窓の外に、夕陽が沈みかけている。
病室には美穂のすすり泣きと、機械のリズムが静かに響いていた。さっきまで夢のような時間だった気がする。現実感なんてまだ戻ってこない。
そんなときだった。
「やれやれ。まったく、こっちはこっちで大変だったんだぞ」
誰かの声がした。
いや、誰かじゃない。――あの煙の死神だ。
視線を向けると、病室の隅。カーテンの影から、ふわりと煙が立ち昇ってくる。やがて、いつもの気だるそうな姿が現れた。
「……おまえ、まだいたのか」
美穂には見えていない。俺は思わず声を落とす。
「当然だ。おまえを死なせたら、俺の仕事が増える。しかも――」
死神は指を一本立てて、少し眉をひそめた。
「危うく、天国に連れてかれるところだった」
「……は?」
意味がわからなかった。耳を疑ったというより、理解が追いつかなかった。
「俺が地獄担当なのは知ってるな? なのにさ――よりにもよって、天使が先に迎えに来やがったんだ」
死神はため息まじりに言う。その顔には、珍しく怒気のようなものが混じっていた。
「寿命より、六十年も早ぇんだぞ。信じられるか? あいつら、“奇跡の死”とか“美談”とか大義名分並べやがって」
「いやいやいや、待て。天使って何だよ。そもそも、バトルって何の話だよ」
「おまえが昏睡してた間にな。俺、律儀だから、ちゃんと押し返したんだよ。ま、軽く一発ぶん殴ったら、羽根バラけて帰ってったけどな」
さらっと、とんでもないことを言ってのける。病室で、命のやりとりが空の上で行われていたなんて、冗談にしか思えない。
「……おまえ、何でそこまで」
ぽつりと問いかけると、死神は少しだけ口元をゆるめた。
「おまえはまだ、生きたがってたからな。それだけだ」
「それだけって……」
「地獄に連れてく気はねぇよ。そんな暇じゃないし、別に向いてもない」
死神は腰に手をあて、煙のしっぽをふわふわ揺らした。
「ただ――俺は律儀だからな。担当した人間が途中でかっさらわれるのは、性に合わねえ」
それきり、死神は黙った。
沈黙の中、俺は天井を見つめる。さっきより少しだけ、呼吸が楽になった気がした。
「……なあ。俺、まだ死ななくてよかったのか?」
死神は、ふっと視線を落とし、肩をすくめる。
「その答えは、おまえが六十年かけて見つけりゃいい」
そして彼は、またゆっくりと消えていった。
煙が漂い、何もなかったかのように病室には静けさが戻ってくる。
ベッドの脇、美穂は俺の手を握りながら、涙を拭っていた。
何も知らずに、ただ、俺の生還を喜んでくれている。
――この命、守られたんだ。
天使を殴り飛ばしてでも、守ろうとしてくれた存在がいた。
「そうだ、一つ言い忘れていた。困ったことに、あの天使の力が、おまえにちょっとだけ入り込んじまった」
「……は?」
「光、見たろ? 魂の奥まで焼く、あの神の火種。それに触れて、無事だったやつなんざ、そうそういねぇよ」
俺は返す言葉を失った。
死神が続ける。
「まぁ……副作用だな。おまえの中に、ほんのひとかけらだけ、“あっち側”の力が宿ったってことだ」
「“あっち側”って……まさか、天使の力か?」
「そう。おまえは――人の“死”を感じ取れるようになるかもしれない。あるいは、抗えるようになるかもしれない」
心臓がひとつ、大きく鳴った。
「冗談だろ?」
「冗談だったら、こんなこと言わねぇよ」
死神はポケットから何かを取り出した。白く、やけに冷たい光を放つ“羽”のようなもの。
「おまえの中に、確かにこれがある。証拠だ」
「それ、天使の……?」
「そう。俺がバトル中に、奪ってきた」
こいつ、思ってたより……やるな。
「じゃあ、これから俺はどうなるんだ?」
死神は、くすっと笑って言った。
「さあな。そこから先は、おまえの物語だ。――生きて確かめてみろよ、“半分、天使になりかけた男”」
その言葉が、やけに遠くで響いた気がした。
窓の外、夕陽が沈みきる直前だった。空が、オレンジから藍色に変わっていく。
俺はふと思う。
――もう一度、生き直せってことか?
たしかに一度、死んだ。でも今、こうして生きている。
なら、この命に――次は俺が、意味を与える番なんだ。
そのときだった。
「あ、そうそう」
またもや、あの煙がそっと揺れた。
「おまえ、もうすぐ“それ”を使う羽目になるかもな」
意味深な言葉を残し、死神は、今度こそ本当に消えた。