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第6話 死神の意地

 ――何かが、柔らかい。


 肌に触れるシーツの感触が、やけに現実的だった。けれど、どこかふわふわと浮いているような感覚もある。意識は深い霧の中から、ゆっくりと浮上していた。


 耳に届くのは、機械の電子音。規則的な、心臓の音のようなリズム。それに混じって、廊下を通る誰かの足音が遠く響く。薬品の匂いが、微かに鼻の奥に刺さった。


(ここは……)


 まぶたが重たい。けれど、どうにか力を込めて開けると、目に飛び込んできたのは、真っ白な天井。蛍光灯の光が淡くにじみ、まるで夢の続きのようだった。


 意識が完全に戻るにつれ、今度は身体の重さがのしかかってくる。手足の感覚が鈍い。肺が狭まり、息を吸うたびに胸がわずかに痛んだ。


 ゆっくりと、首を横に向ける。そこにいたのは――美穂だった。


 椅子に腰かけ、俯いたまま俺の手を握っている。細い指が震え、肩が小刻みに揺れていた。顔は見えないが、泣いているのがわかった。


「渉……っ」


 小さく、けれど確かに名前を呼ぶ声。濡れた声だった。


 俺は、力を振り絞って指を少しだけ動かす。たったそれだけなのに、全身の神経が引っ張られるようだった。


 その微かな動きに気づいたのか、美穂がはっと顔を上げた。目が真っ赤に腫れている。頬には乾きかけた涙の筋が残っていた。


「渉……! 目、覚めた……!」


 次の瞬間、彼女は堰を切ったように俺の胸に飛び込んできた。重さはないはずなのに、心の奥までずしりと響いた。


 細い体が震えていた。制服の肩口が湿っているのは、涙のせいかもしれない。


「ほんとに……ほんとにもう……っ! 死んじゃうかと思った……!」


 その声に、こっちの胸まで締めつけられる。かすかに震える彼女の背中に、ようやく動く指でそっと触れた。


 涙がぽつ、ぽつ、と首元に落ちてくる。それは冷たいのに、不思議とあたたかかった。


「医者には、あと三日持てばいいって……言われたんだよ!」


 三日――。


 思ったよりも、俺は遠くへ行ってたらしい。あの時、確かに、何もかもが暗闇に沈んだ感覚があった。


「……ずっと、そばにいたよ。目が覚めるって、信じてたから……」


 美穂の声は、泣きながらも真っ直ぐだった。その言葉だけで、生きていてよかったと思えた。


 ふと、彼女の背後に目をやると、病室の隅で何かが揺れていた。


 煙――いや、見覚えのあるそれは、ふわふわとした灰色の影だった。


 死神がいた。


 相変わらず、ふざけたような形で浮かんでいる。けれど、その顔にはどこかしら穏やかな色があった。俺の方をじっと見て、目を細める。


「やれやれ。思ったより、丈夫じゃないか」


 あいかわらずの軽い口調。だがその声には、ほんの少しだけ、安堵の響きが混じっていた気がする。


 ふわりと煙が揺れて、俺の枕元に近づいてくる。死神は、俺の耳元で静かに囁いた。


「安心しろ。お前の命は……あと六十年、きっちり延長してやる」


 何も返せなかった。言葉よりも先に、涙がにじみそうになる。


 まばたきすらできずにいると、死神はくすっと笑って背を向けた。


「俺は律儀だからな。ちゃんと、約束は守る」


 その背に、窓から差し込む夕陽が静かに染み込んでいた。病室の白い壁が、橙色に変わっていく。光の中で、死神の姿はやわらかく薄れていった。


 ベッドの上、美穂の涙がまだ止まらない。


 けれど、それは絶望の涙じゃなかった。


 命の重みが、確かにそこにある。触れられるように、あたたかく、現実として。


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