「あのさ~渡」
兄の呼びかけを無視し、川瀬は木の前に立っていた。あたりを素早くうかがうと、するすると登りだす。後ろで拓真が「はあ」とため息をつくのが聞こえたが、それどころではない。あらかたの高さまで登ると、スマホを取り出した。着信を鳴らすと、木の枝につかまる。
「あのさあ?渡」
「うるさい、どこかに行け」
「あのねえ!?俺はいちおう、この件の『協力者』なんだけどなあ!」
その言葉に、ぐっと詰まる。苦虫を噛み潰したような顔になり、……それでも、川瀬は同じ言葉を口にした。
「日葵が来る。頼む、兄貴」
「渡――いつまで続けんの?こんなこと」
拓真の声が、本気で心配のにじんだものになる。見上げている兄の目は、なんとも言えない、焦った目をしていた。
「何度も言うけど。こんな大嘘、はやく撤回した方がいい。黙ってるほど、傷が深くなるやつじゃんか」
「……兄貴だって、協力しただろ」
「そうだけど!だから言ってんじゃんか」
頭をがしがしとかいて「あ~もう」と拓真が弱り切った声をあげる。
「あの時は、ちょっとしたフォローの気持ちだったんだって!お前のドジかばうっていうか」
「うるさい!」
ぎゅっと枝にしがみついて、川瀬は叫んだ。
そうだ。大嘘だ。――ときどき空を飛んでしまうなんて。
はじめは、本当にただ、自分のドジを隠したかっただけだった。
ベランダから、木に引っかかったテストを横着して取ろうとして、落ちた。そうしたら、かろうじて枝にぶら下がっている自分を、日葵が見つけて助けてくれたのだ。
「どうしたの」と尋ねられ、ドジな理由で落ちたって知られたくなくて、咄嗟に嘘をついてしまった。
ついてから、とんでもない嘘だと気づいたが、動転していた。それに、まさか、日葵が信じてくれるとは思わなかったのだ。ましてまして、ずっと協力してくれるなんて。
それからは、頭のいい拓真を巻き込んで、なんとかその嘘を本当にする日々だった。とりあえず理屈をつけて、出まかせの論文を書いてもらったり、機会をみて木に登ってSOSを送ってみたり。
本当に、最初は、ドジがばれたくなかったし、こんな嘘をついたこともばれたくなかった。
けど。
『川瀬くん、大丈夫だよ』
一生懸命、自分を呼んで、助けてくれた日葵。落ち着くと言えば、ずっと手をつないで歩いてくれた。日葵のやわらかで、まぶしい笑顔が、川瀬の脳裏によみがえる。ぎしぎしと枝がきしむほど、抱きしめた。川瀬の顔に苦悩の色が満ちる。
「この日々を、手放したくない」
「渡」
「ばれたら、絶対、嫌われる。それだけはいやだ」
だって、ずっと自分は日葵と仲良くなりたかった。ふわふわして、見ていて和む日葵が、同じクラスになったときから、気になっていた。だから、日葵にとっての自分の第一印象が、「馬鹿なやつ」ってなりたくなくて、必死だったのだ。
「なら、もうそう告白しちゃえって。全部言っちゃってさあ」
「そんな簡単なものじゃない!」
兄の言葉に、かぶりを振る。自分が、どれだけひどいことをしているか、わかっているつもりだ。
けれど。日葵には死ぬほど申し訳ないけど、けど。
「絶対に、いやだ!日葵と離れたくない!」
今、川瀬はすごく幸せなのだ。どうしようもなかった。
「渡~……」
「本当にどこか行ってくれ。日葵が来てしまう」
兄は、途方に暮れた顔で、それでも意をくんでどこかへ消えてくれた。安堵して、川瀬は体勢を整えなおす。
「ごめん、日葵」
正当化なんてできないと、兄に何度も言われるけど。自分だって、そんなことはわかっているけど。
「――川瀬くん!」
脚立をかついだ日葵が、こちらにかけよってくる。脚立の重みにふられて、ちょっと不安定な足取りは、それでも芯をもって、まっすぐ自分に向かってくる。
こんな奇跡ってあるだろうか?
「待ってて!すぐ助けるから!」
澄んだ声が、自分にひたむきに向かうのを、止めることができない。わかってる。これは、深手なんだ。自分だけじゃなくて、日葵にとって。いや、むしろ、日葵にとっての方が大きい。
けど、でも、だから。
「大丈夫だよ、安心して」
こうして、のばされた手を、とらずにはいられない。だって、だって――。
◇
好きなんだ。
「よかったあ、間に合って」
にこにこと、見上げる笑顔がまぶしい。つないだ手が熱い。
「ありがとう、日葵」
ごめん。でも、きっと、やめられない。
これからも、こうしてずっと、日葵の傍にいたいから。
願いをこめて――川瀬はぎゅっと、日葵の手を強く握った。
了