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嘘つき夫婦
嘘つき夫婦
仁矢田美弥
恋愛現代恋愛
2025年06月16日
公開日
3.1万字
連載中
私と祥太はお互いの「自由」を求めて「夫婦」になっただけ。 「夫婦」という縛りがお互いを自由にすると信じて。 これは「嘘」なのか? でもお互いがその「嘘」を信じているのに? ありうるような夫婦の絆を描きます。 三船綾香 32歳 三船翔太 31歳 私たちは出会って一週間でスピード婚をした。 お互いに一目で分かったから。 私たちは同類だって。 生きる上での面倒くささにうんざりしているんだと。 私たちにはタブーはない。 お互いを本当に愛するということ以外は。

早春の朝①

 東京の郊外に住む私たちは、この季節はまだ、日の出の前に布団から出なければならない。ダブルベッドに一緒に寝ている私たちは、お互いのスマホがそれぞれのアラーム音楽を喚きたてはじめると、枕の下やら宮に置いたスマホスタンドやらにそれぞれに手を伸ばし、音を止めようとうごめく。

 枕の下にスマホを入れている翔太はごろりと身を回転させ、他方スマホスタンドに置いている私はスマホを取ろうとして弾き飛ばしてしまう。私のスマホはベッドの下の床の上でまだ鳴り続けている。仕方なく私は半身をベッドから出して床まで腕を伸ばす。軽く肩がきしんだ。

 ようやくスマホを拾って、私は「スヌーズ」ではなく「ストップ」をタップする。そうして布団から体を剥ぎ取る。傍らに横向きに目をつぶったままの翔太はスマホを止めるのさえ諦めてまた眠りに入ろうとしていた。

 うるさい。私は翔太のスマホを止めると、翔太自身は放っておいて、ベッドから降りた。

 寒い。凍り付くような寒さだ。ここしばらく寒波が列島を覆っているらしく、東京は雪は降らない代わりに風ばかりが吹いて冷え込みが厳しい。私はさっそくハロゲンストーブをオンにする。

 それから一階におりてテーブルの上に夕べのうちに用意しておいたご飯を電子レンジに突っ込み、片方でコーヒーメイカーでコーヒーを淹れる。

 ご飯にコーヒーというのが毎朝の定番。おかずは夕べの残りとか、納豆とか。本当は朝ご飯など食べたくもないが、そうすると午前中の勤務時にやたらいらいらしてしまうので仕方なく食べる。

 今朝はたくあんでご飯を食べた後、ホットコーヒーに牛乳を入れた。その頃ようやく翔太が二階から降りてきた。

「俺、アラームかけ忘れたっけ」

「鳴ってたよ、かなり長く。うるさいから私が止めた」

「あっそう。サンキュ」

 そういいながら翔太はキッチンを通り抜けて洗面台の方に向かった。

「お先に」

 翔太がまだ洗面台の前でヒゲを剃っている背中に声をかけ、私はコートを羽織った。カバンを持って玄関口への廊下に出る。私たちは家賃を折半してマンションを借りている。二部屋プラスキッチン、トイレ・バス別、築十年以内で、この地域の相場よりやや高い家賃。私も翔太も働いているから、なかなか快適な住まいを手に入れられた。メゾネットタイプなので心も生活もゆとりが持てる。このエリアを担当する不動産屋に二人で行って、新婚の住まいを探しているといったらオススメされたのがこの物件。結婚て、何て便利なんだろう。

 結婚式はしていない。

 書類は翔太の兄貴と友人に証人になってもらって書いた。物件の契約ではなく、婚姻届のこと。この書類を市役所に出すだけで法的にも別格扱いされる。これは考えようによってはとてもおいしい話が多いと気づいたから結婚した。

 私たちが婚姻届を出したのは出会ってから一週間だった。初めて会って話をしたときに、私と祥太はお互いをとても気に入った。同類の匂いを感じた。そこですぐに話をまとめてしまうという、ある種の先行きを考えない行動力さえ同じだったから、あとはすんなりと話は進んだ。

「いってらっしゃい、綾香」

 翔太の声が聞こえた。私は玄関の鍵をひねってドアを開ける。

 東向きの玄関ドアを開けると、ちょうど薄っすらとした白い雲の向こうに日が昇るところだった。透明感のある朱色の光が美しかった。周りに高い建物はさほどない地域なので、空が大きく拓けていた。

 こんなに清々しいものだったのだ。結婚とは。

 翔太は正社員だが、コロナの流行以来リモートワークが週に三、四日は入る。それでも今日は出勤日のはずだから、急がないと遅刻すれすれになるな、などと考えながら私は私の職場に向かう。私は飯田橋で派遣社員で働いている。翔太は新宿のWebデザインの会社。お互いの利便性を考えて、西武新宿線沿線にマンションを借りた。私は高田馬場駅で地下鉄東西線に乗り換え飯田橋駅に向かう。翔太は西武新宿駅までまっすぐに乗っていく。距離と時間が違うから一緒に出勤することはない。

 結婚して一緒に暮らし始めてまだ一カ月だが、さすがに長くつき合ってきたわけでもない翔太のペースはまだ掴みかねていた。ただ、そうしたいとも思っていない。翔太も私がどういう日常を過ごそうが無関心なはずだ。

 電車は急行はわざと避けて各停に乗る。この時間なら確実に座れるからだ。座席を確保すると私はすぐにカバンを開けて文庫本を取りだす。電車に乗っている間がいちばん落ち着く読書時間だ。これが中央線などではとても無理。たとえ座れたとしても隙間もない車内でおちおち本も読んでいられない。以前は中央線沿線の武蔵境に住んでいたけれど、結婚を機に西武新宿線のほうにマンションを借りようと希望したのは私。翔太は三鷹に住んでいたけれど、すんなり了承してくれた。話が早いことが多く、翔太とは細かな相性がいいのだろうなと感じている。我ながら最高の「夫」を手に入れたものだ。

 職場の暗証キーを押して構内に入り、まっすぐに更衣室に向かう。私はわりと早めに来る方で、まだ更衣室には人がいなかった。図書館の本棚のように灰色の細長いロッカーが縦横に立ち並んで、それで広い更衣室が区切られている。

 私はさっさと制服に着替えて私服とコートをロッカー内にかけた。更衣室の一角に設えられた流しで目の前の大きな鏡を見ながらメイクの崩れをチェックする。しっかりしたメイクは面倒なのでしないが、塗りムラなどはさすがに恥ずかしいのでもう一度パウダーだけはたいた。そのうえでピンク系統の口紅を塗りなおす。派手過ぎるのは敬遠される職場だ。何よりナチュラルに落ち着いているのがやはりよいらしい。

 この職場はそろそろ三年目。好きな職種ではないので、違う仕事を探してみたくなる。

「おはようございます。三船さん」

 声をかけてきたのは二十代半ばの同じ派遣社員、田中理来だった。みるからに明るくて人好きのする感じの女の子だ。

「おはよう」

「あの、訊こう訊こうと思ってたんですけど。式っていつ頃挙げるんですか」

 一瞬何を言われているのか分からなかった。

「結婚式ですよ。今は仕事で長期休暇取れないから後にしたんですよね。有給でまとまったお休み取れたら、式挙げて新婚旅行行くんですよね」

「あ、いや考えてないな」

 そう答えると理来はちょっと驚きを隠せないようだった。

 そこへ、ついさっき更衣室に入ってきた、この道二十年のベテラン派遣社員、野際さんが口を出す。

「綾香さん、え、結婚式も新婚旅行もしないつもり? それは悪い事言わないからやっといた方がいいよ。後あと思い出になるし」

 私はそんな思い出など求めてはいなかったが、わざわざ異論をはさむほどのことでもないので適当に答えた。

「そういうものでしょうか。まあ生活が落ちついたら考えてみます」

 そして田中理来の方を見る。

「あ、式やったら理来ちゃんもご招待していい? 着物とかで来るといいよ。理来ちゃん、大正レトロとか似合いそう。レンタルしちゃうといいんだよ。きっと似合うよ」

 理来は小柄でなで肩で童顔。実際に似合うだろうと空想した。

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