夜の街は、まばらな人影と、遠くに聞こえる笑い声だけが残っていた。車通りも少なく、静かな風がアスファルトの上をすり抜けていく。
「タワー、意外と楽しかったね」
美穂が笑う。頬が少し赤くて、いつもより感情が顔に出ていた。さっきまで少し距離を感じていたのが嘘みたいだ。
俺はポケットに手を突っ込んで、気取らずに返す。
「おう。まさかあんなに騒ぐとは思わなかったけどな、あいつ」
肩のあたり、ふわふわと浮かぶ煙――死神は、まるで得意げな子どものように宙を漂っている。さっきからずっと上機嫌で、喋りすぎて喉をやられた子どものように静かだ。
「渉さ……」
美穂がふいに立ち止まった。俺も足を止め、振り返る。
街灯の光が、彼女の黒髪に柔らかい輪郭をつけていた。淡いオレンジ色の光が、まるで彼女の輪郭だけを浮かび上がらせるみたいに。
「今日は、ありがとう」
「な、なんだよ急に」
その言葉は少し照れくさくて、つい顔を逸らしてしまう。けれど、美穂の声は真っ直ぐだった。
「ううん。なんでもない。ただ、楽しかったって伝えたくて」
その瞬間、風が一度、足元をすり抜ける。冷たくもない、けれどどこか不穏な空気を含んだ風。通り過ぎるはずの時間が、ふと引っかかる。
――何か、おかしい。
次の瞬間だった。
――キィイイイイイイイィィィッ!
甲高いブレーキ音が、夜の静けさを鋭く裂いた。
「……っ!」
反射的に振り返る。視線の先、交差点を無視して突っ込んでくる車のライトが、こちらを真っ直ぐに照らしていた。
白く眩しい光。逃げ場のない圧力が、一気に迫ってくる。
――間に合わない。
考えるより早く、体が動いていた。
美穂の腕をつかみ、力任せに歩道のほうへ突き飛ばす。押し出すように。守るように。
「渉っ――!」
彼女の叫びが、耳の奥で爆ぜる。
次の瞬間、視界が真っ白に弾けた。
鈍い、そして重い衝撃が体中を打ちぬいた。浮く感覚。砕けるような痛み。世界がぐるぐると回り、どこが上でどこが下かわからなくなる。
遠ざかる車のエンジン音だけが、現実に引き戻してくる。
そして、静寂。
全身の感覚が、どこか遠くへ行ってしまったようだった。痛みすら、もう感じない。
まぶたが重い。目を開けたいのに、開かない。指一本動かす力も残っていなかった。
(美穂……無事……だよな……)
意識が遠のく中、ぼやけた視界の先に、しゃがみこんで泣いている美穂の姿が見えた。
肩を震わせて、何かを叫んでいる。音はもう聞こえなかったけれど、口の動きでそれが自分の名前だとわかった。
その背後に、ひとすじの煙。死神が静かに佇んでいた。
夜の闇に溶けこむような姿で、微かに、けれど確かに笑っていた。
(……それで、いい)
思考がふっと軽くなる。重みを残していた心が、何かから解き放たれるように。
そして――すべてが、暗闇に沈んでいった。