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早春の朝③

 家の最寄り駅で降りる。今夜は翔太が夕飯を作ってくれるので、店には寄らずにまっすぐ家路につく。正面に満月が見えた。黄色く張り付いたような大きな月。いつものことだが、この世のものではないような気がする。この地球上の一地点と、遠く離れた別の天体との距離を測る。測りようがないが、気持ちがそう動く。ただそれだけでとても不思議な気分になるのだった。

 ドアを開けて三和土に入ると、やや甘いよい匂いがした。

「シチュー?」

 靴を脱ぎながら声を掛ける。

「いや、ロールキャベツ。クリーム煮。似たようなもんか」

「いやすごいよ。ルーのシチューより断然手が混んでるじゃない。ほんと、翔太ってマメね」

「一人暮らしのときは適当だったんだけど、綾香に食べさせると思うとけっこう工夫したくなって」

「あはは、そうなんだ」

 私は二階に上がって、コートを脱いでハンガーにかけ、スカートもカーディガンもブラウスも脱ぎ捨てた。部屋着になると脱ぎ捨てた衣類を抱えてまた階下に降りる。バスとトイレの間のスペースにある洗濯機にどさりとそれらを投げ入れた。

「もう準備いい?」

 私が階下に降りると、翔太が深皿をとっておたまをこちらに向けて聞いた。

「うん。私ご飯よそうね」

 一階の食卓の上はロールキャベツとご飯茶碗が並ぶ。翔太は冷蔵庫から缶ビールを二本出した。

「あ、私は要らない。ちょっと飲んできたし。この後も書きたいから」

「そお?」

 少し物足らなそうにいいながら翔太は一本を冷蔵庫に戻す。

「いただきます」

 私たちは並んで箸をとった。

「うん。おいしい。体があったまる」

「そう? がんばった甲斐あったかな」

 翔太はうれしそうだ。こういうちょっとしたひとときが仕事の疲れを癒すことがあるのだと、私は翔太と暮らし始めてから初めて知った。大学への進学で上京し、その後社会人になってからもずっと一人暮らしだったので、知らなかった。

「翔太、今夜は出かけなくていいの」

 美愛のことだ。

「まあ、向こうも週半ばで余裕ないだろうしね」

「まあね」

 ロールキャベツのクリーム煮を美味しくいただいたあと、私は自分用にホットコーヒーを淹れた。翔太はまだ缶ビールを手にしている。

「あのさ、綾香」

「何」

「結婚のこと、ご家族に言わなくてほんとにいいの」

「必要ない」

「そんなもん?」

「うん、そんなもん」

 翔太はそれきり黙った。私は結婚のことは実家の両親にも妹にも言っていない。必要性を感じないからだ。

「まあ、俺は綾香がいいというならいいけどね」

 翔太のそういうところが好きだ。一緒に暮らしていて負担にならない。今朝の更衣室での派遣仲間との会話を思い出した。ふつうの人はああいう感覚なのだろうか。でも、結婚は個人と個人の意思の問題ではないか。式をする必要も、ましてや親きょうだいに話す必要も私は感じなかった。

 食事をつくるのはお互い都合のいいほうがやることにしていたが、食器洗いは翔太が引き受けてくれた。食器洗いをせずに済むのは私にとってはものすごく楽に感じる。その代わり風呂掃除と洗濯は私がやっていた。特に取り決めていたわけではないが、何となくそうなっていた。

 私は食後の一本に火をつけて、皿を洗っている翔太に声をかけた。

「あのさ、続き書いたから後で読んでもらえる?」

 もちろん官能小説の続きだ。

「ああ、うん。いいよ。いつまで?」

「明日の夜まででいい」

「なら大丈夫。でもさ、よく書けるよな」

「うん?」

「経験ないのに」

「うん」

 私は紫煙を吐きだす。ゆらゆらと横にたなびきながら消えていく煙。

「研究はしているから」

「綾香ぐらい文章書けるんなら、他のふつうの小説でもいいんじゃない」

「いや、それじゃお金にならないよ。まあ、ふつうのサイトを使ってふつうの小説書いて、読んでもらえればいいというのならそれでもいいんだけど」

「だって小説書くのが好きなんでしょ。何でそんなにお金にこだわるの。こう言っちゃなんだけど、有料設定っていっても大した収入じゃないんでしょ」

「まあね、でもお金出しても読みたいって思ってもらうのも格別というか」

「読みたいって、綾香の文章を、というよりエロを読みたいんじゃ」

「官能! エロと官能は違うから」

「そう?」

 釈然としない顔をしながらも今日はやけに翔太は食い下がる。

「俺、小説のことは詳しくないけど、綾香の文章読みやすくて面白いよ。公募とかも出せばいいのに」

「そんな甘くないし。私は無理なことはしない主義なの」

「ふうん」

 私は翔太にも少し嘘を吐いている。本当は公募用の小説も書いている。でも、それは翔太にだけは読んで欲しくないのだ。今以上に私という人間に深入りされたくはないから。今の関係が楽で楽しいから、このまま続けたい。それが身勝手な私の希望だった。

 翔太は早めにベッドに入り、私は二階でPCを開いた。

 夜間の執筆は筆が進む。かつ、この時間は翔太には読んでほしくない作品を書く。執筆アプリを使って、公開もしない作品だ。秘かに秋の公募に出したいと考えている。

 前回書いたところまで全部を読み直す。細かな日本語の間違いや流れがよくないところを見つけては直していく。そうしながら、自分で自分の世界に入っていく。

 書こうとしている内容はかなり重くて暗いほうなのに、翔太と結婚してから筆が進むようになった。自分でもそのことに驚いている。本当にきついときは何がきついのかに気づかないように、小説を書くときも、渦中にあるときは難しいのかもしれない。

 翔太というパートナーを得て、私は生きるのがとても楽になった。まだ一カ月と少しだけれど、それ自体が信じられないくらい、翔太とは波長が合う。こんなことは人生で初めてだった。

 本当に得難いものを得たというのが本音である。

 自分の口元が微笑んでいることに気づいた。これも今まで滅多に体験しなかったことだ。以前の私は、無意識に歯を食いしばっていた。歯の付け根のあたりに隙間が空いてしまって、虫歯になってしまったと思い歯科を訪ねたが、そこで言われたのは「嚙む力が強すぎる」ということだった。『歯を食いしばる癖を止めれば自然に治りますよ』。その通りだった。今は歯茎と歯の間の隙間はきれいに埋まった。やはり専門家の話は聞いてみるものだ、と思うと同時に、それほどまで噛みしめていたことにようやくにして気がついた。

 私のこれまでの人生は、歯を嚙みしめるのが当たり前だったということの異常さにも──。

 私は執筆アプリで作品を確認し、プロットメモ欄をクリックする。「両親のセックス」。メモ欄にそう書いてあるのを見て、驚いた。いつこんなことを書いたのだろう。

 見なかったことにして、さっとその文言を削除した。

 翔太の微かな寝息が聞こえはじめた。眠りについたらしい。

 私は自分の睡眠を操れないので、睡眠導入剤を常用している。その薬が欲しくてクリニックに通っている。深く眠れるようになったから、少しは人生を楽しめるようになった。また、運気がまわったのか、翔太のようなかけがえのない存在とも巡り合えた。以前は悪夢をみるので眠るのが怖かったが、今はかなりセーブできている。薬と祥太のおかげだ。

 気を取り直してプロットメモ欄を見つめる。私は綿密なプロットを書くのが苦手だ。アイディアをいろいろに書き出すにとどまっている。本当の物書きになりたいのなら、やはり作品の設計図は必要だと思っているにもかかわらず。文学のレトリックやさまざまな技法は感性だけでは無理だと、執筆歴五年で実感している。

 本当に書きたいものを余すことなく書くためには──。

 官能小説は、文章を書きつづけるための一つの手段という一面もある。翔太が不思議がっていたように、わずかばかりの収入だけが目的ではないのだ。そして、なぜ官能小説なのかというと、それが本当の自分からもっとも遠いものだからだ。だから、遠慮なく書ける。それが楽しい。

 肘をついてしばしとりとめもない夢想の領域に入る。イメージなどない。ただ、気分があるだけだ。今夜の調子は悪くない。もうひと踏ん張りしよう、と思う。

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