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第7話 光の痕

 窓の外に、夕陽が沈みかけている。


 病室には美穂のすすり泣きと、機械のリズムが静かに響いていた。さっきまで夢のような時間だった気がする。現実感なんてまだ戻ってこない。


 そんなときだった。


「やれやれ。まったく、こっちはこっちで大変だったんだぞ」


 誰かの声がした。


 いや、誰かじゃない。――あの煙の死神だ。


 視線を向けると、病室の隅。カーテンの影から、ふわりと煙が立ち昇ってくる。やがて、いつもの気だるそうな姿が現れた。


「……おまえ、まだいたのか」


 美穂には見えていない。俺は思わず声を落とす。


「当然だ。おまえを死なせたら、俺の仕事が増える。しかも――」


 死神は指を一本立てて、少し眉をひそめた。


「危うく、天国に連れてかれるところだった」


「……は?」


 意味がわからなかった。耳を疑ったというより、理解が追いつかなかった。


「俺が地獄担当なのは知ってるな? なのにさ――よりにもよって、天使が先に迎えに来やがったんだ」


 死神はため息まじりに言う。その顔には、珍しく怒気のようなものが混じっていた。


「寿命より、六十年も早ぇんだぞ。信じられるか? あいつら、“奇跡の死”とか“美談”とか大義名分並べやがって」


「いやいやいや、待て。天使って何だよ。そもそも、バトルって何の話だよ」


「おまえが昏睡してた間にな。俺、律儀だから、ちゃんと押し返したんだよ。ま、軽く一発ぶん殴ったら、羽根バラけて帰ってったけどな」


 さらっと、とんでもないことを言ってのける。病室で、命のやりとりが空の上で行われていたなんて、冗談にしか思えない。


「……おまえ、何でそこまで」


 ぽつりと問いかけると、死神は少しだけ口元をゆるめた。


「おまえはまだ、生きたがってたからな。それだけだ」


「それだけって……」


「地獄に連れてく気はねぇよ。そんな暇じゃないし、別に向いてもない」


 死神は腰に手をあて、煙のしっぽをふわふわ揺らした。


「ただ――俺は律儀だからな。担当した人間が途中でかっさらわれるのは、性に合わねえ」


 それきり、死神は黙った。


 沈黙の中、俺は天井を見つめる。さっきより少しだけ、呼吸が楽になった気がした。


「……なあ。俺、まだ死ななくてよかったのか?」


 死神は、ふっと視線を落とし、肩をすくめる。


「その答えは、おまえが六十年かけて見つけりゃいい」


 そして彼は、またゆっくりと消えていった。


 煙が漂い、何もなかったかのように病室には静けさが戻ってくる。


 ベッドの脇、美穂は俺の手を握りながら、涙を拭っていた。


 何も知らずに、ただ、俺の生還を喜んでくれている。


 ――この命、守られたんだ。


 天使を殴り飛ばしてでも、守ろうとしてくれた存在がいた。


「そうだ、一つ言い忘れていた。困ったことに、あの天使の力が、おまえにちょっとだけ入り込んじまった」


「……は?」


「光、見たろ? 魂の奥まで焼く、あの神の火種。それに触れて、無事だったやつなんざ、そうそういねぇよ」


 俺は返す言葉を失った。


 死神が続ける。


「まぁ……副作用だな。おまえの中に、ほんのひとかけらだけ、“あっち側”の力が宿ったってことだ」


「“あっち側”って……まさか、天使の力か?」


「そう。おまえは――人の“死”を感じ取れるようになるかもしれない。あるいは、抗えるようになるかもしれない」


 心臓がひとつ、大きく鳴った。


「冗談だろ?」


「冗談だったら、こんなこと言わねぇよ」


 死神はポケットから何かを取り出した。白く、やけに冷たい光を放つ“羽”のようなもの。


「おまえの中に、確かにこれがある。証拠だ」


「それ、天使の……?」


「そう。俺がバトル中に、奪ってきた」


 こいつ、思ってたより……やるな。


「じゃあ、これから俺はどうなるんだ?」


 死神は、くすっと笑って言った。


「さあな。そこから先は、おまえの物語だ。――生きて確かめてみろよ、“半分、天使になりかけた男”」


 その言葉が、やけに遠くで響いた気がした。


 窓の外、夕陽が沈みきる直前だった。空が、オレンジから藍色に変わっていく。


 俺はふと思う。


 ――もう一度、生き直せってことか?


 たしかに一度、死んだ。でも今、こうして生きている。


 なら、この命に――次は俺が、意味を与える番なんだ。


 そのときだった。


「あ、そうそう」


 またもや、あの煙がそっと揺れた。


「おまえ、もうすぐ“それ”を使う羽目になるかもな」


 意味深な言葉を残し、死神は、今度こそ本当に消えた。

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