「琴葉!何度言ったらわかる!楽譜通りに弾けと言っているだろう!もう一回、25小節目から弾きなさい。」
「申し訳ございません。」
罵声と拳が飛んでくる。慣れていることだ。なんのために謝っているのかもわからないが、謝罪を口にしないと怒られるので、ひとまず謝っておく。少し呼吸を整えて、両手を鍵盤に乗せる。
「まただ!何回も言わせるな!この出来損ないが。お前は存在しているだけで神楽家の恥だ。能力がないのだからせめて楽譜通り弾けなければお前の存在価値はないんだよ!もういい。鈴葉、変わりなさい。」
「もう、お姉様ったら、全然できないんだから。私のピアノ汚すのやめてよね?あーあ、ほんっと最悪。汚い音で頭がおかしくなりそうだわ。」
俯いて椅子から降りる。父親に一礼して部屋の壁に吸い付くようにして立つ。
それがきっかけだったかどうかはわからない。いつからか琴葉は毎日のように両親、妹から罵られ、貶され、時には暴力を振るわれていた。鈴葉は容姿が華やかで、オーラがあったからか、両親はいつも鈴葉のことばかり可愛がって、地味で無能な琴葉をいじめるのだった。
神楽家現当主、
琴葉は毎日ピアノのレッスンを受けているが、そのピアノは鈴葉のもので、それを借りて弾く、という状態になっている。玄直々のレッスンは、明らかに琴葉に当たりがきつい。もちろん、鈴葉にもきっちり音楽家としての心構えを教えてはいる。ただ、褒める時は褒めるし、人格否定など全くしない。一方で、琴葉には平気で人格否定をし、拳と罵声でレッスンを進めるのだ。
そして、琴葉はレッスン以外の時間はずっと、メイドのように振る舞うことになっている。音楽以外のことにおいては、神楽家の娘として扱ってもらうことすらないのだ。
夕食の時間。
琴葉は鈴葉の給仕をさせられる。
「お食事をお持ちいたしました。」
皿を鈴葉の前に置く。できるだけ、丁寧に。誰の気持ちも逆撫でしないように。
「あらやだ、その汚らしい手でお皿を触らないで欲しいわ。お姉様ったら、その手でピアノを弾いていたというの?」
クスクスと気取ったように笑いながらバカにしてくる鈴葉。琴葉は俯いて一歩下がる。
「申し訳ございません。」
食事が始まる。鈴葉がいつものように、学園での出来事を両親に話すと、両親は笑ってそれに答える。私立聖桜学園高等部。能力者の家系や資産家の家系が集う学校だ。鈴葉はそこで楽しい学園生活を送っているようだが、琴葉は無能であるため、そこに通うことは玄が許さなかった。
話は鈴葉に婚約の申し込みが来ている、という内容に移り変わっていく。鈴葉は断るように玄に言った。
「そういえば、風の噂で聞いたのだが、宝条家の一人息子が嫁にふさわしい女を探しているらしい。宝条家から縁談がくるかもしれないが、その時はどうするつもりだ?できるだけ鈴葉の意志を尊重したいと思っているからな。」
「私、珀様の婚約者になれるのなら、それ以上のことはないわ。」
「そうか、こちらから持ちかけることはできないが、待つことはできるからな。」
「珀様に釣り合う女の子なんて私くらいしかいないはずよ。必ず神楽家に来るはずだわ!」
私には関係のない話、と思いながら、琴葉は空になった食器を下げ、厨房へと向かった。厨房の端には、琴葉用の食事が用意されているので、それを自室へと運ぶ。
琴葉についていたメイドはいつの間にかいなくなっていた。それ以来、琴葉の味方は家にはいなくなった。メイド同等の扱いを受けているが、名目上はお嬢様であることから、メイドや執事たちからは少し距離を取られているのだ。
昔は、助けてくれる人がいた。琴葉から見れば叔父にあたる
できることなら、雅と結ばれて、この理不尽な生活から抜け出せたらいいと思っていたが、それも叶わなかった。
誰も頼れない。1人で理不尽な差別に耐えるしかない。幼い頃は罵られて泣いていたこともあった。だが、いつしか涙も枯れ、期待を捨てて過ごすようになった。期待しなければ悲しくなることも、怒りが湧いてくることもない。
ふと、鈴葉に言われたことを思い出してカトラリーを持つ手を見ると、新しくできたあかぎれが目立っていた。5月に入ろうとしているのにあかぎれが耐えないのは、掃除や食器洗いなどの水仕事をさせられているからだ。昔からずっと手が荒れているから、特に何も思わないし、痛みにも慣れてしまった。ハンドクリームなど買ってもらえるわけがないから、直すのも諦めている。
与えられている部屋はメイド用の狭い部屋だが、必要なものはちゃんと揃っているから、不自由はしていない。鈴葉との扱いの差は理不尽だと思うことはあっても、能力の有無のせいだとはっきりわかるから、諦めがつく。
ただ希うは、能力を持って生まれていたら、ということだけ。