理来はまんざらでもなさそうな様子で「えー、そうですかぁ」と両手で頬を押さえた。大正レトロの着物を着た自分を想像しているらしい。若くて、かわいらしい子だ。
もうすぐ三十二歳になる私からすると、二十代前半の女の子はかわいらしいとしか思えない存在。この私自身は二十歳前後の頃はまったくかわいげのない時代を送ってはいたが。
「なんかさ、この職場に来る途中のビルに、レンタル着物の店もあるんだよ。今度行ってみようか」
式を挙げる気もないくせに私の方が盛り上がりかけてきて、はっとして口をつぐむ。でもここからなら、小石川後楽園も近いし、着物を着せてこの子を連れていったら楽しいだろうな、などと空想する。ちょうど、梅が咲く季節だ。一人でも一度行ってみようか。
そのうちに更衣室は人でいっぱいになり、私ももう一度制服を引っ張って形を整え、一階のロビーに降りて行った。
派遣社員をしているのは、会社勤めが苦手だからだ。分かってる。「自分は勤めとかふつうの会社員向きじゃない」なんて言っている輩は、自分を大きく見せたいだけの勘違い野郎が多いっていうことは。
とは言っても、やはり私は最初の会社で挫折してしまった。
仕事自体の厳しさなら大したことはないし、大概がこなせる。でもどうにも面倒くさいのが「人間」。なぜ、会社というところはああも無意味な人間関係を重視するのか。飲み会も誘われればいくけれど、あまりの不毛さで酔いではなく腹痛になった。酒自体は私は強いほうなので、よけいにきついのだ。いくら飲んでもほぼ素面でつまらない話を延々と聞かされる。
会社員という種族とつき合わざるを得ない苦痛を考えて、私は収入はぎりぎりでいいから、無駄な付き合いをしないで済む派遣社員に切り替えた。もちろん仕事は仕事だから責任感は持って臨むが、仕事ではなるべく頭は使いたくない。不毛すぎる。
派遣はそれなりの仕事を任されるが、営業などはせずともよいので助かるのだった。会社の古臭い社風や奇妙な慣行にもなるべく触れずに日々をやり過ごすことができた。
いつまでも続けるつもりもないが、当面はこの線でいこうとこのとき思った。
その日もルーティン的に時間をやり過ごして職場を出た。もちろんそれなりの緊張はあるのだけれど、三年もやっていれば余裕も生まれる。
帰りは交差点まで野際さんと歩いて、彼女は角の地下鉄の駅に降りて行った。私はまっすぐ帰ろうかと思ってから思い直し、近くのコンビニの二階にある、ビールも飲めるスペースに立ち寄ることにした。私は喫煙者だ。ビールもいいが、何より一服したくなったのだ。仕事中は吸わないでいられるが、終わった後は無性に吸いたくなる時がある。翔太は吸わないが、家で吸うことに文句は言わない。それでも、非喫煙者の前で遠慮なくもくもくと紫煙を吐くのは申し訳ない気がしていた。
細い階段で二階の喫煙・喫茶・ビアのスペースに行く。チェーン店のカフェと同じように小さな机が並び、PCも自由に使えるようになっている。私は喫煙スペースに行って、席を確保し、カバンから小型のPCを取りだした。
私は物書きの仕事もしている。だから派遣の仕事であまり頭は使いたくないのだ。
小説執筆サイトを開く。私の使っているサイトはやや特殊だ。R-18指定のみ。古めかしく言えば官能小説といったところか。エロという言い方は自分の実感にそぐわない。サイトは他にBL系の作品も多いが、私はそちらではない。
私は想像の翼をはばたかせて、好きなように書く。
なぜなら、実体験がないからだ。そう、私はいわゆるアセクシュアルなのである。だから祥太とも出会ってから一度も体を合わせたことはない。翔太とだけではない。誰ともしたことがないのだ。若い頃は無理をして、告白されてつき合っていた彼氏の欲求を満たそうとした。でもダメだった。自分にはできない。欲望もない。だから自分から正直に話して別れてもらった。彼は優しい人だった。今頃どうしているだろう。もう父親になっている年代だろうか。
経験がないのに、書くのは大好きで、そのためにはもちろんたくさんの小説や映画を見て勉強して書いている。案外そういう私の作風を好む人もいるようで、有料設定にしているにもかかわらず、公開すると必ず読みにくる人たちがいる。私のささやかな副業だ。
家で書くことも多いのだが、精神が上向いているときに書きたいのでPCはほぼ常に持ち歩いている。そして今のように、書きたくなったらすぐに書くようにしている。
私はエロが分からないから無表情で、書いていても周囲の人は私が何を書いているかなど想像もつかないに違いない。会社のレポートでも書いていると思っているのではないだろうか。そのくらいの顔色で過激な言葉を書き連ねている。
私はプラスチックコップのビールを一口飲んだ。
私は初稿はすらすらと書いてしまうほうだ。そのうえで推敲をみっちりとする。今書きたいシーンを息を詰めて夢中で書いたあと、ビールを味わいながらこの先の展開を考える。至福の時間だ。外の寒さに比して店内は暖房が効きすぎているくらい。だからビールが美味しい。ふと周囲を見ると、大体の人が本を読んでいたり私のようにPCを開けたり、タブレットやスマホをいじったりしている。飲み屋ではなく実用第一義のこういう場所なので、女性より男性が多いようだ。街の特殊性か、きちんとしたスーツにコートの人が多い。コートは足元の網かごに入れている。誰もが難しい顔をしている。会社員などしがらみだらけだ。それともそれぞれの会社組織の中で適応するのに必死なのだろうか。私は正社員としての勤めの経験はあまりないが、あまりにも会社の方針通りに自分を合わせていこうとする人たちを見てがっかりし、このままこの場所で生きていくことに絶望を覚えた。
むしろアルバイトや派遣の人たちのほうが仲が良かった。多分、私は正社員に向いていない。今思えば、高校までの学校生活は、こういう”社会”ないし”会社”に適応するための訓練だった。校則をはじめことごとくそれらに反感を持ってきた私には無理だし息苦しさしかない日々だった。世の中にはそれに疑問を持たない人たちもいるのが信じられない。いやむしろ、そのほうが多数派か。
集中力が下がっている。そう自覚したちょうどその時、スマホが鳴った。開くと翔太からのLINEだった。
「俺、今日まっすぐ帰るわ、飯作るから一緒に食わない?」
私はPCの画面をちらりと見てから返信した。もう山場は過ぎている。
「OK。じゃあ私も今から帰る。今飯田橋。すぐ行くね」
翔太は気が向いたときには自分で夕飯をつくる。翔太も私も料理はする。特に役割分担を決めているわけではない。だが、リモートワークが多い翔太のほうが比較的回数は多いだろう。
時には作り置きをしてそのまま彼女のところに出かけてしまうことさえある。翔太にはつき合っている彼女がいた。私は顔を見たことはないが、山本美愛という名前の、学生時代の知り合いらしい。最近街で偶然出会って付き合いだしたと言っていた。翔太はアセクシュアルではない。ふつうに男性の欲望もあるが、それは他で満たしてくれるので安心だ。
PCをしまいながら私は考えた。ここまで書いた分を翔太に読んでもらおう。男性としての感想を聞きたい。こういうことを気軽にできるのも、この結婚のいい点だった。