『君がくれた、未来へ』
冷たい雨が、屋根を静かに叩いていた。
その日、目が覚めた瞬間から、何かが胸の奥に引っかかっていた。空は重たく曇り、窓の外はどこまでも灰色に濁っていた。まるで、心の中を映し出すように。
「……また雨か」
小さく呟いて、俺はカーテンをわずかに開けた。
けれど、そこに広がっていたのは、ただ濡れた景色と、ぼやけた輪郭の世界。
いつも通りの朝――そう言い聞かせようとしても、喉の奥が詰まったように言葉が続かない。
ワンルームのアパートは、相変わらず質素で静かだった。家具も、音も、ぬくもりも少ない。けれど、唯一の救いは、この小さな空間の中に「日常」があったことだ。
コーヒーメーカーがかすかに鳴る音。トースターの焼ける匂い。味気ない生活の中で、それでも俺は、今日も同じように“朝”を迎えている。
ただひとつ、昨日とは違うことがある。
――となりの部屋に、女の子が引っ越してきた。
*
名前も知らない。声も、まだ聞いたことはない。
けれど、昨夜、雨の中でふとした拍子に、俺は彼女を見かけた。
「……すみません……傘、持ってなくて」
薄く震えた声。
小さな体をかばうようにして、玄関前で濡れていた姿。
咄嗟に、俺は差し出していた。自分の傘を。
「入る? ……部屋に、って意味じゃない。アパートの階段の下、少し屋根あるから」
言葉はぶっきらぼうだったと思う。でも、彼女は目を見開いたあと、こくんと頷いた。
その時、少しだけ笑った顔が、妙に頭に残っている。
*
玄関のチャイムが鳴いたのは、午前八時を少し回った頃だった。
俺はマグカップを置いて、少しだけ乱れた髪を整えながら、ゆっくり扉を開ける。
そこにいたのは、昨日の、あの女の子だった。
髪は濡れていなかったけれど、肩からかけた小さなバッグと、胸元を押さえるしぐさに、どこか遠慮がちさが残っていた。
「……昨日は、ありがとうございました」
彼女は、そう言って、包みを差し出した。
「お礼……って言っても、たいしたものじゃなくて。でも……助かりました」
受け取った紙袋の中には、手作りの小さな焼き菓子が三つ。ラッピングも簡素で、それでもまっすぐな“ありがとう”の気持ちが伝わってくる。
「別に……そんなの、いいのに」
俺は視線をそらしながら、そう答えた。
でも、たぶん、ほんの少しだけ笑っていたと思う。
彼女は安心したように微笑んだ。
その顔は、昨夜見たものと同じだった。
そして、小さく頭を下げたあと、彼女はくるりと背を向けた。
けれど、去り際にふと立ち止まり、こちらを振り返る。
「私……芹沢ひよりって言います」
雨に濡れた空の下。
その名前は、やけにあたたかく、そして透明に響いた。
「……月島。月島悠真」
口にした自分の名前が、少しだけやわらかく聞こえた。
アパートの廊下に、静かな雨音がまた戻ってくる。
それは、何も起きていないはずの一日。
だけど、この朝の出会いが、すべての始まりだった。
* * *
その日も雨だった。
ただ、昨日のような冷たさは、どこか和らいでいた。小ぶりになった雨は、アスファルトを濡らしながら、街の音を少しだけ優しくしてくれている。
月島悠真は、傘をさしてアパートの階段を下りると、見慣れた角を曲がった。会社までは電車で二駅。ほんの十分ほどの通勤だけれど、その短い時間すら憂鬱に感じる日もある。
けれど、今日は違った。
理由は分かっている。
「……芹沢ひより、さん……か」
昨日名乗ってくれた名前を、無意識のうちに口の中で繰り返していた。
それだけで、ほんの少し心が和らぐ気がするのは、自分でも不思議だった。
*
仕事を終えて帰ってきたのは、夕方六時を少し過ぎた頃だった。
曇った空がまだ明るく、雨もようやく上がっていた。濡れた路面が、街灯の明かりを映している。何気ない風景。だけど、いつもより少しだけ、彩りがあった。
アパートの階段を上がると、前方の扉の前に、ひよりの姿があった。
「あ……こんばんは」
彼女は少し驚いたように振り返ったあと、すぐに笑顔を見せた。
「今日、雨止みましたね。昨日の傘……ありがとうございました」
「ああ……うん」
言葉がうまく出てこなかった。けれど、彼女は気にする様子もなく、少しだけ前に出て、手を合わせるように言った。
「実は、ちゃんとお礼言えてなかったと思って……今日、もう一度言いたかったんです」
その言葉が、真っ直ぐだったからこそ、悠真はなぜか戸惑ってしまう。
ひよりはふと、ポケットから小さなメモを取り出した。
「これ……手紙、ってほどでもないですけど……良かったら」
白い紙に、細いペンで丁寧に書かれた文字が並んでいた。
「助けてくれて、ありがとうございました」と、それだけが書かれた、短い文章。
でも、そこに込められた気持ちは、誰よりも丁寧だった。
「……そんな、わざわざ」
「ううん。わたし、誰かに助けてもらったの、すごく久しぶりで。だから……うれしかったんです」
彼女の声は、静かだった。
でも、少しだけ震えていた。
悠真は、何も言わずに頷いた。
そして、そのまま自分の部屋のドアノブに手をかけた――が、ふと思い直す。
「……よかったら、コーヒーでも飲んでいく?」
それは、気まぐれでも、義務でもなかった。
ただ、もう少しだけ、この“偶然の隣人”と話したいと思った。それだけだった。
ひよりは一瞬目を見開いたあと、ふわりと笑って、うなずいた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
*
部屋には、温かいコーヒーの香りが満ちていた。
簡素なマグカップが二つ。ローテーブルに、彼女が昨日くれた焼き菓子。何気ない風景だけれど、どこか新しい空気が流れている気がした。
「このお菓子、全部ひよりさんが?」
「うん。料理はそんなに得意じゃないけど、甘いもの作るのは好きで」
彼女は照れくさそうに笑う。けれど、その笑顔にはどこか“強がり”にも似た空気が混じっていた。
「……ここに来たばかり、なんですよね」
「ええ。一週間くらい前に。東京は久しぶりで……こっちの空気、まだ慣れてないです」
「もともとは?」
「神奈川です。……あ、でも、それほど遠くはないから」
会話は、どこまでも穏やかだった。
だけど、ふとした瞬間に、彼女の表情が陰ることがあった。
それは、まるで“過去”という重りを、心のどこかにずっと持ち続けているような――そんな影だった。
けれど、それを無理に聞く気にはなれなかった。
「ここ、静かでいい場所ですよ」
そう言うと、ひよりは少し驚いた顔をした。
「そうですね……ほんとに静か。だから、ちゃんと考えられるんです。いろんなこと」
「たとえば?」
「……生きることとか」
その言葉に、思わず手が止まった。
けれど、彼女はそれ以上何も言わなかった。ただ、マグカップを両手で包むようにして、そっと口をつけた。
気がつけば、雨の音は完全に止んでいた。
雲の切れ間から、夜の月がわずかに覗き、アパートの窓を淡く照らしている。リビングの明かりを落とすと、その静かな光が床に影を落とした。
「……そろそろ、戻りますね」
マグカップをそっとテーブルに置いて、ひよりが立ち上がる。
悠真も、それに合わせて立ち上がった。
「ごめんなさい、長居しちゃって……」
「いや、全然。……久しぶりに、ゆっくり話せたから」
それは本心だった。
いつもなら、誰とも会話せずに過ぎる夜。
けれど、今夜は違った。
言葉を交わすことが、こんなにも心を温めるものだったなんて。
ひよりが玄関まで歩き、扉に手をかけたそのとき、ふと振り返った。
「……あの、月島さんは、どうしてあのとき傘をくれたんですか?」
唐突な問いに、少しだけ戸惑う。
けれど、それはどこか不器用な「ありがとう」の続きのように思えて、悠真はしばらく考えたあと、ゆっくり言葉を紡いだ。
「……たぶん、あのときの君の顔が、昔の誰かに、少しだけ似てたから」
それは、昔に失った、淡くて痛い記憶だった。
けれど、ひよりは無理に聞き返すこともなく、ただ、小さく頷いた。
「……そっか」
静かな声が、夜の空気に吸い込まれていく。
そのまま彼女はドアを開け、廊下に出る。
けれど、ほんの一歩進んだところで、もう一度振り返った。
「じゃあ、また……いつか、コーヒー、飲ませてください」
「……ああ、もちろん」
笑いながら言ったその瞬間、彼女もふっと笑った。
今夜の笑顔は、少しだけ、心からのものに見えた。
扉が閉まる音は、やけに静かだった。
けれど、それは別れではなく、どこか新しい始まりの合図のように感じた。
*
部屋に戻った悠真は、テーブルの上に残された焼き菓子をひとつ手に取った。
手作りの甘さが、じんわりと口の中に広がる。
それはまるで、心の奥にしみ込んでくるような優しさだった。
隣の部屋から、かすかに物音がした。
カップを洗う水音だろうか。あるいは、窓を閉める音。
こんなにも近くに、誰かの気配を感じること。
それが、こんなにもあたたかいものだったなんて。
――また、話せたらいい。
そう思ったとき、自分でも気づかないうちに、胸の奥がふわりと揺れていた。
雨が止んだ夜に、少しだけ、心が前に進んだ気がした。
* * *
土曜日の朝、いつもより遅く目が覚めた。
窓から差し込む光は、やわらかく部屋を包み込んでいた。静かな週末。外は晴れ。洗濯日和だ。ベランダに出て空を見上げると、高く澄んだ空に、白い雲がゆったりと流れていた。
「……久しぶりの晴れか」
そうつぶやいて、悠真は洗濯機を回し始めた。
このアパートのベランダは、隣の部屋と薄い仕切り板で分けられている。声は聞こえないが、洗濯物を干すタイミングが重なると、なんとなく気配でわかる程度の距離感だった。
そして、今日も――
「……おはようございます」
ひよりの声が、仕切りの向こうからふわりと届いた。
「ああ、おはよう」
悠真も、ベランダに出てタオルを干しながら、自然に応じる。
顔は見えない。けれど、不思議とそのほうが気楽だった。言葉のやりとりも、少しずつ慣れてきている。
「今日は、いい天気ですね」
「そうだな。……久しぶりに洗濯ができる」
「ふふっ、私もです。……ずっと部屋干しだったから」
小さな笑い声が、風に乗って届く。
ただそれだけの会話なのに、不思議と心が軽くなる。
洗濯物を干し終えて、悠真は缶コーヒーを片手にベランダの手すりによりかかった。向こう側でも、ひよりが一息ついた気配があった。
「……このアパート、静かで落ち着きますね」
「うん。……俺、あんまり人と話すの得意じゃないから、こういう場所がちょうどいい」
「私も……ちょっと似てます。……人と距離をとるの、癖になってて」
ひよりの言葉は、どこか自嘲気味だった。
その言葉の奥に、何かを隠しているような気がした。けれど、悠真は無理に踏み込まなかった。自分にも、語りたくない過去があるから。
沈黙がしばらく続いたあと、ひよりがぽつりと言った。
「……月島さんって、休みの日は何してるんですか?」
「俺? うーん……家事、買い物、昼寝。あとは……漫画読んだり」
「なんか、意外。漫画とか読むんですね」
「意外か?」
「もっと……真面目で、そういうの読まなそうなイメージだったから」
「ふつうに読むよ。ジャンル問わず、何でも」
「へえ……今度、オススメ教えてくださいね」
「……いいけど、俺の趣味、変わってるかもよ」
ひよりがまた、小さく笑う気配がした。
そして、そのままふっと風が吹き、洗濯物が揺れた。
何でもない、土曜日の午前中。
でも、こうして言葉を交わすだけで、部屋の中に少しだけ“誰かの気配”があるような気がした。
――隣に誰かがいる。
ただ、それだけで。
*
その日の午後、偶然にもふたりは、近くのスーパーでばったり会った。
買い物かごを片手に通路を曲がったとき、ひよりがいた。驚いて立ち止まると、彼女もこちらに気づいて目を丸くした。
「あ……!」
「よ。奇遇だな」
「ほんとですね……こんなとこで会うなんて」
ひよりは、カゴの中に野菜や調味料をいくつか入れていた。メモ帳を片手にしていて、どうやら真面目に献立を考えているらしい。
「ちゃんと料理するんだな」
「いちおう、がんばってます。……でもひとり分って難しくて」
「分かる。ついカップ麺とか手が伸びる」
「それはダメですよ。栄養偏っちゃう」
そう言って軽く睨まれたが、どこかあたたかかった。
悠真は思わず、笑ってしまった。
「じゃあ……たまには、お裾分けとか……してもらえると、助かるかも」
言ったあと、少し気恥ずかしくなって目をそらす。
けれどひよりは、ほんの少し照れたように、でも嬉しそうにうなずいた。
「……気が向いたら、ですね」
それは、翌日の夕方のことだった。
休日最後の日曜、悠真は昼過ぎまで掃除や洗濯をして過ごし、遅めの昼食を終えてのんびりしていた。時計の針が午後四時を回った頃、ふとチャイムが鳴った。
こんな時間に誰かが来るのは珍しい。
インターホンを覗くと、モニター越しにひよりの姿があった。
「……?」
玄関の扉を開けると、ひよりが両手にタッパーを抱えて立っていた。
「こんにちは……ちょっとだけ、いいですか?」
「あ、ああ。もちろん」
少し戸惑いながらも招き入れると、ひよりは緊張した面持ちで、手にしていたものを差し出してきた。
「これ……さっき作ったんですけど、よかったら」
それは、手作りの煮物と、卵焼き。家庭的な、どこか懐かしい香りが漂っていた。
「お裾分けって言ってたから……ほんとに、気が向いたので」
彼女は、少しだけ恥ずかしそうに笑う。
その表情が、どこか“誰かに食べてもらいたい”と願っていたようにも見えた。
「ありがとう。……めちゃくちゃ助かる」
悠真は素直に言って、タッパーを受け取った。
「……食べたら、感想くださいね」
「うん、ちゃんと味わって食べるよ」
彼女はほっとしたように微笑んで、静かに帰っていった。
*
その夜。
温め直した料理をひと口食べた瞬間、思わず目を細めた。
出汁の効いた煮物の味。ふんわり焼かれた卵焼き。
どれも、派手さはないけれど、しっかりと優しい味がした。
(……美味い)
思わずつぶやくと同時に、心の奥に微かな温もりが広がっていく。
いつもなら、電子レンジで温めるだけの冷凍弁当か、手抜きのカップ麺。
でも、今夜は誰かが自分のために作ってくれたご飯だった。
――こんな、当たり前みたいなことが、こんなにも嬉しいなんて。
気がつけば、タッパーの中身はあっという間に空になっていた。
そして、ふと、何か返したくなった。
それは“礼儀”とか“お返し”なんて理由じゃない。
ただ――ひよりに、少しでも何か届けたかった。
*
次の日、悠真は朝のうちにスーパーへ寄り、いつもは買わない材料をそっとカゴに入れた。
コーヒーゼリーの素。
牛乳、生クリーム、チョコチップ。
そして、小さな透明のカップ。
夜、帰宅してからキッチンで作ったのは、不器用ながらも精一杯の「お返し」だった。
――見た目はちょっといびつでも、味でカバーできれば。
そんな思いを込めて、出来上がったゼリーを冷やす。
翌朝、まだ少し涼しさが残る朝の空気の中、ひよりのポストに小さなメモと共にそれを置いた。
《昨日のお礼です。もし甘いものが好きなら、どうぞ》
*
その日の夜。ひよりがまたチャイムを鳴らした。
開けたドアの向こう、彼女はゼリーの空カップを手にしていた。
「すっごく、おいしかったです。……本当に」
目を輝かせて言うひよりに、悠真はなぜか少し照れたように笑った。
「そりゃよかった。……ちゃんと、甘さ控えめにしたつもりだったけど」
「うん。でも、ちゃんと甘くて……やさしい味でした」
それは、きっとゼリーの味じゃなくて――彼の気持ちに対しての言葉だった。
「また、作ってくださいね?」
「……じゃあ、今度は一緒に作るか」
言ったあと、自分でも驚くほど自然な言葉だったと気づく。
ひよりは一瞬目を丸くしたあと、笑顔で頷いた。
「……はい」
* * *
ある晩、仕事から帰ってきた悠真が自室でカーテンを閉めようとしたとき、隣のベランダが妙に静かなことに気づいた。
いつもなら、夕食後に洗濯物を取り込んだり、植物に水をやったりするひよりの姿が、少しの気配でも感じられるのに――今夜は、何もない。
窓の向こう、仕切り板の向こうからも、物音ひとつしなかった。
(……どうかしたのか?)
そう思ってはみたものの、すぐに扉をノックするのも気が引けて、やがてそのまま夜が更けていった。
*
次の日の朝。
アパートの前で、偶然、出勤する彼女の姿を見かけた。
「……おはよう」
声をかけると、ひよりは立ち止まり、小さく会釈を返した。けれど――その目元が、少し赤い。
「……大丈夫か?」
その言葉に、ひよりは一瞬だけ言葉を飲み込んだように見えた。けれどすぐに、小さく笑って首を振る。
「ううん、平気。……ありがとう」
その笑顔が、“平気じゃないとき”に浮かべる種類のものだと、悠真はすぐにわかった。
けれど、それ以上は何も聞けなかった。
聞いたところで、彼女はきっと、笑って「大丈夫」って言うに決まっている。
その日は、それだけだった。
*
そして――その夜。
いつものようにリビングで過ごしていると、突然、隣の部屋から“かすかな嗚咽”のような音が聞こえた。
はじめは気のせいかと思った。
でも、二度、三度と、こらえるような小さな泣き声が、壁越しに響く。
思わず立ち上がって、玄関を出た。
そして、躊躇いながらも、ひよりの部屋のドアをそっとノックした。
……応答はない。
それでも、ほんの少しの間をおいて、カチャ、と内鍵の開く音がした。
扉がゆっくりと開くと、そこにいたひよりは――目を真っ赤に腫らして、何かをこらえるように立っていた。
「……ごめんなさい。うるさくしちゃって……」
その声が、泣き疲れた子どものように震えていた。
「中……入ってもいいか?」
少しの沈黙のあと、彼女は頷いた。
*
部屋の中は薄暗く、カーテンは閉じられたままだった。
テーブルの上には、食べかけの夕飯と、ぐしゃぐしゃになったハンカチ。
「……どうしたんだ?」
問いかけると、ひよりはソファに座り込み、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「……今日、病院に行ってきたんです。定期検診……みたいなものなんだけど」
「……うん」
「やっぱり、良くはなってないって。……むしろ、少し進んでるかも、って言われて」
その声は、笑っているようで、泣いていた。
「自分では、元気なつもりでいたのに……。仕事もして、ご飯も作って、普通に生活できてるって思ってたのに。……でも、身体の中は……少しずつ、崩れていってて……」
泣き出すことを我慢していた涙が、ぽろぽろと溢れはじめた。
悠真は、隣に座り、黙ってそっとハンカチを差し出した。
「……ごめんなさい。こんなの、見せたくなかったのに」
「……見せてもいい。俺、いるから」
その言葉に、ひよりの肩が少しだけ震えた。
そして彼女は、何も言わずに、そっと悠真の肩にもたれかかった。
彼女の身体は細くて、軽くて、触れるのが怖いほどだった。
けれどその重みは、確かに“誰かと生きている”という証だった。
*
夜が深まる中、ふたりはしばらく、何も言葉を交わさずに座っていた。
ただ、静かに寄り添って。
それだけで、何かが少しだけ救われる気がした。
あの夜から、ふたりの距離はほんの少しだけ、変わった。
変わらない日常の中で、でも確かに――ひよりの部屋から漂う空気が、どこか柔らかくなっていた。
そして週末の土曜日。
昼前にスーパーで買い物を済ませた悠真が帰宅すると、部屋の前で、ひよりが待っていた。
白いエプロンをつけたまま、少し照れたように立っている。
彼女の手には、小さな紙袋が握られていた。
「こんにちは。あのね、今日のお昼……いっしょにどうかなって。よかったら、なんだけど」
不意にそんな言葉をかけられて、悠真は少しだけ驚いた。
でも、すぐに頷く。
「……じゃあ、手ぶらじゃ悪いから。俺、飲み物持ってく」
「うん。待ってるね」
そんな自然なやりとりができるようになったことが、
不思議と、とても嬉しかった。
*
ひよりの部屋のダイニングには、湯気を立てたシチューと、バターの香りが広がっていた。
テーブルの上には、シチューとバゲット、そして手作りのサラダ。
彩り豊かな食卓は、まるで雑誌の一ページのようだった。
「……これ、ひとり分には見えないな」
「ふふ。がんばりました。……たまには、誰かと食べたくて」
それはきっと、“ひとりで食べたくなかった”という意味だった。
悠真は黙って席につき、スプーンを手に取った。
シチューはやわらかく煮込まれた野菜と、ほんのりとした甘さがあって、口に運ぶたび、ほっとする味だった。
「……美味しい。なんか、あったかくなる味」
「よかった。ちゃんと食べてくれる人がいるって、嬉しいんです」
ひよりはそう言って、そっと笑った。
――誰かと食卓を囲むという、ただそれだけの時間が、
こんなにも静かで、優しいものだったとは。
ふたりで話す話題は、なんてことのない日常のことばかりだった。
仕事のこと。
スーパーのポイントカードがもうすぐ貯まること。
好きな料理の話。
子どものころの、好き嫌いの話。
笑ったり、ちょっとふざけたり。
そんな時間が、永遠に続いてほしいと思えるほど――穏やかだった。
*
食後に片づけを終えると、ひよりが不意に言った。
「……いつか、一緒に行きたいなって思う場所があるんです」
「行きたい場所?」
「うん。子どものころ、両親とよく行ったんだけど……海の見える小さな町。そこにある、ベンチに座って、サンドイッチ食べてたの。いつも決まって、同じ場所で」
ひよりは、ほんの少し遠くを見つめるように言った。
「ずっと、もう行けないって思ってた。でも……最近、行きたいなって、思えるようになって」
「……じゃあ、一緒に行こう。天気のいい日に」
悠真のその言葉に、ひよりは少しだけ目を見開いたあと、ゆっくりと笑った。
「うん。ありがとう」
その笑顔には、悲しみも迷いも、どこか小さな決意も混ざっていて――
ただの“お礼”以上の意味を含んでいるように感じた。
* * *
月曜日の夜、ひよりの部屋のポストに、厚みのある白い封筒が投函された。
差出人は、名前を見ただけで胸が締めつけられるような相手だった。
――母親からだった。
その手紙を見た瞬間、ひよりはしばらく動けなかった。
封筒の縁には、小さなにじみがある。水滴の跡か、手汗か、それとも母の涙かは分からない。
けれど確かに、それは「今さら」という時間を越えて届いたものだった。
*
リビングのソファに座り込み、彼女は封を切った。
便箋三枚。筆跡は丁寧で、昔と変わらない母の文字。
内容は、こうだった。
――あなたのことを、いつも考えています。
――会いたいけど、どう声をかければいいか分からなかった。
――病気のことを受け止めるには、時間が必要でした。
――けれど今は、あなたがどこかで笑ってくれているなら、それでいいと、本気で思っています。
どこまでも優しい言葉だった。
でも、それ以上に遠くて、残酷なほど静かな“距離”も感じた。
(……どうして、いまさら)
封筒を胸に抱いたまま、ひよりはしばらく泣いた。
怒りとか悲しみではない。
ただ、ずっとどこかで欲しかった言葉が、
やっと届いたという事実が、涙になって溢れただけだった。
*
翌日。
帰宅してから、悠真はひよりの部屋をそっと訪ねた。
「……大丈夫か?」
彼女は、手紙をテーブルに伏せたまま、頷いた。
「……母から、手紙が来たんです」
その言葉に、悠真は表情を変えず、ただ静かにうなずく。
ひよりは、ゆっくりと語り始めた。
「私ね、病気のことを知ってすぐに、家を出たの。
両親はすごく混乱してて……たぶん、“そんなの嘘だ”って、最初は受け入れてくれなかった。
でも、私は“ありのままの私”を、誰かと一緒に生きたかったの。だから、離れたの」
「……今のほうが、ひよりは“ひより”らしくいられるってことか」
「……うん。そう、思えるようになったの、最近だけど」
彼女は少しだけ笑い、伏せていた手紙を指でなぞった。
「……でも、許せるようになってきた気がする。あの人も、あの人なりに精一杯だったのかもって。
――そう思えるようになったのは、きっと……悠真くんがいてくれたから、かもしれない」
その言葉に、悠真は何も返さなかった。
ただ、静かにうなずいた。
彼は、言葉ではなく、隣にいることで答えを示していた。
それが、いまの彼女にとって、何よりの支えだった。
*
夜が更け、ひよりはふと呟いた。
「……ねぇ、いつか一緒に、母に会ってくれる?」
その問いは、決して軽いものではなかった。
けれど悠真は、驚くことなく、ごく自然に頷いた。
「うん。行こう。……一緒に行こう」
その言葉が、彼女の心の奥の奥にある、長い間しまっていた鍵をそっと開けていく。
* * *
それは、週末の晴れた日のことだった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んで、春の気配を部屋いっぱいに運んでくる。
隣の部屋から聞こえてきた食器の音に誘われるように、悠真はゆっくりと身支度を整えた。
ピンポンと軽やかなチャイムが鳴ったのは、その直後だった。
「……おはよう。早く起きてたんだな」
玄関の前には、薄いニットにコートを羽織ったひよりが立っていた。
その手には、小さなトートバッグと、お弁当らしき包み。
「うん。お弁当、作ったの。……ちょっとだけ、ピクニックしない?」
そう言って差し出されたそれは、昨日の夜「今度、一緒に行きたい」と話していた“海の見える町”への小さな旅のお誘いだった。
*
電車を乗り継ぎ、ふたりが辿り着いたのは、坂道の先に海が広がる、小さな港町。
潮の香りと、カモメの鳴き声。
ゆったりと流れる時間に、都会の慌ただしさは影も形もなかった。
「ここ、だと思う……」
ひよりが立ち止まったのは、小さな広場の片隅にある木製のベンチ。
海を真正面に見渡せるその場所には、風に揺れる白い布の屋台がひとつ、ゆるやかにたたずんでいた。
「昔、家族で来たとき、ここでサンドイッチ食べてたの。何度も、何度も」
その声には懐かしさと、少しの切なさがにじんでいた。
ふたりはベンチに腰をかけ、お弁当の包みを広げた。
卵焼きに、ほうれん草の胡麻和え、俵型のおにぎり。
全部がどこか素朴で、だけど優しさが詰まっていて、口に運ぶたびに心がほどけていくようだった。
「美味しい……。なんか、落ち着く」
「ふふ……よかった。こういうの、ちゃんと誰かに食べてもらえるのって、すごく幸せ」
そう呟いたあと、ひよりは海の方を見つめながら、ぽつりと言った。
「ねぇ、もし……わたしがいなくなったら、この場所を、覚えててくれる?」
悠真は、一瞬だけ箸の動きを止めた。
けれど次の瞬間には、視線をそらさず、まっすぐに頷いた。
「……覚えてるよ。絶対に忘れない。
でも、そんな“もし”より、今をちゃんと見よう。
今、ここにいる“ひより”と、この時間をちゃんと残しておきたいんだ」
その言葉に、ひよりの目がふっと潤んだ。
「……ありがとう」
潮風に乗って、彼女の声がかすかに揺れる。
でも、そこにはもう迷いがなかった。
ふたりで過ごす“今”を大切にしたいと、そう願うひよりの心が、ようやく言葉にできた瞬間だった。
*
日が傾き始めた頃、ふたりは広場をあとにした。
帰り道、坂の上から見下ろす海は、まるで光をまとったガラスのようにきらきらと輝いていた。
ひよりは立ち止まり、静かに呟いた。
「こんなふうに思い出を作れるなんて、思ってなかった。
……ありがとう、悠真くん」
「俺の方こそ。ひよりがいたから、ここに来られたんだ」
その言葉に、ひよりはそっと目を閉じ、深く深く頷いた。
――この時間を、絶対に忘れない。
ふたりで見た海。
ふたりで食べたお弁当。
そして、ふたりで交わした約束。
それらすべてが、“未来”へと静かにつながっていく。
* * *
春の陽気が少しずつ初夏の風を連れてくる頃、ひよりの様子がほんの少しだけ変わりはじめた。
それは、朝。
「……ん……」
小さな吐き気に目を覚ましたひよりは、洗面台に手をつきながら、自分の鼓動が妙に早いことに気づいた。
前の晩に食べた夕食は、ごく普通のものだった。体調も、そこまで悪くなかったはず。
けれど、胸の奥に微かな不安がよぎる。
(……まさか。まさか、そんなはず……)
そう思いながらも、どこか“気づいていた”自分がいた。
*
数日後、ふたりは部屋で向かい合っていた。
静かに差し込む午後の光の中、ひよりの手の中には、白い紙の封筒があった。
病院から届いた検査結果。それを見て、彼女は深く息を吐いた。
「……赤ちゃん、できてた」
その言葉は、とても小さな声だった。
けれど、確かに響いた。
悠真は、すぐに言葉を返せなかった。
驚きもあった。動揺もあった。
でも、それよりも胸を強く揺らしたのは――彼女の瞳の中にあった、深く、複雑な光だった。
「ごめんね……迷惑、だよね。私の体のこと、全部知ってるのに……ちゃんと、考えなきゃいけなかったのに」
「違う」
悠真は、彼女の言葉を遮るように、静かに言った。
「迷惑なんかじゃない。……びっくりしたけど、でも……ひよりが命を宿してるって、そう聞いて……不思議と、怖くなかった」
「……どうして?」
「わからない。けど……この子が“ふたりの時間”から生まれたって思ったら、なんか……嬉しかった。ひよりが、ここにいてくれて、そうしてくれたことが、嬉しかった」
その言葉に、ひよりの目が潤んだ。
「……私ね、ずっと“できない”って思ってた。
病気のこともあるし……きっと、もう無理なんだって。
だから、この命が、ほんとうにここにあるなんて――信じられなかったの」
「……じゃあ、これから信じていこう。ふたりで、ゆっくりでいい。ひよりの体のことも、赤ちゃんのことも、ぜんぶ。俺、そばにいるから」
「……ほんとに?」
「ほんとに。約束する」
ひよりは、小さく笑って、両手をおなかに重ねた。
その仕草は、とても穏やかで、美しかった。
*
その夜、ひよりはノートをひらき、静かにペンを走らせた。
《この小さな命に、出会えたことが奇跡だと思う。
でも、それ以上に――私が“今”を愛せていることが、一番の奇跡なのかもしれない。
ありがとう。あなたにも、この子にも》
インクのにじんだ文字が、ページをあたたかく彩っていた。
* * *
それは、穏やかな陽射しに包まれたある日の午後だった。
ひよりは、いつものようにアパートのベランダで洗濯物を干していた。
風にそよぐシャツの裾が光を透かして揺れ、どこかの家から漂ってくる夕飯の匂いが、小さな生活の気配を優しく伝えてくる。
けれど、その日は少し違っていた。
ほんのわずか、動悸がした。
足元がふらつき、咄嗟にベランダの手すりにすがる。
「……はぁ……っ」
目の前がにじむようにぼやけた。
胸の奥から込み上げてくるものに、ひよりは唇を噛み締めた。
無理はしていないつもりだった。
自分の身体のことも、赤ちゃんのことも、なるべく気をつけていた。
でも、体はやっぱり正直だった。
(……私、ほんとうにこのまま無事に産めるのかな)
心の奥に、ふと影が差す。
これまで、何度も乗り越えてきた“体調の波”。
でも、今回は自分ひとりの問題ではない。
――私の中に、もう一つの命がある。
その重さが、怖さが、日に日に現実になっていく。
*
その夜、ひよりはいつものように、悠真の部屋のドアをノックした。
「……ごめん、今いい?」
「もちろん。……入って」
ソファに腰を下ろすと、ひよりはゆっくりと話し始めた。
「今日、ちょっと、体調が悪くて……。
立ってるのが少ししんどくなって、動悸もして……」
「……病院には?」
「明日、予約入れたの。念のため」
悠真は、黙って彼女の手を取った。
温かくて、静かで、でもどこか少しだけ、強く握られている気がした。
「怖い?」
「……うん。
私、この子を守りたいのに、私の体のせいで……何かあったらって思うと、怖くて、泣きたくなる」
「泣いてもいいよ」
その一言で、ひよりは声を漏らして泣いた。
言葉なんてもういらない。
その場にいること、手を握ってくれること――それだけが、どれほど救いになるか、悠真はもう知っていた。
*
翌朝。
病院の検査結果は、幸いにも「過労と軽度の低血圧」だった。
胎児の状態も安定していて、すぐにどうこうという兆候はなかった。
「無理せず、日々をゆっくり過ごしてくださいね」
医師の言葉を胸に、ひよりは深くうなずいた。
*
その帰り道。
ふたりは公園のベンチで少しだけ休んでいた。
初夏の光が木漏れ日となって揺れ、通り抜ける風がどこまでも優しかった。
「ねえ、悠真くん」
「ん?」
「私、この子の名前、もうなんとなく考えてるの」
「もう?」
「ふふ、まだ生まれてもないのにね。でも、すごく不思議なの。
この子の鼓動を感じてると、言葉が降りてくるみたいに、名前が浮かんできて……」
彼女は、小さく手のひらをお腹に添えて、そっと囁いた。
「この子はね、“希望”っていう意味を持つ名前にしたいの。
だって――私が、未来を信じてみようって思えるようになったのは、この子が来てくれたからだから」
悠真は何も言わず、ただ頷いた。
その横顔に、ひよりは静かに微笑んだ。
この日、小さな“希望”という名の命が、ふたりの未来に確かに根を下ろした。
夏の入り口、6月の風が梅雨の湿り気をはらんで吹き始めた頃。
ひよりのお腹は、ほんのわずかに丸みを帯びてきた。
服の上からではほとんど分からないけれど、手を当てれば、小さな膨らみが指先に伝わる。
「……もう、こんなに……」
朝、鏡の前でそっとシャツの裾を持ち上げたひよりは、優しくお腹をなでた。
そこにいる確かな“存在”が、日々の不安と並んで、少しずつ彼女の心を変えていく。
怖い気持ちは消えていない。
でも、それ以上に、「守りたい」という想いが強くなっていた。
*
ふたりの生活も、少しずつ変化していた。
悠真は、朝早く目覚ましをかけて、ひよりの分の朝食を用意するようになった。
洗濯物を干すのも、ゴミを出すのも、買い出しも――当たり前のように分担していたことが、自然と彼の方に寄っていく。
「……ほんとに、ありがとう。全部してもらっちゃって」
「いいんだよ。俺がしたくてやってるだけだし、
ひよりには、ちゃんと“育てる”っていう大仕事があるから」
「……“育てる”かあ」
ひよりは、その言葉を口の中で繰り返しながら、湯気の立つスープを両手で包んだ。
“育てる”という言葉の響きが、以前よりもずっと身近に感じられるようになっていた。
*
ある日、スーパーからの帰り道。
通り雨の後の虹が、夕暮れの空にほんのり浮かんでいた。
「見て……虹」
ひよりが立ち止まり、指をさす。
その表情には、どこか懐かしさと安心が混じっていた。
「昔ね、小さい頃、お母さんが言ってたの。“虹が見えたら、明日いいことがある”って」
「……いいこと、あるといいね」
「ううん。もうあるよ」
そう言って、ひよりは笑った。
その笑顔を見て、悠真の胸に、あたたかいものが満ちていく。
*
夜。
ふたりは隣り合ってソファに座り、膝にブランケットをかけて静かにテレビを眺めていた。
特別な番組でもない、いつものバラエティ。
けれど、こうして笑い合えることが、何よりの幸せだと思えた。
ふと、ひよりがつぶやく。
「ねえ、悠真くん。……もし私が、このままちゃんと産めなくても……それでも、あなたは、この子を……愛してくれる?」
その声は、少し震えていた。
身体のこと、病気のこと――乗り越えたと思っていても、時折ふと心が波立つのだ。
悠真はそっと手を伸ばし、彼女の手を包む。
「ひよりが守ろうとしたこの命だよ。……俺も、全力で守るよ。
どんな未来でも、俺は離れない。ひよりと、この子と、ちゃんと一緒にいたいんだ」
その言葉に、ひよりの瞳がふわりとほどける。
変わっていく体。
変わっていく生活。
けれど、変わらない想いが、ふたりをしっかりと結んでいた。
* * *
その日、ひよりは定期検診のため、いつもの産婦人科へと足を運んでいた。
外はしとしとと雨が降っていて、待合室には穏やかなBGMと雨音が混ざっていた。
壁にかけられたモニターでは、赤ちゃんの成長過程を描いたアニメーションが流れ、隣の席では若い夫婦が嬉しそうにエコー写真を見つめていた。
ひよりはお腹に手を当てながら、ふうっと小さく息を吐いた。
きちんと食べて、休んで、無理はしないようにしている。
赤ちゃんは順調だと言われてきた。――これまでは。
*
診察室に入り、ベッドに横たわる。
エコーの画像がモニターに映し出された瞬間、ひよりは思わず目を見開いた。
「……動いてる……」
画面の中で、小さな手足が確かに動いている。
心音も、ピッピッとリズムよく響いていた。
「順調ですね」と、医師は言った。
けれど、その直後、彼は少し眉をひそめる。
「……ただ、ひよりさん。あなたの心臓のデータですが……ここ数週、わずかですが負荷の上昇が見られます。
おそらく妊娠による循環量の増加が原因でしょう。まだ“危険域”ではありませんが、注意が必要です」
その言葉は、思っていたよりも静かに、けれど確かに胸の奥に沈んだ。
「……このまま、お産までもちますか?」
勇気を出して訊いた自分の声が、まるで誰か他人のように聞こえた。
「正直に言えば、五分五分です。妊娠が進むほど、心臓への負担は増します。
でも――今すぐ何かを諦める必要はありません。あなたの体と、赤ちゃんの状態、どちらも慎重に見守っていきましょう」
*
病院を出ると、雨はやんでいた。
アスファルトに反射する夕焼けの光が、まるで滲んだ水彩画のようだった。
(五分五分……)
その言葉が、耳の奥に残っていた。
もう片方は、助かる可能性だ。そう分かってはいても、不安が膨らんでいく。
でも――
(それでも、私はこの子を産みたい)
静かに、けれどはっきりとそう思った。
*
その夜、ひよりは悠真にすべてを話した。
「……ごめんね。
ほんとうは、まだ黙ってようと思ってた。
でも、やっぱり……隠しているのがつらくて」
悠真は言葉を失い、彼女の顔をじっと見つめた。
「そんなの、謝らないで。……教えてくれて、ありがとう」
彼の手が、そっと彼女の背を包む。
「怖いけど……でも、ちゃんと伝えてくれて嬉しかった。
俺、ひよりが決めたこと、全部受け止めるから。産みたいって思ってるなら、俺も一緒に頑張る。何があっても、離れないよ」
ひよりは、ようやく小さく微笑んだ。
「……ありがとう。
私は、最後まで信じたいの。
この命も、自分の体も、そして――あなたのことも」
その想いが、夜の静けさの中に深く、強く響いていた。
* * *
検診の結果を受けてから、ひよりと悠真の生活は少しだけ変わった。
これまでも無理をしないよう心がけてきたが、それは“なんとなく”の配慮だった。
けれど今は違う。
買い物のルートを短縮し、重い物は悠真が持つ。
室内の掃除も、ひよりが立ち上がる前に悠真が手を動かす。
以前なら「やっておくね」と笑っていたことが、今では「必ず自分がやるべきこと」になっていた。
けれど、ひよりは時折、不安そうに目を伏せる。
「……私、役に立ってない気がして……」
ある日の昼下がり。
窓辺に置いた椅子に座って、お腹を撫でながら彼女はぽつりとこぼした。
「今は、ひよりが“生きてる”ってことが、いちばん役に立ってるんだよ」
悠真はそう答えながら、ひよりの背中をそっとなでた。
「洗濯も、掃除も、料理も、買い物も……ぜんぶ俺がやれば済むこと。でも、ひよりの代わりは、誰にもできない」
その言葉に、ひよりの瞳がわずかに揺れた。
「……ねえ、悠真くん」
「うん?」
「わたし、将来のこと、少し考え始めたの」
「将来?」
「この子が生まれたら……どう暮らしていくのか。
私がもし――万が一のときでも、あなたが困らないようにって」
“万が一”という言葉を使ったとき、ひよりの声はほんの一瞬だけ震えた。
けれど、それ以上にその目は真剣で、強く、まっすぐだった。
「だから、保険や手続きのこと、調べておきたいの。
それと、私の口座を、あなたと共有できるようにしておきたい。通帳も、印鑑も……全部、預けてもいいって思ってる」
「……ひより」
悠真はその場で返事をしなかった。
ただ、ひよりの手を取って、自分の額に当てた。
「そんな先のことまで考えてくれて……ありがとう。
でも俺は、できる限り“未来のひより”と、ちゃんと暮らしていきたいんだ」
「……うん。私も、生きたいよ。
この子の成長を、一緒に見たい。初めて笑った日も、初めて歩いた日も、一緒に……」
窓の外では、初夏の風がカーテンをふわりと揺らしていた。
日々は確かに変わっていく。
けれど、ふたりの願いは、揺るがず、静かに、同じ未来を見つめていた。
* * *
7月のある朝。
蝉の声が遠くで鳴き始めたその日、ひよりはベッドの中で目を覚ますと、異変に気がついた。
息が、苦しい。
胸の奥で、重い石を抱えたような感覚。
心拍が早く、手足がじんわりと汗ばんでいた。
「……っ、は……」
ゆっくりと起き上がろうとして、けれどすぐに断念する。
視界が揺れて、呼吸がうまく整わない。
――いつもとは、違う。
そう思った瞬間、体が反応した。
手を伸ばし、枕元のスマートフォンを取って、震える指でメッセージを打つ。
《ごめん、ちょっと苦しい。病院行きたい》
*
20分後、駆けつけた悠真がドアを開けると、ひよりはリビングの隅で座っていた。
顔は青白く、汗を浮かべていたが、意識はある。
けれどその姿に、悠真の心臓が跳ね上がる。
「ひより、大丈夫!? いま車、出すから!」
「……うん……ありがと……」
ふらつく体を支えながら、なんとか車に乗り込み、病院へと向かった。
*
病院での診察を終えたあと、個室のベッドに横たわるひよりの手を、悠真はそっと握っていた。
「急性の心不全症状です。幸い、点滴と酸素で落ち着いていますが……今後もこういった発作が続く可能性があります」
医師の説明に、悠真は小さくうなずく。
「今後の妊娠の継続について、考える時期に来ているかもしれません。
母体を最優先とする場合、早期の出産を……あるいは、中止を検討することも……」
その言葉は、刃物のように鋭く、静かに刺さってきた。
「……中止、ですか」
ひよりの声は、掠れていた。
「そうですね。いまなら、まだ“母体の安全”を最優先にした判断が可能です。
ただ……もちろん、これは医療的な選択肢の一つであって、最終的な判断は、あなた方次第です」
“あなた方次第”。
その言葉の重みを、ふたりとも、静かに受け止めていた。
*
夜。病院の静かな個室の中。
点滴の針が繋がれた腕を見つめながら、ひよりは言った。
「……この子、助けられるって……保証、ないんだよね」
「……そうだね」
「でも……」
ひよりは、ベッドの上でそっと手を組む。
「それでも、私は――生まれてきてほしいって思うの。
たとえ私がどうなっても……この子が、生きてくれるなら」
「ひより……」
「お願い。悠真くん。
私の代わりに、この子を生かしてあげて。
ちゃんと、笑わせてあげて。抱きしめてあげて」
震える声の中に、揺るがない意志があった。
悠真はその言葉に返すように、ゆっくりとひよりの手を握り直した。
「……約束する。絶対に、守るよ。
だから――俺は、最後まで諦めたくない。
できる限り、君と、この子と、一緒に未来に行きたい」
ふたりの手の間に、あたたかな沈黙が流れる。
答えはまだ出ない。
でも、ふたりの“願い”は、もう決まっていた。
病院の廊下は静かで、窓の外では蝉の声が遠く響いていた。
入院から数日。ひよりは病室のベッドに身を預け、点滴とモニターに繋がれながら、慎重に経過を見守られていた。
毎日交わす医師との短い会話。
毎晩やってくる悠真との時間。
そして、お腹の中で確かに生きている――小さな命の鼓動。
「ねえ……悠真くん」
夕方、部屋に差し込む光が金色に染まり始めたころ。
ひよりはそっと話し出した。
「私ね、この子に名前を考えてたの。生まれる前だけど……ずっと前から、もし女の子だったら“この名前がいいな”って思ってたの」
悠真は驚いたように目を瞬かせた。
「そうだったんだ。……どんな名前?」
「“未来(みらい)”。ねえ、変じゃないかな?」
その名前は、まるで希望そのもののようだった。
けれどひよりは、自嘲気味に微笑んだ。
「……まるで自分には似合わないような名前よね。
でも、この子には、ちゃんと未来を照らしてほしいの。
私がいなくなっても、明るい方へ、歩いていけるようにって」
悠真は、何も言わなかった。
ただ、彼女の手を強く握りしめる。
そのとき、モニターのリズムが少しだけ変わった。
ひよりの表情がかすかに歪み、胸に手を当てる。
「……ちょっと……苦しい……かも……」
ナースコールを押し、看護師が駆けつける。
医師の判断は早かった。
「母体への負担が限界に近づいています。
赤ちゃんの命を最優先に考えるなら、帝王切開での出産に踏み切る必要があります。――今夜、行います」
“今夜”。
それは突然だったけれど、ふたりの中で覚悟は、もうとっくにできていた。
*
手術前の準備が進められる中、病室の灯りは落とされていた。
ひよりは手術着に着替え、点滴の針を確かめながら、悠真を見つめて微笑んだ。
「ねえ……最後に、お願いがあるの」
「なに?」
「この子が生まれたら――あなたが、最初に抱いてあげて。
そして、最初に名前を呼んであげて。
“未来”って」
その声はとても静かで、とても優しかった。
「私ね、怖くないって言ったら嘘になるけど……でも、後悔はしてない。
この子が生きて、生まれてきてくれるなら、それだけでいい」
悠真の目に、涙が浮かぶ。
「絶対、守る。……ひよりも、この子も。
だから、無事に戻ってきて。どんなに時間がかかってもいい。待ってるから」
「うん……約束だよ……」
それが、ふたりが交わした最後の言葉だった。
*
手術室の扉が閉じる。
緊張した空気の中、帝王切開が静かに始まる。
モニターの音。
医師たちの声。
それらを包むように、夜の静けさが病院を覆っていた。
そして――
産声が、上がった。
「女の子です!」
医師の声が響く。
赤ちゃんは、小さな手をぎゅっと握りしめて、全身を使ってこの世界に生まれ落ちた。
その小さな命を抱きしめながら、悠真は泣いていた。
涙をこらえながら、震える声で名を呼んだ。
「……未来。君の名前は、未来だよ……」
それが、願いのすべてだった。
夜が明けきらない、病院の静けさ。
出産から数時間が経ち、外の空がわずかに白み始める頃。
悠真は新生児室の窓の前に立っていた。
ガラス越しの向こう側で、小さな命――「未来」は、保育器の中ですやすやと眠っている。
生まれたばかりとは思えないほど、しっかりとした眉。柔らかい唇。薄いまつげが光を受けて、かすかに揺れていた。
(お前……ちゃんと、生まれてきたんだな)
悠真は、自分でも気づかないほど穏やかな声で、そう心の中で語りかける。
「未来――お前の名前は、母さんがつけてくれたんだ」
ガラスに手を当てて、そっと目を閉じた。
その瞬間、あの夜の記憶がよみがえる。
*
手術室の外で待つ時間は、永遠のように感じられた。
時計の針は確かに動いているはずなのに、耳の奥では秒針の音も届かない。
病院の夜は静かで、ただ淡く、ただ冷たかった。
「月島さん」
名前を呼ばれたとき、悠真は立ち上がった。
「お子さん、無事に生まれました。体重は少し軽めですが、肺もしっかりしていて、今のところ大きな異常はありません」
「……ありがとうございます」
声が震えたのは、安堵と、まだ終わらない不安のせいだった。
「……ひよりは?」
看護師の表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「現在、処置中です。麻酔の影響や心臓への負担もありますので、慎重に経過を見ています。……すぐに会えるとは、言いきれませんが」
その言葉の裏にある意味を、悠真はわかっていた。
(――まだ、生きている)
それだけが、支えだった。
*
夜明け前の病室。
術後のひよりは、まだ深く眠っていた。
モニターが淡々と脈拍を刻み、呼吸を助ける酸素マスクがわずかに曇る。
その隣で、悠真は静かに椅子に座っていた。
手には、ひよりが最後に手渡そうとしていた「手紙」があった。
未開封のまま、封筒には彼女の柔らかな文字で、こう書かれている。
《悠真くんへ。もし、私が目を覚まさなかったら》
(いや、開けない。……まだ、目を覚ますって信じてる)
悠真は、手紙を胸にしまい込む。
「……ひより。未来、無事に生まれたよ。ちゃんと、元気に泣いてる。……お前の願い、叶ったよ」
眠りの中のひよりのまぶたが、かすかに動いたように見えた。
けれど、それはまだ――静かな眠りのままだった。
朝日が昇る頃、病院の屋上に出た悠真は、まだ誰もいない空間でそっと封筒を取り出した。
それは、ひよりが数日前、自分の枕元に置いていたものだった。
「読まないで」と言われたわけじゃない。
けれど、どこかで開けてしまえば終わってしまうような気がして、ずっと胸にしまっていた。
けれど――
今朝、医師に告げられた言葉が、決断を早めた。
「意識は戻らない可能性があります。脳への酸素供給が一時的に……」
それは、もう「覚悟してください」という意味だった。
震える指先で封を切る。
柔らかな便箋に、ひよりの文字が並んでいた。
⸻
悠真くんへ。
この手紙を読んでいるということは、きっと私は、もう隣にいられないのかもしれない。
だから、ちゃんと伝えたいことを書きます。
まずは――ありがとう。
私に“普通の日々”をくれて、ありがとう。
私に“恋をする時間”をくれて、ありがとう。
そして、私の命に、意味をくれてありがとう。
ねえ、私、ずっと怖かったんだ。
誰かを好きになることも、誰かに愛されることも。
だって、きっと、どんな幸せも“途中で終わってしまう”って思ってたから。
でも、あなたと出会って、少しずつ変わっていった。
朝の挨拶とか、コンビニの袋を持ってくれる手とか、何気ない会話とか。
どんなに短くても、私は確かに“生きていた”って思えるの。
そして――
この子のこと。
お腹の中でね、小さな鼓動が響いたとき、私は初めて「自分が人の未来になれる」って感じたの。
命って、繋がっていくものなんだね。
たとえ私がいなくなっても、この子が生きて、誰かと笑ってくれたら。
それだけで、私の人生は、十分に“幸せだった”って言える。
悠真くん。
あなたがこの先、泣いてもいい。弱くなってもいい。
でも、どうか未来の前では、笑ってあげてください。
そして、できれば時々でいいから――思い出してくれたら嬉しい。
玄関先で咲いた花の匂いとか、雨の日の傘の中とか、眠る前の部屋の灯りのこととか。
そういう“私たちの時間”が、どこかに残ってくれていたら、それで十分です。
最後に。
あなたを好きになって、よかった。
あなたに出会えて、ほんとうによかった。
ありがとう。
――ひよりより
⸻
手紙を読み終えたとき、悠真はゆっくりと目を閉じた。
胸の奥が、ひどく痛かった。
でも、その痛みの中に、確かな温もりがあった。
涙が頬を伝い落ちる。
けれど、その涙の奥で、彼は静かに微笑んでいた。
「……ひより、ありがとう。ちゃんと届いたよ。全部、受け取った」
新しい朝が、確かにそこにあった。
* * *
春の風が、淡く花の香りを運んでいた。
公園の一角、桜の木の下で、ひとりの男がベンチに腰掛けている。
その隣には、小さな女の子が、絵本を大事そうに抱えて座っていた。
「パパ、これ読んで」
女の子――未来は、少しクセのある明るい髪と、母親譲りの長いまつげを持っていた。
そしてその瞳には、不思議な強さと、優しさが宿っていた。
「うん、読もうか」
絵本を受け取った悠真は、ページをめくりながら、優しい声で読み始める。
声には、どこか懐かしさと切なさが混じっていたけれど、それを知るのは彼だけだった。
(ひより……未来は、今日もちゃんと笑ってるよ)
読み終えると、未来が小さく拍手をして笑った。
「このお話、ママも読んでくれたの?」
その問いに、悠真は少しだけ考える。
――正確には、読んであげる前に、ひよりは旅立った。
けれど。
「うん。ママもきっと、このお話が好きだったと思うよ。優しくて、強いお姫さまが出てくるから」
「ママも、お姫さまだったの?」
「そうだな……パパにとっては、世界で一番のお姫さまだったよ」
未来はにこっと笑って、ベンチの上で足をぶらぶらさせた。
その姿は、まるであの日のひよりを小さくしたようだった。
ふと、風が吹く。
未来は顔を上げ、空を見上げた。
「ねえ、ママって、どこにいるの?」
その問いは、いつか来るだろうと分かっていた。
だから、悠真は嘘をつかないと決めていた。
「空の上だよ。でもね、ちゃんとここにもいる」
そう言って、未来の胸のあたりをそっと指差す。
「ママの優しさも、笑い方も……全部、未来のなかに生きてる。だから、寂しくなったら、こうして胸に手を当ててみるといいよ。……ママの声、きっと聞こえてくるから」
未来は真剣な顔で、自分の胸に手を当てる。
「……あったかい」
「そうだね。ママの心は、いつもそこにあるんだよ」
ふたりはしばらく黙って、空を見上げていた。
青空に、桜の花びらがひとひら、ふわりと舞っていく。
それはまるで、誰かの“返事”のようだった。
* * *
春の朝。
玄関先で、未来が白い帽子を直しながら、ランドセルより少し小さなリュックを背負って立っていた。
「パパ、くつ、ちゃんと左右合ってる?」
「うん、大丈夫。昨日と同じ左足が左で、右足が右だな」
「ふふ、当たり前じゃん」
そう言いながらも、未来はにこにことうれしそうに笑う。
今日は、幼稚園の入園式の日。
数日前から、未来は準備にそわそわしていた。服を選び、お弁当袋を並べて、名札の位置を何度も確認して――まるで小さな大人みたいに、念入りに。
「手、つなご?」
玄関を出たところで未来が手を差し出すと、悠真は素直に応じて、その小さな手を包み込んだ。
「緊張してる?」
「ちょっとだけ。でも……だいじょうぶ。だって、ママもきっと見てくれてるもん」
その言葉に、悠真は一瞬だけ胸が詰まった。
けれど、次の瞬間には静かに笑って、未来の手を少し強く握った。
「うん。ママは、ずっと見守ってくれてるよ。きっと今日も、いちばん前の席で拍手してくれてる」
「そっか……それなら、がんばる!」
新緑の道を、ふたりは歩いていく。
手をつないで、同じ速さで、同じ朝を。
幼稚園の門が見えたとき、未来がぴたりと足を止めた。
「パパ」
「うん?」
「いつか、ママみたいになりたい。優しくて、強くて、未来のこと大事にしてくれる、そんな人に」
悠真は返事をしようとして、少しだけ空を見上げた。
(ひより、聞こえてるか? 未来は、君のことをちゃんと見ているよ)
「……絶対なれるよ。未来は、ママの宝物だもん。ママの優しさ、ちゃんと受け継いでる」
「えへへ……ありがと、パパ」
ふたりは笑い合い、そのまま園庭の方へと歩いていった。
陽の光が差し込む朝。
手をつないだその温もりが、未来への小さな灯火のように、静かに輝いていた。
* * *
雨の音が、窓をやさしく叩いていた。
休日の午後、未来はリビングの隅に座り込み、引き出しを開けてなにかを探していた。
棚の中から出てきたのは、昔のアルバムや封筒、そして――小さなICレコーダーだった。
「これ、なあに?」
悠真がコーヒーを持ってくると、未来は少し誇らしげに差し出した。
「なんかね、“ママ”って書いてあった」
ラベルには、手書きの文字で《ひより・うた》と記されていた。
――ひよりが生前、残していた音声データ。
見つけた当時、悠真はそれを聴くことができなかった。
声を聴いた瞬間に崩れてしまいそうで、そっと棚の奥にしまったままだった。
「……パパ、これ、きいてもいい?」
未来の問いかけに、悠真は少し迷った。
でも――もう、未来は聞いてもいい年齢になっていた。
「……うん。ふたりで聴こうか」
ICレコーダーの再生ボタンを押すと、少しだけノイズが走り、そのあとに――やわらかい声が流れ出す。
《あー……これ、録れてるのかな。テスト、テスト。……ふふ、悠真くん、聞こえてる?》
思わず、ふたりとも息をのんだ。
《こんにちは、ママです。……って、未来ちゃんには、まだ会えてないんだけど。でも、もしこれを聴いてくれてるなら、きっとあなたは、ちゃんと生まれて、ちゃんと生きて、笑ってくれてるんだよね。ありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう》
ひよりの声は、あの日のままだった。
やさしくて、あたたかくて、どこかくすぐったくなるような。
《私は、たぶん、もう隣にはいないと思います。でもね、ママはずっと、あなたのことを大好きだよ。毎日、空から見てるからね。泣いたときも、笑ったときも、どんなときも、ぎゅって抱きしめてる気持ちでいます》
未来は、音にじっと耳を澄ませていた。
その小さな肩が、ほんの少し震えていた。
《この歌は、あなたのために作りました。だから、時々、思い出してくれたら嬉しいな》
そうして流れたのは、優しい鼻歌のような子守唄。
旋律は短くて素朴だけど、まるで心そのものを包むような響きだった。
悠真は、手の中で涙を拭った。
未来は、ゆっくりと顔を上げて言った。
「……ママの声、ちゃんと届いたよ」
その言葉に、悠真はただ、頷くしかなかった。
(ひより……未来は、あなたの歌を覚えてくれた。あなたが命に託した“想い”は、ちゃんとこの子の中に、生きてる)
レコーダーは、最後のメッセージを囁いた。
《未来ちゃん、だいすき。パパのことも、どうかよろしくね》
その日、空は澄み渡るような青だった。
未来が小学六年生になった春、彼女は卒業式に向けた「作文発表会」に出ることになっていた。
体育館の壇上に立ったその姿は、まるであのときのひよりを見ているようで、悠真は思わず目を細めた。
壇上で一礼し、未来はマイクに向かって、はっきりとした声で語り始める。
「『命を繋ぐ』というテーマで、私は作文を書きました」
会場の空気が静まり返る中、彼女の声だけがまっすぐに響いていた。
「私は、生まれたときに、お母さんがいませんでした。……でも、“いなかった”んじゃなくて、“命をくれた”人です」
教室でも明るく元気な未来の、こんなに真剣な声を、きっと誰も聞いたことがなかっただろう。
「私は、まだ会ったことがないのに、お母さんのことを“大好き”って思える。だって、私のなかには、お母さんの想いがたくさんあるから」
客席の悠真は、拳を強く握っていた。
心の奥で、何度も小さく頷きながら、彼女の言葉に耳を傾けていた。
「パパは、いつも私に言ってくれます。『ママは君のなかに生きているよ』って。私は最初、その意味がよく分からなかったけど、今は少しだけ分かる気がします」
「誰かの想いって、形がなくても、ちゃんと残ってるんです」
未来の目は、まっすぐ前を見ていた。
ひとりひとりの顔を見るように、静かに語りかけるように。
「お母さんがくれた命を、私は大切にします。そして、いつか誰かに“優しさ”を渡せる人になりたい。そうやって、命がつながっていけば、きっと、どんな別れも“終わり”じゃないって思えるから」
「これが、私の“命を繋ぐ物語”です。ありがとうございました」
最後の一礼のあと、大きな拍手が体育館を包んだ。
中には、静かに目元を拭う先生や、涙を隠すようにうつむく友達の姿もあった。
悠真は、ゆっくりと立ち上がり、ひときわ長く、力強く拍手を送った。
⸻
帰り道。桜並木の下を、未来と悠真は並んで歩いていた。
「緊張したけど、言いたいこと全部言えたよ。……ママにも、届いたかな」
「届いてるさ。君の声は、どこまでも届く」
「そっか。じゃあ、これからも伝えていくね。ママのこと。命のこと。全部、ちゃんと覚えてるよ」
春風がふたりの髪を揺らす。
見上げた空は、あの日と同じ、あたたかな光に包まれていた。
⸻
命は、終わるものではなく――繋がっていくもの。
ひよりの想いは、未来の中で生き続け、悠真の中でも、未来を信じる力となっていた。
そしてまた、いつか。
この物語の続きを、誰かが歩いていくのだろう。
⸻
完