「あら、どうしたの?」
「こんにちは。数学の質問があって……館花先生いらっしゃいますか?」
「館花先生ね、ちょっと待っててね」
対応してくれた女性の先生が、館花先生を呼びに行ってくれた。そのまま入って来いとの事だったので、失礼しますと言って職員室の中に入る。彼の机の上は、資料が一杯置いてある割に整頓されていた。几帳面な性格なのだろう。
「……どの問題だ?」
「先程の授業の章末問題です。この公式を使うまでは分かったんですけど、どう使ったら良いんだろうと思いまして」
相変わらず不愛想だが、それだけなので気にせず会話を続けていく。客席ではあんなに一生懸命サイリウムを振って声を出してくれるのに……とは思ったが、ファンにとってのライブは一種の非日常だ。非日常と日常で様子が変わるのは、人間ならば当たり前の話である。
「ああ、なるほど。先に式を整理しておく必要があったんですね」
「最初の段階で当てはめる事も出来るが、それだとややこしくなってミスの元だ。ミスを減らす為にも、下準備は必要になる」
「なるほど」
「ここまで分かれば後は自分で出来るだろう。もしまた分からなくなったら、また来なさい」
「……はい。ありがとうございました」
正直言えばもうちょっと話していたかったのだが、ここは人目が沢山ある職員室だ。雑談出来る雰囲気でも無いし、言われた通り退散するのが吉だろう。
お辞儀をした後で、もう一度彼の顔をじっと見た。最初は不思議そうな顔をしていたけれども、そのまま見つめていると彼の耳の辺りがうっすら赤くなって視線を逸らされた。この前育子さんと話していた時はそんな反応していなかったので、何だか嬉しくなってくる。
(あれ?)
別の日、廊下を歩いていたら彼が何かを落とした。さっと拾って手の中を確認すると、とても見覚えのあるグッズだったので口元が緩んでくる。これ、最初の劇場時代に販売していたボールペンだ。普段使いしやすいよう敢えてアイドルグッズと分かりづらいデザインにしたのだけど、正解だったらしい。
「館花先生、落とされましたよ」
「ああ、すまな……い!?」
まさか、AIKAの古参グッズを本人に拾われるとは思っていなかったのだろう。目を見開いて驚いている様が、可愛いとすら思えてくる。
「も、申し訳ない、こんな、大事な物を落とすなんて」
「大丈夫ですよ。大事にして下さって、ありがとうございます」
最後の言葉は、彼にしか聞こえないように耳元で囁いた。やっぱり、槙原愛佳がAIKAなのだと彼も分かっているのだ。でも、今の私は休業中なので、彼と私の関係はファンとアイドルではなくて……先生と生徒の方だけである。だから、他の子と同じように接してくれるのだろう。
考えてみれば、教師もアイドルと同じようなものなのだ。アイドルはファンを、教師は生徒を、平等に扱って公平に接する必要がある。誰か一人を特別にしてはいけない、優劣をつけてはいけない……そういう意味では、私達はとても似ているのかもしれないなんて思った。
***
「……体調は回復したのか?」
空き教室で弾き語りをしていたら、恐らく初めて彼の方から声を掛けられた。その事実に驚き過ぎて、高さを調整していた譜面台から手を離してしまった。勢いよく落下した譜面台が私の腕に直撃してしまい、ぎゃっと可愛くない叫び声を上げてしまう。
でも、今までずっと、私の方から声を掛けて近づいていって粘って、それでどうにか多少の会話が出来ていたくらいだったのだ。時折聞く過剰供給とは、こういう事を言うのだろうか。
「体調、そのもの、は、元気ですよ、ずっと。事務所の健康診断だって、ずっと異常なしですし」
「そうなのか? いきなりの長期休業で、有料ファンクラブも会費徴収停止、新規募集停止になったし……余程の病気になってしまったのかと、思っていたのだが」
「病気ではないです。病気というよりは……忙しくし過ぎて疲れてしまったって、そんな感じで」
まさか、貴方が全然ライブに来なくなって寂しくなって、調子が出なくなりましたなんて言える筈もない。休業中だから、今はアイドルを休んで女子学生をしているから、諦めて自分の気持ちに正直になって想いを自覚したけれど、卒業したら復帰するつもりなので……結局、この想いが叶う事は、ないのだ。
「そうだったのか。仲間内でも、ライブを頻繁に開催してくれるのは嬉しいが、君の負担になってはいないだろうかという声が上がっていたんだ。だから、休業が発表された時、やっぱり無理をしていたのでは、ファンの……俺達の期待が、君の重荷になっていたのではないかと、そう思って反省した。君からしてみれば、何様と思うかもしれないが」
「そんな事ないです。私の方こそ、応援してくれてる皆に心配かけて、申し訳ないって思っていて……今だって、私は学生生活を楽しんでますけど、皆に心配かけたまま楽しんでて良いのかな、とかそんな事は考えますし」
彼が私を心配してくれているというのが、正直言って嬉しかった。あのボールペンをずっと使ってくれていると分かった時も、嬉しかった。
「……俺達ファンが望んでいるのは、何よりも君が元気でいてくれる事だ。勿論、また歌う姿やライブを見られれば嬉しいが、そうでなくても……君が元気に楽しく過ごしてくれるならば、何だって良いんだ。推しが元気なら、ファンは勝手に元気になるんだから」
自分の頬が、一気に熱くなったのが分かった。彼は推し変した訳じゃなかった。ライブに来なかったのも、きっと何か事情があったのだろう。
「君が学生生活を楽しんでいると言うならば良かった。勿論他言なんてしないから、安心してくれ」
「ありがとうございます!」
お礼を言って、喜びのままに彼の手を握ろうとした。いつも握手会でやっている事だし、今なら許されるかなと、そう思って。
だけど、彼は静かに私から距離を取った。言葉は無かったけれど、態度で、雰囲気で……はっきりと拒絶された。そう分かった瞬間、浮足立っていた心が、がちゃんと音を立てて割れていく。
「今の俺達は教師と生徒だ。そんな間柄の二人が、そういう事をするべきではない」
どこまでも冷静に、彼はそう言って教室を出ていった。後に残された私は、呆然と立ち尽くす。
(……握手は許されていたアイドルとファンでも、貴方は許してくれなかったのに)
失恋が確定した瞬間だった。彼は本当に、私をアイドルと……生徒としてしか見ていないのだ。偶像崇拝の対象、教え導く対象、それ以上でも以下でも無い。私が望んだ形の愛情の対象には、なれないのだ。分かっていた筈なのに。
後から後から、涙が頬を伝う。窓から差し込む西日が、憎いくらいに美しかった。