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地獄の王国
地獄の王国
NIWA
文芸・その他ノンジャンル
2025年06月16日
公開日
7,524字
完結済
「股間の疼きを愛と呼ぶな!」――優秀な宰相エルンストは今日も恋愛脳の貴族たちを毒舌で罵倒する。婚約破棄、不倫、身分違いの恋。発情期の猿のように振る舞う貴族たちが次々と問題を起こし、国家の危機を招く。エルンストは彼らを「精液脳」「発情期の雌猫」と罵りながらも、その尻拭いに奔走する日々。しかし貴族たちは宰相への甘えから反省しない。有能な宰相にとってこの国はまさに地獄だった。

宰相の地獄

 王城の執務室で、一人の男が膨大な書類と格闘していた。


 宰相エルンスト・フォン・ライヒェンバッハ。


 この王国で最も優秀な頭脳を持つ男だ。


 彼がこの地位に就いてから十年。


 破綻寸前だった国庫は黒字に転じ、時代遅れの軍制は近代化され、周辺国との関係は驚くほど安定していた。


 彼がいなければこの乱世において、王国は滅亡を余儀なくされるだろう。


 しかしそんな優秀なエルンストは──


 毎日怒り、毒づき、疲弊していた。


 馬鹿な貴族たちのせいで。


 そう、この国は貴族が只管馬鹿なのだ。


 どこかの馬鹿な神々が際限なく馬鹿な貴族を産み出しているのだろうか、そんな事を思うほどにこの国には馬鹿が多い。


 ・

 ・

 ・


 ◆◆◆


 執務室の扉が勢いよく開かれた。


「レオンハルト様が婚約破棄を申し出ております!」


 ああ、また脳みそを排泄物と入れ替えた貴族が一人。


 羊皮紙から顔を上げることなく、私は内心で毒づいた。


 今月で何件目だろうか。


 いや、数えるのはやめておこう。


 猿の交尾回数を数えるようなものだ。


「理由は?」


 問いかけながら、すでに答えは予想できていた。


 どうせ股間で物を考えた結果だろう。


「その……街で出会った花売り娘に恋をしたと」


 ほら見ろ。


 予想通りだ。


 レオンハルト・フォン・ヴァイスハルト伯爵家の長男。


 武勇に優れ、領地経営も手堅い。


 だが頭蓋骨の中身は腐った野菜より役に立たない。


「相手の素性は調べたのか」


「はい。平民の娘で、特に問題となる背景はございません」


 問題がないのが問題なのだ、この低能が。


 レオンハルトの婚約者はローゼンタール辺境伯の次女。


 国境防衛の要となる家系との縁組だった。


 それを花売り娘の色香に鼻の下を伸ばして反故にするとは。


 犬の方がまだ理性的だ。


「ローゼンタール家の反応は?」


「激怒しております。特に辺境伯閣下は『侮辱された』と」


 当然だろう。


 平民の小娘に負けたとあっては、糞以下の扱いを受けたも同然だ。


 私は執務机に肘をつき、こめかみを押さえた。


 こめかみがズキズキと脈打っている。


 この国の貴族たちは、なぜこうも下半身に脳みそがあるのか。


 婚姻とは家と家の結びつきであり、国家の安定を支える政治的契約だ。


 それを「恋」だの「愛」だのという、発情期の畜生のような衝動に振り回される。


 動物園の猿の方がまだ社会性がある。


「ローゼンタール家の次女は?」


「泣き崩れて部屋に籠もっているとか」


 それもまた情けない。


 何だその醜態は。


 上級貴族の令嬢が、平民に男を奪われて鼻水垂らして泣くとは。


 プライドは便所にでも流したのか。


 いや、元々プライドなど持ち合わせていないのだろう。


 あるのは虚栄心だけだ。


「分かった。後で対処する」


 部下を下がらせ、私は書類の山を睨みつけた。


 今日だけで三件の縁談破棄。


 昨日は二件。


 一昨日は四件。


 まるで伝染病だ。


 いや、伝染病の方がまだ治療法がある。


 馬鹿に付ける薬はない。


 かといって、感情による婚約破棄を禁じれば反発は必至だ。


 下手をすれば貴族たちが結託して反乱を起こしかねない。


 彼らにとって「恋愛の自由」は、糞をする自由と同じくらい神聖らしい。


 理解できないが、馬鹿の考えることなど理解する必要もない。


 午後の日差しが執務室に斜めに差し込んでいる。


 黄金色の光が、まるでこの腐った国を嘲笑うかのようだ。


「失礼いたします」


 今度は女官長が入ってきた。


 その困り果てた表情を見て、私の胃が痛み始めた。


「今度はどの馬鹿が何をやらかした」


「マルグリット嬢が……」


 ああ、あの脳みそがピンク色の侯爵令嬢か。


「まさか、また発情したのか」


「今度は吟遊詩人に恋をしたそうです」


 思わず失笑が漏れた。


 もはや喜劇だ。


 いや、喜劇にも脚本がある。


 これは単なる動物の求愛行動だ。


 マルグリット・フォン・ハイデンライヒ侯爵令嬢。


 美貌と教養を兼ね備えた、社交界の花と呼ばれる女性だ。


 だが股間の緩さは売春宿の女以下だった。


 去年は庭師。


 その前は馬丁。


 今度は吟遊詩人ときた。


 次は何だ? 


 野良犬か? 


「婚約者のシュタインベルク公爵家は?」


「面会を拒否されております」


 当たり前だ。


 公爵家ともなれば、これ以上の屈辱はない。


 便所の落書き以下の扱いを受けたようなものだ。


 私は立ち上がり、窓際へと歩いた。


 眼下に広がる王都の街並み。


 赤い屋根が整然と並び、人々が行き交っている。


 表面上は平和そのものだ。


 だが実際は、猿山の猿どもが発情期で狂っているだけだ。


「シュタインベルク公爵には私から説明する。マルグリット嬢は檻に入れろ」


「檻……ですか?」


「優しい言い方をすれば『保護』だ。発情した雌猫を野放しにはできない」


 女官長が退室した後、私は深い溜息をついた。


 この国の宰相として十年。


 私は糞溜めの管理人をしていたのか。


 財政を立て直し、軍制を改革し、外交関係を安定させた。


 だが肝心の貴族たちの頭の中身は、相変わらず精液と膣分泌液で満たされている。


 書類の山に戻る前に、私は壁に掛けられた国家系図を眺めた。


 複雑に絡み合う血縁関係。


 まるで発情した犬どもの交配図だ。


 それぞれの家門が持つ軍事力と経済力。


 全てが絶妙なバランスの上に成り立っている。


 そのバランスを、股間の疼きで崩そうとする獣ども。


 正直、全員去勢してやりたい。


 だがそれはできない。


 この国には彼らが必要なのだ。


 どんなに脳みそが腐っていても、貴族は貴族。


 糞でも肥料にはなる。


 机に戻り、新たな縁談の調整を始める。


 レオンハルトの穴を埋める馬鹿探し。


 マルグリットの代わりになる発情雌探し。


 頭の中で馬鹿どもの相関図を組み替えていく。


 まるで動物園の飼育員だ。


「エドワード子爵の三男なら……いや、あれは精液脳だ」


「ベルンハルト男爵の長女は……駄目だ、知能が猿以下だ」


 一人一人の愚かさの度合いを測りながら、最も害の少ない組み合わせを探る。


 知性など期待できない。


 私にとって婚姻とは、家畜の配合に過ぎない。


 夕暮れが近づき、執務室が血のような赤に染まり始めた。


 今日も徹夜で馬鹿どもの尻拭いか。


 貴族たちが股間で考える分、私が脳みそを使わなければならない。


 彼らが獣のように振る舞う分、私が人間でいなければならない。


「宰相閣下、緊急の知らせが」


 扉が開き、近衛騎士が飛び込んできた。


 その顔は蒼白だ。


「今度はどの猿が発情した?」


 皮肉を込めて尋ねると、騎士は首を振った。


「いえ、王太子殿下が……」


 最悪だ。


 国の頂点に立つ猿まで発情するとは。


「相手は?」


「隣国の王女ではなく、その侍女だそうです」


 私は天を仰いだ。


 神よ、なぜこの国を猿山にしたのですか。


 いや、猿に失礼だ。


 猿の方がまだ群れの秩序を守る。


「すぐに評議会を招集しろ。馬鹿ども全員だ」


 騎士が駆け出していく。


 私は羽ペンを手に取り、対策を書き始めた。


 王太子の股間を冷やす方法。


 隣国への土下座外交。


 新たな生贄の選定。


 頭の中で幾つものシナリオが展開される。


 どれも反吐が出そうな内容だ。


 だが、やるしかない。


 この脳みそが精液でできた貴族たちを操り、国を維持することが私の使命なのだから。


 窓の外では星が瞬き始めていた。


 美しい夜空だ。


 だが私にはそれを愛でる余裕などない。


 発情した猿どもの後始末で今夜も眠れそうにない。


 本当に心の底から軽蔑する。


 それでも私はこの腐った国を守らなければならない。


 せめて私だけは人間でいよう。


 この動物園の唯一の人間として。


 だがまあ明日は説教だ。


 大説教会をする。


 猿共を調教してやる。


 そう決意して、私は再び書類に向き合った。


 ◆


 朝一番、私は脳みそが腐敗したレオンハルトを執務室に呼び出した。


 扉を開けて入ってきた男は、恋する乙女のような顔をしている。


 反吐が出る。


「座れ」


 短く命じると、レオンハルトは椅子に腰を下ろした。


 まだ夢見心地の表情だ。


「レオンハルト・フォン・ヴァイスハルト」


 フルネームで呼ぶと、ようやく少し緊張した様子を見せた。


「貴様の家系図を暗唱できるか?」


「え? いえ、その……」


「できないのか。自分の血統も知らない犬以下の存在が、婚約破棄とは笑わせる」


 私は立ち上がり、彼の前に立った。


「貴様の曾祖父は国境防衛で三度の武勲を立てた。祖父は財政改革で王国を救った。父上は今も北方で蛮族と対峙している」


 一歩近づく。


「そして貴様は? 花売り娘の尻を追いかけて家名を泥に塗る。素晴らしい家系の完成だな」


 レオンハルトの顔が赤くなった。


「しかし、愛は——」


「愛?」


 私は失笑した。


「股間の疼きを愛と呼ぶな。犬が電柱に小便をかけるのと何が違う?」


「それは違います! 彼女は清純で——」


「清純? ああ、そうだろうな。貴様のような馬鹿貴族を籠絡するには、清純を演じるのが一番効果的だ」


 椅子に座り直し、私は指を組んだ。


「いいか、よく聞け。貴様が破棄した婚約がどれだけの価値があったか教えてやる」


 レオンハルトは黙って俯いた。


「ローゼンタール家との同盟で、北方防衛線は二重になる予定だった。それが貴様の股間の暴走で水の泡だ。次に蛮族が攻めてきたとき、死ぬ兵士の血は全て貴様の精液と同じ価値になる。死ななくても良いのに死ぬのだ、無駄死にといって差し支えあるまい。その事に罪悪感は抱かないのか? この悪魔め」


「そんな……大げさな」


「大げさ? 貴様の脳みそが小さすぎて理解できないだけだ。花売り娘と一晩寝た快楽と、千人の兵士の命。どちらが重いか、猿でも分かる」


 レオンハルトは立ち上がろうとした。


「座れ。まだ終わっていない」


 私の声に、彼は震えながら座り直した。


「貴様には新しい婚約者を用意する。今度は逃げられないよう、式まで監視付きだ。発情したら去勢する。分かったら失せろ」


 レオンハルトが逃げるように退室した後、次はローゼンタール家の次女を呼んだ。


 泣き腫らした目で入ってきた娘を見て、私は嘆息した。


「ローゼンタール嬢」


「はい……」


 鼻をすすりながら返事をする。


 見苦しい。


「泣くのをやめろ。貴様の涙には一文の価値もない」


 彼女はビクッと身を震わせた。


「貴様は何に負けたと思っている?」


「……花売りの女に」


「違う」


 私は冷たく言い放った。


「貴様は貴族としての牙を使わなかった自分の甘さに負けたんだ」


「え?」


 私は机の引き出しから小瓶を取り出した。


「これが何か分かるか?」


 彼女は首を振った。


「不妊薬だ。無味無臭。花売り娘の飲み物に混ぜれば、一生子供は産めない」


 ローゼンタール嬢の顔が青ざめた。


「そんな……」


「甘いな。じゃあこれは?」


 別の瓶を見せる。


「顔に傷が残る薬品だ。『事故』を装って使えば、花売り娘の商売道具は台無しだ」


「ひどすぎます!」


「ひどい? 貴族の世界では基本だ」


 私は椅子に座り直した。


「他にもある。花売り娘の実家を調べ上げ、税の不正を『発見』する。家族を牢獄送りにして、恋人を助けたければ手を引けと脅す」


 彼女は震えていた。


「または、街の愚連隊を金で雇って夜道で襲わせる。顔は傷つけずに、ただ恐怖を植え付ける。毎晩違う場所で」


「やめてください……」


「まだある。彼女の過去の男関係を『調査』し、売春の証拠を『作る』。それをレオンハルトの枕元に置く」


 私は立ち上がり、彼女の前に立った。


「貴様の母親は知っているはずだ。ローゼンタール家が辺境伯の地位を得るまでに、何人の政敵が『不慮の事故』で死んだか」


 新たな涙が溢れ出した。


「私にはそんなこと……できません」


「だから負けた」


 私は冷たく言い放った。


「貴族として生まれたなら、爪も牙も毒も使え。それができないなら修道院にでも入れ」


 ハンカチを差し出しながら、私は続けた。


「いいか、次の縁談相手には同じ失敗をするな。婚約したらすぐに既成事実を作れ。妊娠すれば男は逃げられない」


「でも……」


「媚薬もある。排卵日を狙え。相手の飲み物に混ぜて、あとは股を開け。貴族の女の武器はそこにしかない」


 彼女は嗚咽を漏らし始めた。


「さらに言えば、相手の弱みを握れ。浮気現場の証拠、違法行為の記録、何でもいい。それを保険として持っておけ」


「そんな結婚……」


「愛のある結婚がしたければ平民になれ。貴族は違う。利害と駆け引きと脅迫で成り立つ」


 私は最後の小瓶を見せた。


「これは惚れ薬と呼ばれている。実際は脳の判断力を鈍らせる薬物だ。適量なら酒に酔った程度。これも使え」


「もう……聞きたくありません」


「聞け。貴様の曾祖母は、これらの手段を全て使ってローゼンタール家を守った。貴様にその覚悟がないなら、家名を汚すな」


 沈黙が流れた。


「……分かりました」


「賢明だ。道具は全て用意させる。使うかどうかは貴様次第だ。ただし、失敗したらもう助けない」


 彼女が退室する際、私は付け加えた。


「ああ、それと。花売り娘については既に手を打った。来月には国外追放だ」


 午後になって、マルグリット嬢を呼び出した。


 軟禁部屋から連れてこられた彼女は、反抗的な目で私を睨んでいる。


「マルグリット・フォン・ハイデンライヒ」


「何です? また説教ですか?」


 ふてぶてしい態度だ。


「説教? 違うな。貴様のような発情期の雌猫に説教など無駄だ」


「失礼な!」


「事実だ。庭師、馬丁、吟遊詩人。次は何だ? 門番か? それとも野良犬か?」


 マルグリットの顔が真っ赤になった。


「愛に身分は関係ありません!」


「愛? 貴様のそれは愛ではない。単なる性欲だ。発情期の猫が相手を選ばないのと同じだ」


 私は彼女の経歴書を取り出した。


「二十三歳。婚約破棄五回。不倫騒動三回。妊娠騒ぎ二回。素晴らしい経歴だな。売春宿なら即採用だ」


「なんてことを!」


「黙れ。貴様のせいでシュタインベルク公爵家との関係は最悪だ。分かっているのか?」


 マルグリットは唇を噛んだ。


「でも、吟遊詩人の彼は——」


「股間を慰めてくれるのか? そうだろうな。それが仕事だ」


 私は立ち上がり、窓の外を見た。


「貴様には選択肢を与える。修道院で残りの人生を過ごすか、私が選んだ相手と結婚するか」


「そんな!」


「選べ。十秒やる」


「……結婚します」


「賢明だ。相手は七十歳の金持ち商人だ。もうすぐ死ぬから、後は好きにしろ」


 マルグリットが泣きながら退室した後、最後の大物が控えていた。


 王太子殿下。


 国の恥さらしの頂点だ。


「殿下」


 慇懃に頭を下げる。


 形だけだが。


「宰相、聞いているだろう? 私は真実の愛を見つけたのだ」


 二十五歳にもなって、まだ夢を見ている。


「存じております。隣国王女の侍女という、実に独創的な選択ですな」


 皮肉に気づかない王太子は、嬉しそうに頷いた。


「そうだろう? 彼女は本当に素晴らしい」


「ええ、素晴らしいでしょうね。王太子という肩書きに釣られる女は皆、演技が上手い」


「何だと?」


 ようやく侮辱に気づいたらしい。


「失礼。つい本音が」


 私は咳払いをした。


「殿下、一つ質問があります。その侍女と結婚した後、隣国との戦争になった場合、彼女はどちらの味方をすると思いますか?」


「もちろん私の——」


「本当に? 生まれ育った祖国と、股を開いた相手の国。普通はどちらを選ぶでしょうね」


 王太子の顔が青ざめた。


「まさか彼女がスパイだと?」


「さあ、どうでしょう。ただ偶然にしては出来すぎていますな。隣国王女の侍女がたまたま王太子と恋に落ちる」


 私は肩をすくめた。


「まあ、殿下の精液には国を売るほどの価値があると信じるなら、どうぞご自由に」


「宰相! 言葉が過ぎるぞ!」


「これは失礼。ただ、事実を述べただけです」


 私は一礼した。


「ちなみに、隣国はすでに軍を国境に集結させています。王女への侮辱を理由に」


「な……」


「ご安心を。すでに対策は打ってあります。殿下には別の隣国の王女を娶っていただきます。三日後に式です」


「待て! 私の意思は——」


「殿下の意思? ああ、股間の意思ですね。申し訳ありませんが、国家の意思の方が優先です」


 王太子は怒りで震えていた。


「これは命令か?」


「いいえ、提案です。従わない場合は、不幸な事故が起きるかもしれませんが」


 沈黙が流れた。


「……分かった」


「賢明なご判断です。なお、件の侍女は既に国外退去させました。追わないことをお勧めします」


 王太子が憤然と退室した後、私は椅子に深く腰を下ろした。


 一日で四匹の猿を調教した。


 疲れる。


 だが、これで当面の危機は去った。


 窓の外を見ると、夕日が沈みかけていた。


 今日も一日、猿山の管理で終わった。


 明日もきっと同じような一日だろう。


 この国の貴族たちが人間に進化するまで、私の戦いは続く。


 永遠に続くかもしれないが。


 ◆◆◆


 なぜ貴族たちは、エルンストの痛烈な侮辱に反論できないのか。


 それは恐怖でも弱みを握られているからでもない。


 もっと単純で、もっと情けない理由だった。


 彼らは知っているのだ。


 どんなに馬鹿な真似をしても、エルンストが何とかしてくれることを。


 レオンハルトは説教の後、心のどこかで安心していた。


「宰相がいる。彼なら上手く収めてくれる」


 事実、エルンストは新しい縁談を用意しローゼンタール家との関係も修復してみせた。


 いつものように。


 マルグリット嬢も同じだ。


 何度婚約破棄を繰り返しても、エルンストが次の相手を見つけてくれる。


 まるで親が尻拭いをしてくれることを知っている、甘やかされた子供のように。


 王太子に至っては最も甘えている。


「宰相なら隣国との戦争も回避してくれるだろう」


 そんな事を思っている。


 そしてその通り、エルンストは一晩で危機を収拾してみせた。


 この甘えの構造は十年前から始まっていた。


 エルンストが財政を立て直し、軍制を改革し、外交を安定させる。


 その間、貴族たちは何をしていたか。


 恋愛遊戯に興じていただけだ。


「難しいことは宰相に任せておけばいい」


「我々は貴族らしく振る舞えばいい」


 そんな考えがいつしか当たり前になった。


 だから彼らはエルンストにどんなに侮辱されても反論しない。


「精液脳」と言われても、「発情期の雌猫」と罵られても。


 なぜならその侮辱の後には必ず、問題を解決してくれるエルンストがいるからだ。


 まるで、叱られることで罪が許される子供のように。


 貴族たちの中には、密かにこう思っている者さえいた。


「宰相に叱られたから、もう大丈夫だ」


「あれだけ怒っていたから、きっと良い解決策を考えてくれる」


 醜悪な依存関係。


 それをエルンストも理解していた。


 だからこそ彼の侮辱はより辛辣になる。


 甘えきった子供たちへの絶望的な怒りを込めて。


 そして最も皮肉なのはこの関係を断ち切れないことだ。


 エルンストが「もう知らん」と放り出せば、国は崩壊する。


 だが彼の責任感がそれを許さない。


 貴族たちもまたエルンストなしでは生きられない。


 共依存の泥沼。


 それがこの王国の真実だった。


 だから今日も貴族たちは失敗する。


 そしてエルンストに罵倒される。


 でも大丈夫。


 宰相が何とかしてくれる。


 いつものように。


 この歪んだ信頼関係こそが、王国を辛うじて維持している唯一の接着剤だった。


 地獄である。


 この国は地獄の王国なのだ。


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