“気づいていた”自分がいた。



 数日後、ふたりは部屋で向かい合っていた。


 静かに差し込む午後の光の中、ひよりの手の中には、白い紙の封筒があった。

 病院から届いた検査結果。それを見て、彼女は深く息を吐いた。


 「……赤ちゃん、できてた」


 その言葉は、とても小さな声だった。

 けれど、確かに響いた。


 悠真は、すぐに言葉を返せなかった。

 驚きもあった。動揺もあった。

 でも、それよりも胸を強く揺らしたのは――彼女の瞳の中にあった、深く、複雑な光だった。


 「ごめんね……迷惑、だよね。私の体のこと、全部知ってるのに……ちゃんと、考えなきゃいけなかったのに」


 「違う」


 悠真は、彼女の言葉を遮るように、静かに言った。


 「迷惑なんかじゃない。……びっくりしたけど、でも……ひよりが命を宿してるって、そう聞いて……不思議と、怖くなかった」


 「……どうして?」


 「わからない。けど……この子が“ふたりの時間”から生まれたって思ったら、なんか……嬉しかった。ひよりが、ここにいてくれて、そうしてくれたことが、嬉しかった」


 その言葉に、ひよりの目が潤んだ。


 「……私ね、ずっと“できない”って思ってた。

 病気のこともあるし……きっと、もう無理なんだって。

 だから、この命が、ほんとうにここにあるなんて――信じられなかったの」


 「……じゃあ、これから信じていこう。ふたりで、ゆっくりでいい。ひよりの体のことも、赤ちゃんのことも、ぜんぶ。俺、そばにいるから」


 「……ほんとに?」


 「ほんとに。約束する」


 ひよりは、小さく笑って、両手をおなかに重ねた。

 その仕草は、とても穏やかで、美しかった。



 その夜、ひよりはノートをひらき、静かにペンを走らせた。


 《この小さな命に、出会えたことが奇跡だと思う。

 でも、それ以上に――私が“今”を愛せていることが、一番の奇跡なのかもしれない。

 ありがとう。あなたにも、この子にも》


 インクのにじんだ文字が、ページをあたたかく彩っていた。


* * *


 それは、穏やかな陽射しに包まれたある日の午後だった。


 ひよりは、いつものようにアパートのベランダで洗濯物を干していた。

 風にそよぐシャツの裾が光を透かして揺れ、どこかの家から漂ってくる夕飯の匂いが、小さな生活の気配を優しく伝えてくる。


 けれど、その日は少し違っていた。


 ほんのわずか、動悸がした。

 足元がふらつき、咄嗟にベランダの手すりにすがる。


 「……はぁ……っ」


 目の前がにじむようにぼやけた。

 胸の奥から込み上げてくるものに、ひよりは唇を噛み締めた。


 無理はしていないつもりだった。

 自分の身体のことも、赤ちゃんのことも、なるべく気をつけていた。

 でも、体はやっぱり正直だった。


 (……私、ほんとうにこのまま無事に産めるのかな)


 心の奥に、ふと影が差す。


 これまで、何度も乗り越えてきた“体調の波”。

 でも、今回は自分ひとりの問題ではない。


 ――私の中に、もう一つの命がある。

 その重さが、怖さが、日に日に現実になっていく。



 その夜、ひよりはいつものように、悠真の部屋のドアをノックした。


 「……ごめん、今いい?」


 「もちろん。……入って」


 ソファに腰を下ろすと、ひよりはゆっくりと話し始めた。


 「今日、ちょっと、体調が悪くて……。

 立ってるのが少ししんどくなって、動悸もして……」


 「……病院には?」


 「明日、予約入れたの。念のため」


 悠真は、黙って彼女の手を取った。

 温かくて、静かで、でもどこか少しだけ、強く握られている気がした。


 「怖い?」


 「……うん。

 私、この子を守りたいのに、私の体のせいで……何かあったらって思うと、怖くて、泣きたくなる」


 「泣いてもいいよ」


 その一言で、ひよりは声を漏らして泣いた。


 言葉なんてもういらない。

 その場にいること、手を握ってくれること――それだけが、どれほど救いになるか、悠真はもう知っていた。



 翌朝。

 病院の検査結果は、幸いにも「過労と軽度の低血圧」だった。

 胎児の状態も安定していて、すぐにどうこうという兆候はなかった。


 「無理せず、日々をゆっくり過ごしてくださいね」


 医師の言葉を胸に、ひよりは深くうなずいた。



 その帰り道。

 ふたりは公園のベンチで少しだけ休んでいた。

 初夏の光が木漏れ日となって揺れ、通り抜ける風がどこまでも優しかった。


 「ねえ、悠真くん」


 「ん?」


 「私、この子の名前、もうなんとなく考えてるの」


 「もう?」


 「ふふ、まだ生まれてもないのにね。でも、すごく不思議なの。

 この子の鼓動を感じてると、言葉が降りてくるみたいに、名前が浮かんできて……」


 彼女は、小さく手のひらをお腹に添えて、そっと囁いた。


 「この子はね、“希望”っていう意味を持つ名前にしたいの。

 だって――私が、未来を信じてみようって思えるようになったのは、この子が来てくれたからだから」


 悠真は何も言わず、ただ頷いた。


 その横顔に、ひよりは静かに微笑んだ。


 この日、小さな“希望”という名の命が、ふたりの未来に確かに根を下ろした。


 夏の入り口、6月の風が梅雨の湿り気をはらんで吹き始めた頃。


 ひよりのお腹は、ほんのわずかに丸みを帯びてきた。

 服の上からではほとんど分からないけれど、手を当てれば、小さな膨らみが指先に伝わる。


 「……もう、こんなに……」


 朝、鏡の前でそっとシャツの裾を持ち上げたひよりは、優しくお腹をなでた。

 そこにいる確かな“存在”が、日々の不安と並んで、少しずつ彼女の心を変えていく。


 怖い気持ちは消えていない。

 でも、それ以上に、「守りたい」という想いが強くなっていた。



 ふたりの生活も、少しずつ変化していた。


 悠真は、朝早く目覚ましをかけて、ひよりの分の朝食を用意するようになった。

 洗濯物を干すのも、ゴミを出すのも、買い出しも――当たり前のように分担していたことが、自然と彼の方に寄っていく。


 「……ほんとに、ありがとう。全部してもらっちゃって」


 「いいんだよ。俺がしたくてやってるだけだし、

 ひよりには、ちゃんと“育てる”っていう大仕事があるから」


 「……“育てる”かあ」


 ひよりは、その言葉を口の中で繰り返しながら、湯気の立つスープを両手で包んだ。


 “育てる”という言葉の響きが、以前よりもずっと身近に感じられるようになっていた。



 ある日、スーパーからの帰り道。


 通り雨の後の虹が、夕暮れの空にほんのり浮かんでいた。


 「見て……虹」


 ひよりが立ち止まり、指をさす。

 その表情には、どこか懐かしさと安心が混じっていた。


 「昔ね、小さい頃、お母さんが言ってたの。“虹が見えたら、明日いいことがある”って」


 「……いいこと、あるといいね」


 「ううん。もうあるよ」


 そう言って、ひよりは笑った。

 その笑顔を見て、悠真の胸に、あたたかいものが満ちていく。



 夜。


 ふたりは隣り合ってソファに座り、膝にブランケットをかけて静かにテレビを眺めていた。


 特別な番組でもない、いつものバラエティ。

 けれど、こうして笑い合えることが、何よりの幸せだと思えた。


 ふと、ひよりがつぶやく。


 「ねえ、悠真くん。……もし私が、このままちゃんと産めなくても……それでも、あなたは、この子を……愛してくれる?」


 その声は、少し震えていた。

 身体のこと、病気のこと――乗り越えたと思っていても、時折ふと心が波立つのだ。


 悠真はそっと手を伸ばし、彼女の手を包む。


 「ひよりが守ろうとしたこの命だよ。……俺も、全力で守るよ。

 どんな未来でも、俺は離れない。ひよりと、この子と、ちゃんと一緒にいたいんだ」


 その言葉に、ひよりの瞳がふわりとほどける。


 変わっていく体。

 変わっていく生活。


 けれど、変わらない想いが、ふたりをしっかりと結んでいた。


* * *


 その日、ひよりは定期検診のため、いつもの産婦人科へと足を運んでいた。


 外はしとしとと雨が降っていて、待合室には穏やかなBGMと雨音が混ざっていた。

 壁にかけられたモニターでは、赤ちゃんの成長過程を描いたアニメーションが流れ、隣の席では若い夫婦が嬉しそうにエコー写真を見つめていた。


 ひよりはお腹に手を当てながら、ふうっと小さく息を吐いた。

 きちんと食べて、休んで、無理はしないようにしている。

 赤ちゃんは順調だと言われてきた。――これまでは。



 診察室に入り、ベッドに横たわる。

 エコーの画像がモニターに映し出された瞬間、ひよりは思わず目を見開いた。


 「……動いてる……」


 画面の中で、小さな手足が確かに動いている。

 心音も、ピッピッとリズムよく響いていた。


 「順調ですね」と、医師は言った。


 けれど、その直後、彼は少し眉をひそめる。


 「……ただ、ひよりさん。あなたの心臓のデータですが……ここ数週、わずかですが負荷の上昇が見られます。

 おそらく妊娠による循環量の増加が原因でしょう。まだ“危険域”ではありませんが、注意が必要です」


 その言葉は、思っていたよりも静かに、けれど確かに胸の奥に沈んだ。


 「……このまま、お産までもちますか?」


 勇気を出して訊いた自分の声が、まるで誰か他人のように聞こえた。


 「正直に言えば、五分五分です。妊娠が進むほど、心臓への負担は増します。

 でも――今すぐ何かを諦める必要はありません。あなたの体と、赤ちゃんの状態、どちらも慎重に見守っていきましょう」



 病院を出ると、雨はやんでいた。

 アスファルトに反射する夕焼けの光が、まるで滲んだ水彩画のようだった。


 (五分五分……)


 その言葉が、耳の奥に残っていた。

 もう片方は、助かる可能性だ。そう分かってはいても、不安が膨らんでいく。


 でも――


 (それでも、私はこの子を産みたい)


 静かに、けれどはっきりとそう思った。



 その夜、ひよりは悠真にすべてを話した。


 「……ごめんね。

 ほんとうは、まだ黙ってようと思ってた。

 でも、やっぱり……隠しているのがつらくて」


 悠真は言葉を失い、彼女の顔をじっと見つめた。


 「そんなの、謝らないで。……教えてくれて、ありがとう」


 彼の手が、そっと彼女の背を包む。


 「怖いけど……でも、ちゃんと伝えてくれて嬉しかった。

 俺、ひよりが決めたこと、全部受け止めるから。産みたいって思ってるなら、俺も一緒に頑張る。何があっても、離れないよ」


 ひよりは、ようやく小さく微笑んだ。


 「……ありがとう。

 私は、最後まで信じたいの。

 この命も、自分の体も、そして――あなたのことも」


 その想いが、夜の静けさの中に深く、強く響いていた。


* * *


 検診の結果を受けてから、ひよりと悠真の生活は少しだけ変わった。


 これまでも無理をしないよう心がけてきたが、それは“なんとなく”の配慮だった。

 けれど今は違う。


 買い物のルートを短縮し、重い物は悠真が持つ。

 室内の掃除も、ひよりが立ち上がる前に悠真が手を動かす。

 以前なら「やっておくね」と笑っていたことが、今では「必ず自分がやるべきこと」になっていた。


 けれど、ひよりは時折、不安そうに目を伏せる。


 「……私、役に立ってない気がして……」


 ある日の昼下がり。

 窓辺に置いた椅子に座って、お腹を撫でながら彼女はぽつりとこぼした。


 「今は、ひよりが“生きてる”ってことが、いちばん役に立ってるんだよ」

 悠真はそう答えながら、ひよりの背中をそっとなでた。


 「洗濯も、掃除も、料理も、買い物も……ぜんぶ俺がやれば済むこと。でも、ひよりの代わりは、誰にもできない」


 その言葉に、ひよりの瞳がわずかに揺れた。


 「……ねえ、悠真くん」


 「うん?」


 「わたし、将来のこと、少し考え始めたの」


 「将来?」


 「この子が生まれたら……どう暮らしていくのか。

 私がもし――万が一のときでも、あなたが困らないようにって」


 “万が一”という言葉を使ったとき、ひよりの声はほんの一瞬だけ震えた。

 けれど、それ以上にその目は真剣で、強く、まっすぐだった。


 「だから、保険や手続きのこと、調べておきたいの。

 それと、私の口座を、あなたと共有できるようにしておきたい。通帳も、印鑑も……全部、預けてもいいって思ってる」


 「……ひより」


 悠真はその場で返事をしなかった。

 ただ、ひよりの手を取って、自分の額に当てた。


 「そんな先のことまで考えてくれて……ありがとう。

 でも俺は、できる限り“未来のひより”と、ちゃんと暮らしていきたいんだ」


 「……うん。私も、生きたいよ。

 この子の成長を、一緒に見たい。初めて笑った日も、初めて歩いた日も、一緒に……」


 窓の外では、初夏の風がカーテンをふわりと揺らしていた。


 日々は確かに変わっていく。

 けれど、ふたりの願いは、揺るがず、静かに、同じ未来を見つめていた。


* * *


 7月のある朝。

 蝉の声が遠くで鳴き始めたその日、ひよりはベッドの中で目を覚ますと、異変に気がついた。


 息が、苦しい。


 胸の奥で、重い石を抱えたような感覚。

 心拍が早く、手足がじんわりと汗ばんでいた。


 「……っ、は……」


 ゆっくりと起き上がろうとして、けれどすぐに断念する。

 視界が揺れて、呼吸がうまく整わない。


 ――いつもとは、違う。


 そう思った瞬間、体が反応した。

 手を伸ばし、枕元のスマートフォンを取って、震える指でメッセージを打つ。


 《ごめん、ちょっと苦しい。病院行きたい》



 20分後、駆けつけた悠真がドアを開けると、ひよりはリビングの隅で座っていた。


 顔は青白く、汗を浮かべていたが、意識はある。

 けれどその姿に、悠真の心臓が跳ね上がる。


 「ひより、大丈夫!? いま車、出すから!」


 「……うん……ありがと……」


 ふらつく体を支えながら、なんとか車に乗り込み、病院へと向かった。



 病院での診察を終えたあと、個室のベッドに横たわるひよりの手を、悠真はそっと握っていた。


 「急性の心不全症状です。幸い、点滴と酸素で落ち着いていますが……今後もこういった発作が続く可能性があります」


 医師の説明に、悠真は小さくうなずく。


 「今後の妊娠の継続について、考える時期に来ているかもしれません。

 母体を最優先とする場合、早期の出産を……あるいは、中止を検討することも……」


 その言葉は、刃物のように鋭く、静かに刺さってきた。


 「……中止、ですか」


 ひよりの声は、掠れていた。


 「そうですね。いまなら、まだ“母体の安全”を最優先にした判断が可能です。

 ただ……もちろん、これは医療的な選択肢の一つであって、最終的な判断は、あなた方次第です」


 “あなた方次第”。


 その言葉の重みを、ふたりとも、静かに受け止めていた。



 夜。病院の静かな個室の中。


 点滴の針が繋がれた腕を見つめながら、ひよりは言った。


 「……この子、助けられるって……保証、ないんだよね」


 「……そうだね」


 「でも……」


 ひよりは、ベッドの上でそっと手を組む。


 「それでも、私は――生まれてきてほしいって思うの。

 たとえ私がどうなっても……この子が、生きてくれるなら」


 「ひより……」


 「お願い。悠真くん。

 私の代わりに、この子を生かしてあげて。

 ちゃんと、笑わせてあげて。抱きしめてあげて」


 震える声の中に、揺るがない意志があった。


 悠真はその言葉に返すように、ゆっくりとひよりの手を握り直した。


 「……約束する。絶対に、守るよ。

 だから――俺は、最後まで諦めたくない。

 できる限り、君と、この子と、一緒に未来に行きたい」


 ふたりの手の間に、あたたかな沈黙が流れる。


 答えはまだ出ない。

 でも、ふたりの“願い”は、もう決まっていた。


 病院の廊下は静かで、窓の外では蝉の声が遠く響いていた。


 入院から数日。ひよりは病室のベッドに身を預け、点滴とモニターに繋がれながら、慎重に経過を見守られていた。


 毎日交わす医師との短い会話。

 毎晩やってくる悠真との時間。

 そして、お腹の中で確かに生きている――小さな命の鼓動。


 「ねえ……悠真くん」


 夕方、部屋に差し込む光が金色に染まり始めたころ。

 ひよりはそっと話し出した。


 「私ね、この子に名前を考えてたの。生まれる前だけど……ずっと前から、もし女の子だったら“この名前がいいな”って思ってたの」


 悠真は驚いたように目を瞬かせた。


 「そうだったんだ。……どんな名前?」


 「“未来(みらい)”。ねえ、変じゃないかな?」


 その名前は、まるで希望そのもののようだった。

 けれどひよりは、自嘲気味に微笑んだ。


 「……まるで自分には似合わないような名前よね。

 でも、この子には、ちゃんと未来を照らしてほしいの。

 私がいなくなっても、明るい方へ、歩いていけるようにって」


 悠真は、何も言わなかった。

 ただ、彼女の手を強く握りしめる。


 そのとき、モニターのリズムが少しだけ変わった。

 ひよりの表情がかすかに歪み、胸に手を当てる。


 「……ちょっと……苦しい……かも……」


 ナースコールを押し、看護師が駆けつける。


 医師の判断は早かった。


 「母体への負担が限界に近づいています。

 赤ちゃんの命を最優先に考えるなら、帝王切開での出産に踏み切る必要があります。――今夜、行います」


 “今夜”。


 それは突然だったけれど、ふたりの中で覚悟は、もうとっくにできていた。



 手術前の準備が進められる中、病室の灯りは落とされていた。

 ひよりは手術着に着替え、点滴の針を確かめながら、悠真を見つめて微笑んだ。


 「ねえ……最後に、お願いがあるの」


 「なに?」


 「この子が生まれたら――あなたが、最初に抱いてあげて。

 そして、最初に名前を呼んであげて。

 “未来”って」


 その声はとても静かで、とても優しかった。


 「私ね、怖くないって言ったら嘘になるけど……でも、後悔はしてない。

 この子が生きて、生まれてきてくれるなら、それだけでいい」


 悠真の目に、涙が浮かぶ。


 「絶対、守る。……ひよりも、この子も。

 だから、無事に戻ってきて。どんなに時間がかかってもいい。待ってるから」


 「うん……約束だよ……」


 それが、ふたりが交わした最後の言葉だった。



 手術室の扉が閉じる。


 緊張した空気の中、帝王切開が静かに始まる。


 モニターの音。

 医師たちの声。

 それらを包むように、夜の静けさが病院を覆っていた。


 そして――


 産声が、上がった。


 「女の子です!」


 医師の声が響く。

 赤ちゃんは、小さな手をぎゅっと握りしめて、全身を使ってこの世界に生まれ落ちた。


 その小さな命を抱きしめながら、悠真は泣いていた。

 涙をこらえながら、震える声で名を呼んだ。


 「……未来。君の名前は、未来だよ……」


 それが、願いのすべてだった。


 夜が明けきらない、病院の静けさ。


 出産から数時間が経ち、外の空がわずかに白み始める頃。

 悠真は新生児室の窓の前に立っていた。


 ガラス越しの向こう側で、小さな命――「未来」は、保育器の中ですやすやと眠っている。

 生まれたばかりとは思えないほど、しっかりとした眉。柔らかい唇。薄いまつげが光を受けて、かすかに揺れていた。


 (お前……ちゃんと、生まれてきたんだな)


 悠真は、自分でも気づかないほど穏やかな声で、そう心の中で語りかける。


 「未来――お前の名前は、母さんがつけてくれたんだ」


 ガラスに手を当てて、そっと目を閉じた。


 その瞬間、あの夜の記憶がよみがえる。



 手術室の外で待つ時間は、永遠のように感じられた。


 時計の針は確かに動いているはずなのに、耳の奥では秒針の音も届かない。

 病院の夜は静かで、ただ淡く、ただ冷たかった。


 「月島さん」


 名前を呼ばれたとき、悠真は立ち上がった。


 「お子さん、無事に生まれました。体重は少し軽めですが、肺もしっかりしていて、今のところ大きな異常はありません」


 「……ありがとうございます」


 声が震えたのは、安堵と、まだ終わらない不安のせいだった。


 「……ひよりは?」


 看護師の表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。


 「現在、処置中です。麻酔の影響や心臓への負担もありますので、慎重に経過を見ています。……すぐに会えるとは、言いきれませんが」


 その言葉の裏にある意味を、悠真はわかっていた。


 (――まだ、生きている)


 それだけが、支えだった。



 夜明け前の病室。


 術後のひよりは、まだ深く眠っていた。


 モニターが淡々と脈拍を刻み、呼吸を助ける酸素マスクがわずかに曇る。


 その隣で、悠真は静かに椅子に座っていた。

 手には、ひよりが最後に手渡そうとしていた「手紙」があった。


 未開封のまま、封筒には彼女の柔らかな文字で、こう書かれている。


 《悠真くんへ。もし、私が目を覚まさなかったら》


 (いや、開けない。……まだ、目を覚ますって信じてる)


 悠真は、手紙を胸にしまい込む。


 「……ひより。未来、無事に生まれたよ。ちゃんと、元気に泣いてる。……お前の願い、叶ったよ」


 眠りの中のひよりのまぶたが、かすかに動いたように見えた。


 けれど、それはまだ――静かな眠りのままだった。


 朝日が昇る頃、病院の屋上に出た悠真は、まだ誰もいない空間でそっと封筒を取り出した。


 それは、ひよりが数日前、自分の枕元に置いていたものだった。

 「読まないで」と言われたわけじゃない。

 けれど、どこかで開けてしまえば終わってしまうような気がして、ずっと胸にしまっていた。


 けれど――


 今朝、医師に告げられた言葉が、決断を早めた。


 「意識は戻らない可能性があります。脳への酸素供給が一時的に……」


 それは、もう「覚悟してください」という意味だった。


 震える指先で封を切る。

 柔らかな便箋に、ひよりの文字が並んでいた。



 悠真くんへ。


 この手紙を読んでいるということは、きっと私は、もう隣にいられないのかもしれない。

 だから、ちゃんと伝えたいことを書きます。


 まずは――ありがとう。

 私に“普通の日々”をくれて、ありがとう。

 私に“恋をする時間”をくれて、ありがとう。

 そして、私の命に、意味をくれてありがとう。


 ねえ、私、ずっと怖かったんだ。

 誰かを好きになることも、誰かに愛されることも。

 だって、きっと、どんな幸せも“途中で終わってしまう”って思ってたから。


 でも、あなたと出会って、少しずつ変わっていった。

 朝の挨拶とか、コンビニの袋を持ってくれる手とか、何気ない会話とか。

 どんなに短くても、私は確かに“生きていた”って思えるの。


 そして――


 この子のこと。

 お腹の中でね、小さな鼓動が響いたとき、私は初めて「自分が人の未来になれる」って感じたの。


 命って、繋がっていくものなんだね。

 たとえ私がいなくなっても、この子が生きて、誰かと笑ってくれたら。

 それだけで、私の人生は、十分に“幸せだった”って言える。


 悠真くん。

 あなたがこの先、泣いてもいい。弱くなってもいい。

 でも、どうか未来の前では、笑ってあげてください。


 そして、できれば時々でいいから――思い出してくれたら嬉しい。

 玄関先で咲いた花の匂いとか、雨の日の傘の中とか、眠る前の部屋の灯りのこととか。

 そういう“私たちの時間”が、どこかに残ってくれていたら、それで十分です。


 最後に。


 あなたを好きになって、よかった。

 あなたに出会えて、ほんとうによかった。


 ありがとう。


 ――ひよりより



 手紙を読み終えたとき、悠真はゆっくりと目を閉じた。


 胸の奥が、ひどく痛かった。

 でも、その痛みの中に、確かな温もりがあった。


 涙が頬を伝い落ちる。

 けれど、その涙の奥で、彼は静かに微笑んでいた。


 「……ひより、ありがとう。ちゃんと届いたよ。全部、受け取った」


 新しい朝が、確かにそこにあった。


* * *


 春の風が、淡く花の香りを運んでいた。


 公園の一角、桜の木の下で、ひとりの男がベンチに腰掛けている。

 その隣には、小さな女の子が、絵本を大事そうに抱えて座っていた。


 「パパ、これ読んで」


 女の子――未来は、少しクセのある明るい髪と、母親譲りの長いまつげを持っていた。

 そしてその瞳には、不思議な強さと、優しさが宿っていた。


 「うん、読もうか」


 絵本を受け取った悠真は、ページをめくりながら、優しい声で読み始める。

 声には、どこか懐かしさと切なさが混じっていたけれど、それを知るのは彼だけだった。


 (ひより……未来は、今日もちゃんと笑ってるよ)


 読み終えると、未来が小さく拍手をして笑った。


 「このお話、ママも読んでくれたの?」


 その問いに、悠真は少しだけ考える。

 ――正確には、読んであげる前に、ひよりは旅立った。


 けれど。


 「うん。ママもきっと、このお話が好きだったと思うよ。優しくて、強いお姫さまが出てくるから」


 「ママも、お姫さまだったの?」


 「そうだな……パパにとっては、世界で一番のお姫さまだったよ」


 未来はにこっと笑って、ベンチの上で足をぶらぶらさせた。

 その姿は、まるであの日のひよりを小さくしたようだった。


 ふと、風が吹く。


 未来は顔を上げ、空を見上げた。


 「ねえ、ママって、どこにいるの?」


 その問いは、いつか来るだろうと分かっていた。

 だから、悠真は嘘をつかないと決めていた。


 「空の上だよ。でもね、ちゃんとここにもいる」


 そう言って、未来の胸のあたりをそっと指差す。


 「ママの優しさも、笑い方も……全部、未来のなかに生きてる。だから、寂しくなったら、こうして胸に手を当ててみるといいよ。……ママの声、きっと聞こえてくるから」


 未来は真剣な顔で、自分の胸に手を当てる。


 「……あったかい」


 「そうだね。ママの心は、いつもそこにあるんだよ」


 ふたりはしばらく黙って、空を見上げていた。

 青空に、桜の花びらがひとひら、ふわりと舞っていく。


 それはまるで、誰かの“返事”のようだった。


* * *


 春の朝。

 玄関先で、未来が白い帽子を直しながら、ランドセルより少し小さなリュックを背負って立っていた。


 「パパ、くつ、ちゃんと左右合ってる?」


 「うん、大丈夫。昨日と同じ左足が左で、右足が右だな」


 「ふふ、当たり前じゃん」


 そう言いながらも、未来はにこにことうれしそうに笑う。


 今日は、幼稚園の入園式の日。

 数日前から、未来は準備にそわそわしていた。服を選び、お弁当袋を並べて、名札の位置を何度も確認して――まるで小さな大人みたいに、念入りに。


 「手、つなご?」


 玄関を出たところで未来が手を差し出すと、悠真は素直に応じて、その小さな手を包み込んだ。


 「緊張してる?」


 「ちょっとだけ。でも……だいじょうぶ。だって、ママもきっと見てくれてるもん」


 その言葉に、悠真は一瞬だけ胸が詰まった。

 けれど、次の瞬間には静かに笑って、未来の手を少し強く握った。


 「うん。ママは、ずっと見守ってくれてるよ。きっと今日も、いちばん前の席で拍手してくれてる」


 「そっか……それなら、がんばる!」


 新緑の道を、ふたりは歩いていく。

 手をつないで、同じ速さで、同じ朝を。


 幼稚園の門が見えたとき、未来がぴたりと足を止めた。


 「パパ」


 「うん?」


 「いつか、ママみたいになりたい。優しくて、強くて、未来のこと大事にしてくれる、そんな人に」


 悠真は返事をしようとして、少しだけ空を見上げた。


 (ひより、聞こえてるか? 未来は、君のことをちゃんと見ているよ)


 「……絶対なれるよ。未来は、ママの宝物だもん。ママの優しさ、ちゃんと受け継いでる」


 「えへへ……ありがと、パパ」


 ふたりは笑い合い、そのまま園庭の方へと歩いていった。


 陽の光が差し込む朝。

 手をつないだその温もりが、未来への小さな灯火のように、静かに輝いていた。


* * *


 雨の音が、窓をやさしく叩いていた。


 休日の午後、未来はリビングの隅に座り込み、引き出しを開けてなにかを探していた。

 棚の中から出てきたのは、昔のアルバムや封筒、そして――小さなICレコーダーだった。


 「これ、なあに?」


 悠真がコーヒーを持ってくると、未来は少し誇らしげに差し出した。


 「なんかね、“ママ”って書いてあった」


 ラベルには、手書きの文字で《ひより・うた》と記されていた。


 ――ひよりが生前、残していた音声データ。


 見つけた当時、悠真はそれを聴くことができなかった。

 声を聴いた瞬間に崩れてしまいそうで、そっと棚の奥にしまったままだった。


 「……パパ、これ、きいてもいい?」


 未来の問いかけに、悠真は少し迷った。

 でも――もう、未来は聞いてもいい年齢になっていた。


 「……うん。ふたりで聴こうか」


 ICレコーダーの再生ボタンを押すと、少しだけノイズが走り、そのあとに――やわらかい声が流れ出す。


 《あー……これ、録れてるのかな。テスト、テスト。……ふふ、悠真くん、聞こえてる?》


 思わず、ふたりとも息をのんだ。


 《こんにちは、ママです。……って、未来ちゃんには、まだ会えてないんだけど。でも、もしこれを聴いてくれてるなら、きっとあなたは、ちゃんと生まれて、ちゃんと生きて、笑ってくれてるんだよね。ありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう》


 ひよりの声は、あの日のままだった。

 やさしくて、あたたかくて、どこかくすぐったくなるような。


 《私は、たぶん、もう隣にはいないと思います。でもね、ママはずっと、あなたのことを大好きだよ。毎日、空から見てるからね。泣いたときも、笑ったときも、どんなときも、ぎゅって抱きしめてる気持ちでいます》


 未来は、音にじっと耳を澄ませていた。

 その小さな肩が、ほんの少し震えていた。


 《この歌は、あなたのために作りました。だから、時々、思い出してくれたら嬉しいな》


 そうして流れたのは、優しい鼻歌のような子守唄。

 旋律は短くて素朴だけど、まるで心そのものを包むような響きだった。


 悠真は、手の中で涙を拭った。


 未来は、ゆっくりと顔を上げて言った。


 「……ママの声、ちゃんと届いたよ」


 その言葉に、悠真はただ、頷くしかなかった。


 (ひより……未来は、あなたの歌を覚えてくれた。あなたが命に託した“想い”は、ちゃんとこの子の中に、生きてる)


 レコーダーは、最後のメッセージを囁いた。


 《未来ちゃん、だいすき。パパのことも、どうかよろしくね》


 その日、空は澄み渡るような青だった。


 未来が小学六年生になった春、彼女は卒業式に向けた「作文発表会」に出ることになっていた。

 体育館の壇上に立ったその姿は、まるであのときのひよりを見ているようで、悠真は思わず目を細めた。


 壇上で一礼し、未来はマイクに向かって、はっきりとした声で語り始める。


 「『命を繋ぐ』というテーマで、私は作文を書きました」


 会場の空気が静まり返る中、彼女の声だけがまっすぐに響いていた。


 「私は、生まれたときに、お母さんがいませんでした。……でも、“いなかった”んじゃなくて、“命をくれた”人です」


 教室でも明るく元気な未来の、こんなに真剣な声を、きっと誰も聞いたことがなかっただろう。


 「私は、まだ会ったことがないのに、お母さんのことを“大好き”って思える。だって、私のなかには、お母さんの想いがたくさんあるから」


 客席の悠真は、拳を強く握っていた。

 心の奥で、何度も小さく頷きながら、彼女の言葉に耳を傾けていた。


 「パパは、いつも私に言ってくれます。『ママは君のなかに生きているよ』って。私は最初、その意味がよく分からなかったけど、今は少しだけ分かる気がします」


 「誰かの想いって、形がなくても、ちゃんと残ってるんです」


 未来の目は、まっすぐ前を見ていた。

 ひとりひとりの顔を見るように、静かに語りかけるように。


 「お母さんがくれた命を、私は大切にします。そして、いつか誰かに“優しさ”を渡せる人になりたい。そうやって、命がつながっていけば、きっと、どんな別れも“終わり”じゃないって思えるから」


 「これが、私の“命を繋ぐ物語”です。ありがとうございました」


 最後の一礼のあと、大きな拍手が体育館を包んだ。

 中には、静かに目元を拭う先生や、涙を隠すようにうつむく友達の姿もあった。


 悠真は、ゆっくりと立ち上がり、ひときわ長く、力強く拍手を送った。



 帰り道。桜並木の下を、未来と悠真は並んで歩いていた。


 「緊張したけど、言いたいこと全部言えたよ。……ママにも、届いたかな」


 「届いてるさ。君の声は、どこまでも届く」


 「そっか。じゃあ、これからも伝えていくね。ママのこと。命のこと。全部、ちゃんと覚えてるよ」


 春風がふたりの髪を揺らす。

 見上げた空は、あの日と同じ、あたたかな光に包まれていた。



命は、終わるものではなく――繋がっていくもの。


ひよりの想いは、未来の中で生き続け、悠真の中でも、未来を信じる力となっていた。


そしてまた、いつか。


この物語の続きを、誰かが歩いていくのだろう。



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