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第2話

 炭燈楼に駐留する軍は、元々の囚人監視から地球からの断絶ののち、いつの間にか衛星治安の部隊になっていた。

 駐留部隊は、元国際宇宙軍第五五部隊だったが、名前を駐楼軍と呼ばれていた。

 瑞維深戯(みずいしんぎ)は、断絶しているはずの地球から送られてきた久々の人物だった。

 十八歳の少佐である。

 年の割に異様な階級は、彼が威紅理(いくり)という軍の中の過激派組織に籍を置いていたことに理由がある。

 地球連邦軍はこの過激派エリート組織を抑え込む為、様々な手を使っていた。

 なにしろいつ爆発するかわからない組織なのだ。

 組織壊滅を密かに狙う地球連邦軍は暴発未遂事件を元に指導層の一人をどうにか特定した。

 それが、深戯だった。

 彼は武勲を重ねて元中尉として前線で戦っていたが、軍治安維持法によって逮捕され、炭燈楼送りが決定した。

 その際、表向きは戦死とされて二階級特進で少佐になったのだ。

 駐楼軍の者でこれを面白いと思ったものは居ない。

 まだ若い。しかも過激派の少佐など、鬱陶しい限りである。

 指令官の仰井(おおい)中将からして毛嫌いしていた。

 だが、部署を決めねばならぬとして結局、司令部付きを命じた。

 事実上の無役である。

 深戯に不満はなかった。ここに送られて来た時点で、考えがあったのだ。

 無役とは、ほとんど自由を手にしたも同然だった。喜ぶべきことではないか。

 彼は司令官執務室の手前にある秘書室に席を与えられ、そこに腰を据えていた。

 秘書室は、四人ほどの男女が忙しく立ち回っており、深戯をかまってくる者はいなかった。

 皆、彼よりも年上で階級は下である。

 「あ、瑞維少佐、このあと指令官と何人かでミーティングがあります」

 秘書の一人がそう、声をかけてきた。

 「ミーティング?」

 初めて聞く話だったが、ここにきてよくあることである。

 司令官付きのはずなのに、直接連絡が来ないのだ。

 そんな彼に、秘書の一人は冷笑も込めて報告する。

 「時間になったら呼びますよ」

 どうでもいいので、深戯は相手の名前も階級も覚えていない。下手をすれば、顔も覚えていなかった。

 彼からすれば秘書室にいる人物など木偶だ。

 彼は毎日の日課の一つである、炭燈楼の複雑な路線をディスプレイに浮かべて頭に叩き込んでいると、時間だと呼ばれた。

 いつの間にか彼の目の前を通って、数人が執務室に入た。

 深戯は思い出す。

 目の端に三人が通りすぎて行く。

 駐楼軍の少将格である。

 深戯はヘッドフォンをそのままに椅子から立ち上がる。

 彼は執務室のドアにノックをして名前を名乗ると、入れの言葉が返ってきたので、中に入った。

 三人の将校は一斉に彼を見る。

 皆、二十代だ。

 これで深戯が妬まれるのには理由がある。

 「あら。威紅理(いくり)の坊やも、ここに?」

 長身のスレンダー美人が振り返る。名前を麻都眞季(あさとまき)といい、やや釣り目がちな瞳と。髪はセミロングで毛先を巻いていた。

 無言だったのは塔時風亥(とうじふうい)少将で、黒髪を短くした中背の細い身体をしている。口にたばこを咥え、太い眉をしかめていた。

 もう一人、メガネをかけて顎髭を生やした長身の男が、鴻示汪詫(こうじおおたく)少将で何を考えているかよくわからない男だ。

 「エリートの意見も聞きたくてな」

 皮肉に言ったのは、五十代、口髭を生やして、肥満体を執務机の椅子に下している、駐楼軍司令官仰井宇理(おおいうり)中将だ。

 深戯は何も答えない。

 その様子を見て仰井中将は鼻を鳴らして侮蔑の顔を一瞬した。

 深戯は内心で嘲笑する。

 彼ら将校には、それぞれバックに勢力を張るマフィアがいた。

 人事はその勢力で決まっている。

 事実上の軍事兵力、支配路線もだ。

 炭燈楼では通常、砲を積んだ砲列車が戦力として使用されていた。

 それは道路よりも路線が多く、空を飛ぶのを制限されている状態での結果だった。

 ここでは深戯は完全に根無し草である。

 だが準備は整えてある。

 「今度の作戦は、申煌祇(こうしんし)の撃滅にある。彼らは最近、とみに勢力を拡大し公共の路線を侵害している。一部に混乱もある。6・14事件だ」

 仰井が言う。

 深戯も知っている。

 6・14事件とは、申煌祇(こうしんし)が唐突に祁譜璃(ぎふり)というマフィアを襲ったことである。

 祁譜璃(ぎふり)とは、仰井の保護下にあるマフィア組織だった。

 いや、保護下というより保護されているというべきか。

 「それで、瑞維少佐はどう考える?」

 突然の質問だ。

 それも説明も何もない状態で。

 視線が再び集まり、少しの間沈黙の空気が流れる。

 「参謀がいないので何とも答えられません」

 深戯はようやく言った。内心は怒りに燃えている。

 これが密室だからいいものの、どう見ても深戯を晒ものにしようとしているとしか思えない。

 実際、参謀が司令部にいない。というより、参謀部自体がない。

 深戯は揶揄して司令官に反撃したのだ。

 「ほう。まあ、地球ではそうだったかもしれんが、ここでは実力主義でな。参謀などいらんのだ」

 仰井中将が鷹揚に言う。

 「なんでも自分で考えなければならんのだよ、瑞維少佐」

 どうでもいい話だ。

 そのうちにこいつらの正体がバレる。深戯は馬鹿にして心の中で嗤った。



 世良はようやく、目を覚ます。

 「お兄さん、大丈夫?」

 薄汚れた子供が数人、彼を上から覗き見ている。

 気が付くとスラムの外れ、歩道のゴミが溜まっている中に仰向けで寝ていた。

 二十二歳。黒髪はぼさぼさになり、黒いスーツは生ごみの匂いがしている。

 片方の靴はどこかに行っていた。

 子供たちに対応する前に、無言で腕だけを動かし、ポケットの中身を確認する。

 何もなない。

 といっても財布と時計、携帯通信機しか持っていなかったが。

 「あー、ありがとよ……」

 彼が上半身を起こすと、子供たちは散り散りに走ってゆく。

 さて、何があったのだろうか。

 世良は頭痛のする頭で必死に思い出そうとした。

 胃が突き上げるように吐き気がする。

 どう考えても二日酔いだ。

 どこで何をしていたのだろうか。思い出せない。

 最後の記憶は、馴染みのバーで一人で飲んでいた。あそこで記憶をなくすほど飲んだとは思えない。

 確実に記憶のない途中で何かあったはずだが。

 彼は気にする事もない。

 それよりも、帰るのが先だ。

 重い身体を立たせて、世良は道路の真ん中を通る列車に視線をやった。

 財布がないので、乗ることはできない。

 が、幸いなことに事務所兼自宅のすぐ近くで倒れたらしい。

 人通りもまばらな、真昼間らしき時間である。

 彼は歩きずらいのでもう片方の靴も放り投げた。

 力の抜けた様子で、五階建ての廃ビルにしか見えないところまで来ると、階段を昇った。

 二階のドアを開けようとするが、中から鍵がかかっている。

 そういえば、鍵も盗まれていた。

 インターフォンを押して、力尽きたようにドアに身体を傾けようとした時、丁度ドアが開いて世良の顔面にぶつかった。

 「うぉっ!」

 彼は片手で顔を覆って、痛みに思わずしゃが見込む。

 玄関に立っていた少年は、その様を見下し無言で中に戻って行く。

 「誰だ、今のは離譚だな、くそっ!」

 世良は悪態をついて、這いずるように室内に入る。

 その脇を、少年は刀を片手に通り抜けて、出ていく。

 「おい、物騒なものを持ってどこへいく?」

 背中に投げた問いは無視される。

 残された彼は、そのままよろよろと風呂場に向う。

 スーツをクリーニング用にハンガーに掛け、シャワーを浴びる。

 すっかり汚れを落とした彼は、髪を後ろになでつけ、ロングセーターにハーフパンツという姿で、居間に入った。

 そこには既に、真由がソファでくつろいでいた。

 「あ、お帰りなさい。どこに行ってたの?」

 彼女は手にしていた本から顔をあげて訊く。

 「わかんねぇ。とりあえず二日酔いで気が付いたら、持ち物すべて盗まれてた」

 世良は向かいにある椅子の一つに座った。

 「携帯通信機は中のデータ見られてたら、厄介ね」

 真由が心配する。

 「もう遅いよ。どうせ、どっかに売られているだろう」

 「凛香に言って、今からでもウィルスでデータを壊してもらいなさいよ」

 「あー、凛香は相変わらず部屋に籠っているのか」

 「正確には仕事中だけどね」

 そう言ってから、彼女は封筒を出しす。

 「これ今回の報酬。全部使ったら駄目よ」

 中身も確かめずに、世良は適当に札を数枚だけ取ると、真由に投げ返した。

 「あとは、おまえ達の分だ。好きに使えよ」

 「ありがたく受け取っておくわ。これでまた、しばらくご飯には困らないわね」

 真由は笑って封筒をしまった。

 事務所の会計係兼世良一家の世話係は自然と真由の仕事となっている。

 彼女らはそれぞれ事情があって、世良のもとに身を寄せている。

 世良たちは疑似家族をつくって、暮らしていた。

 まるで、小さいマフィアのようだが、似たようなものだと世良は思っている。

 ただ、実際に彼らを保護するマフィアは存在した。

 近々時間がある時に話があると言われいる。

 何か急ぎの用らしい。

 夕食をたべた後にでも出向くことにして、世良は居間の脇にある階段を昇った。

 三階部分は、凛香の部屋だ。

 無遠慮にドアを開けるる。白い壁に衣装ダンスとデッキ用の机だけ。女の子の部屋にしては簡素すぎる風景だ。

 彼女は幾つものディスプレイに向かい、タッチパネルを叩いている真っ最中だ。

 「あっ、世良っ!」

 すぐに彼をみつけた凛香は、椅子をまわして彼のもとに駆け寄って抱きついた。

 「お帰り。どこいってたのさ?」

 下から見上げて訊く。

 「あー、記憶がねぇ。なんか酔ってたみたいで……」

 「飲みすぎたら駄目じゃん、何してんのさ」

 口調は厳しいが、表情は柔らかい。

 「でな、凛香。携帯が財布と一緒にどっかに行っちまったようだから、ちょっと壊してくんねぇか?」

 「お安い御用。すぐやるね」

 彼女は再び机に戻って、浮遊ディスプレイを一個増やした。

 軽くタッチパネル操作をすると、ものの五分で作業をやってのける。

 「はい。これで、世良の携帯は完全に使えなくなったよ」

 「ありがとよ。あと、今晩また俺いないから。飯は三人で食ってくれ」

 言ってから、世良は思い出す。

 「あぁ、離譚がどっかに行ったなぁ」

 「うん、そうかぁ。あいつは、いつも黙ってるからねぇ」

 非難するわけでもなく凛香はむき出しの肩をすくめた。

 「今度、笑わせる企画でも考えておくか」

 世良は適当に相槌を打って口にする。

 「いいねぇ、それ。乗ったわ」

 凛香は明るい笑みで同意した。

 「じゃあ、行ってくるわ」

 「はーい」

 部屋を出ると、世良は真っ直ぐに階段を降りて、ビルから出た。

 今度は切符を買い、網の目のような路線を走る六輌編成の列車に乗り込む。

 中は空いていて、彼は椅子に座ってぼんやりと窓の外を見ていた。

 日が沈むところで、夕闇が迫っている。

 目指す駅はもうすぐだ。

 そこは、彼を保護するという建前のマフィア、申煌祇(しんこうし)の支配地域だった。



 鴻嘉は、歓楽街を歩いていた。

 昼間よりも明るいネオンの下に人々がさざめきあっている。彼にとってみれば馴染みの風景だ。

 飲み屋街が連なり、風俗店が合間合間に見える。、夜の街はやはりこうでなくてはならないと、鴻嘉は笑った。

 彼の派手な遊び人な風の服装も違和感がない。

 表通りから細い脇道に入る。目的の店は、この狭いところにひしめいている中の薄汚れた小さなバーだった。名前を「ペルデュラポー」という。

 客はいない。中年の店主が一人、薄暗い中でカウンターの向こうに椅子を置いてウィスキーの酒瓶を持ってラッパ飲みをしていた。

 中は意外と清潔だ。ただ、店主のマスターが不良中年で汚いカーデガンを羽織り、無精髭も伸ばしっぱなしなのを除いて。

 「よう、相変わらずの店だな、ここは」

 鴻嘉はマスターに言った。

 「あぁ、いらっしゃい。好きなもん勝手に取って飲んでくれ」

 言われるまま、鴻嘉は瓶の陳列されたところからジンとライムジュースをタンブラーに入れて、スツールに腰を下ろしす。

 「地球から、最近動きがあるみないだな?」

 自家製ギムレッドを飲みながら、鴻嘉は訊く。

 「ああ、地球じゃない。動きがあるのはこっちだよ」

 店主はつまらなそうに答えた。

 「駐楼軍は、申煌祇(しんこうし)を潰す気だ。すぐにでもな」

 「情報としては、古いな」

 マスターは笑った。

 「地球の威紅理(いくり)から、瑞維深戯というガキが、配属されてきたよ」

 「ほぅ。あの、指導者層の一人が、捕まったと思ったら、刑務所ではなくここに流されてきたか。興味深い話だな。その地球から、なにかアクションはないか?」

 マスターが鼻を鳴らす。

 「あんたが訊きたいのは、どこのことだ?」

 「と言うと一体何だ?」

 鴻嘉はマスターに合わせた。

 「こっちのどこかマフィア連中が、地球から密輸物資を運んでいる」

 マスターがウィスキーの瓶を傾け、ゴクリと飲んだ。

 「どこだのマフィアだ?」

 「わからん」

 「ほう。じゃあ、密輸物資の中身はわかるか?」

 「鴻嘉よ、そこまでは、まだだな」

 「十分だ、マスター」

 鴻嘉は、ギムレッドの残りを仰いだ。一気に身体が熱くなる。

 尻ポケットから財布を出して、札を十枚ほどカウンターに置いた。

 「また来るよ」

 マスターは、札を一瞥しただけで、酒瓶を振った。

 通りに出ると、夜風が気持ちよかった。

 「……伊深奈鴻嘉だな?」

 背後から、突然に声がかけられる。

 まだ、若い声だ。

 名前を知られた上に、つけられていたとは思いもよらず、鴻嘉は驚いて振り向いた。

 そこには、太刀を二本腰に佩いた少年が立っていた。

 やや長めの髪を後ろで縛り、前髪は目までかぶさっている。細く、やや小柄な身体つきは、サイズの大きめな黒いパーカーとタイパンツでだらりとした影を落としていた。

 「あー、なんだ? 金か?」

 鴻嘉は、言って右手をズボンの後ろポケットに回した。

 その瞬間、少年が跳ぶ。

 一気に間合いが詰められ、閃光が半円を描いた途端に、鴻嘉のリヴォルバーを握っていた手が一瞬にして吹き飛ぶ。

 鴻嘉は気づかずに、手首を失った右手を少年に向けていた。

 「特別、これだけにしておいてやる」

 眼前で刀を収めた少年は、身を翻して雑踏の中に消えてゆく。

 「う、うぉぉぉぉぉぉっ!」

 手首が切断された痛みがようやく押し寄せて来た鴻嘉は、前かがみになって腕をかばった。

 だが、とめどなく血が流れ出す。

 彼は急いでベルトを腰から抜いて、口と左手で腕に食い込むほど巻き、止血した。

 「くそっ、くそっ!」

 鴻嘉は突然の出来事の不条理さを呪った。

 一体、俺が何をしたというのだ?

 思い当たる節がありすぎる!

 鴻嘉痛みを堪えながら自嘲した。

 暗闇でよく見えなかったが、相手が誰かはわかった。

 あれは、世良という列師のところの離譚という少年だ。

 左の手でポケットをまさぐる。携帯通信機を手にして、起動させようとした。

 しかし、反応がない。

 「今度は何だっ?」

 いくらボタンを押しても、機械は全くいうことを利かなかった。

 鴻嘉は、それを道路に投げ捨てた。

 世良から奪ったもので、今更使えなくともすでにデータは抜いてある。

 「後悔させてやるぞ、くそガキ共が……」

 痛みで脂汗が湧き出る中、彼は独り毒づいた。



 世良が向かった建物は、日本の平屋の旧家といった面持の邸宅だった。

 今時珍しい。

 門の脇にある扉の所にインターフォンがある。世良はカメラも付いているその前に立って、眠たげな顔のままで指で押した。

 「どうぞ」

 誰かわからない相手の返事が返って来て、鍵が自動で解錠される。

 玄関までしばらく続く砂利道の両側には池がり燈楼が照らしたてあった。

 玄関の引き戸が開かれ、数人が迎えに出る。

 世良は、その昔ながらの様子に辟易した。

 「兎袋(とぶくろ)さんに呼ばれて来たんだが……?」

 彼が言うと、一人の男が中に案内した。

 靴を脱いで、廊下を行くと、襖の一室に通される。

 畳敷きで座布団が二つ置かれてあり、一つには背の丸くなった小さな老人が一人、着物姿でお茶を啜っていた。

 「世良様をお連れしました」

 若い衆が言うと、そのまま一礼して後ろに下がる。

 「おお、世良。待ってたぞ」

 兎袋は立ったままの世良を見上げて微笑んだ。

 まったくもって、好々爺といった風情だ。

 しかし、世良はこの老人の恐ろしさを知っている。

 彼は何気なさを装って、用意されていた座布団に胡坐をかいた。

 「お久しぶりですね、兎袋さん」

 「氷阜(ひおか)の一件以来だな」

 これにはさすがに、世良は言葉を飲み込んだ。

 ちょうど半月前、申煌祇(しんこうし)は氷阜岱途(ひおかたたいと)という男に率いられていた。

 実際のボスは行方不明になっていた為、氷阜が事実上のナンバーワンだった。

 「あまり思い出したくないですね」

 「そうかね? あのお陰でおまえは此ところでは賓客待遇だというのに。ねぇ世良」

 「兎袋さんもボスの座に座れましたしね」

 「わたしは氷阜以前に一度ボスを経験している。もう歳でそんなガラとは思えないのだがなぁ。まあ、仕方ない。せっかくの申煌祇(しんこうし)最後のボスだ。この目で見取ってやりたくもなる」

 「最後?」

 世良は訝し気にその言葉に反応した。

 「それよりも世良、一つ頼みがあってな。今日来てくれてよかったよ」

 兎袋はそういうと、襖の裏に声をかけた。

 横に開かれて廊下に立っていたのは、若い男に連れられた一人の少女だった。

 黒い前髪を目の上で真っ直ぐに切り、他は肩口で揃えている。黒い瞳はぼんやりと霞んだ印象を与え、白皙の肌に真っ赤な小さな唇が目立つ。

 白いシャツに黒いネクタイ、黒いバルーンサロペットを履き、素足という姿だった。

 年のころ十四歳ぐらいか。美少女といっていい。青いカラーコンタクトを入れている。

 「入っておいで、陽香里(ひかり)」

 少女は呼ばれて、和室の中に入ると、背後で襖が閉じられた。

 兎袋の横に置かれた座布団に正座する。

 「兎袋さんのお孫さんで?」

 「違うな。まあ、孫みたいなものだが」

 「ん、孫でいいのに」

 陽香里が微笑む。

 世良はこの少女にどこか違和感を感じる。

 「頼みというのはな、世良。この陽香里を預かってほしいのだ」

 「預かる?」

 彼は思わず、二人を見比べた。

 少女に驚いた様子はない。すでに話してあるのだろう。

 「無論、生活費その他は、こちらで持つ。と言っても、一括だがな」

 「この子に何があるのですか?」

 「実は、陽香里には記憶がない。名前も私がつけた」

 「……それは可哀想なことですが、何故、私のところに?」

 「それは、これからわかる」

 兎袋は意味深に言った。

 「引き受けてもらうぞ、世良」

 柔らかい声だが、有無を言わせぬ言い方だった。

 兎袋の頼みだ。断るわけにはいかない。

 世良は承知した。

 「用はそれだけだ。帰りに気を付けるんだぞ」

 兎袋は話は終わりだとばかりに口を閉じた。

 「どうして記憶がないんです?」

 「さてなぁ……」

 「記憶を取り戻させるとか、そういうのはないんですか?」

 「……おまえの自由に任せる」

 「私ではなく、彼女の問題だと思うんですけど?」

 「そういう風に考えるなら、やってみるがいい」

 兎袋は、あくまで話を逸らそうとする。

 これ以上追及しても無駄か。世良は思って、陽香里に顔を向けた。

 「じゃあ、行こうか」

 少女に声をかけて、立ち上がった。

 陽香里もそれにならった。

 最後に兎袋が放った一言が、世良に衝撃を与えた。

 「ああ、そうだ。陽香里の姓は、氷阜だ」

 一瞬、世良の脳内で映像が蘇った。

 畳敷きの部屋に倒れる、髪とスーツを乱した若い男だった。表情は絶望と怒りに歪んでいた。

 そばにメガネが落ちている。

 兎袋と、その部下たちが彼を囲み、その一人に混じっていた世良も見下ろしていた。

 右手でリヴォルバーを彼の頭を狙って構えたまま。

 「撃て」

 兎袋の声で、世良は氷阜の頭部に弾丸を二発、打ち込んだ。

 最悪の気分だった。

 死体と拳銃はすぐにところ理され、世良の肩に兎袋が横から手を置いた。

 「よくやった」

 世良はその生暖かい手を思い出し、背中が総毛立った。


 彼は列車を乗り継ぎ、事務所兼自宅があるスラム街まで無言で歩く。

 その間、陽香里も何も言わなかった。

 まさか自身が殺した男の娘を預かることになるとは。

 兎袋は何を考えているのだろう? 

 世良には兎袋の思考が読めなかった。

 とりあえず通帳の残高を確認すると、膨大な額の金額が振り込まれていた。

 三人の寄宿者には、この少女の事をなんと言おうか?

 世良は呑気に考えた。

 まあ、三人に一人が加わるだけだ。

 彼は真っ直ぐに廃ビルに戻ってきた。

 すでに十一時を回っている。

 今度は自前の鍵でドアを開き、陽香里を連れて居間に入った。

 そこには、三人が集まっていた。

 凛香はカーペットに寝そべって、肘を立てながら頭をささえた姿勢でテレビを見ていた。 真由は彼女の脇でお茶を飲んでいた。

 離譚は、窓際で刀の柄を下にして壁にもたれて胡坐をかいて目を閉じている。

 全員の関心が二人に集まった。

 世良は困ったような笑みを浮かべる。

 「新しい居候だ。名前は陽香里。申煌祇(しんこうし)から預かってきた」

 「かっわいいぃぃーーーっ!」

 凛香が飛び起きて、陽香里に近づく。

 「君、幾つ? あたし凛香。十六歳よ。よろしくね」

 「……十四だけど、何?」

 陽香里は微笑む凛香に挑戦的な態度で答えた。

 凛香は一瞬、鼻じらんだが、再び笑んだ。

 「いやぁ、お人形さんみたいっ!」

 彼女は輝く目で陽香里をまじまじと見る。

 「……あっ、そう……」

 陽香里は冷めた目で凜香の視線を避けて呟いた。

 これはまた、ずいぶんと性格の歪んでいるものだ。

 世良は陽香里の態度に呆れて、香料の葉を乾燥させて作った紙巻に火を点けて、やれやれと煙を吸う。

 真由はその様子を苦笑しながら眺めている。

 ラベンダーの香りが漂う。

 離譚はというと再び俯き、起きているのか寝ているのかわからない。

 「さて、問題は急だったので、陽香里の部屋がないわけだ」

 「あたしは、世良の部屋で一緒に寝るわ」

 陽香里は既に決定事項を宣言するように言った。

 「それは、ちょっと……」

 思わず真由が止めに入る。

 「安心しろ。俺も世良と一緒にいる」

 ここで初めて離譚が口を開いた。

 「ああ、それなら、安心かも」

 真由が頷くと、陽香里は露骨に嫌な顔をした。

 「何か問題でも?」

 離譚は無表情で陽香里を見る。

 「……別に。何の問題もないわよ」

 少女は感情を込めずを横を向く。

 「明日やることが決まった。とりあえず、陽香理の部屋を作ろうぜ」

 「また、建て増すの?」

 凛香が面倒くさそうに呟く。

 「そういうことだ」

 「別に私は、このままでも構わないわよ」

 「俺たちが構うんだよ」

 世良が陽理香を宥め諭す。

 「まあ、明日だ明日。今日はみんな飯食っただろう?」            

 「じゃあ、明日にしましょう」

 真由が締めた。


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