玄関のドアを思い切り開けて、力まかせに閉めようとした。実際にはそんなに安普請のドアではないのでゆっくりと閉まろうとするのをもどかしく押して。
「おかえり」
翔太が二階から降りてくる気配がした。翔太は案外律儀で、自分が先に帰っているときや、リモートワークで家にいた時にも、私の帰宅時には出迎えに降りてきてくれる。こういうささやかなことが心を温める。
しかしこの日、私は憤りでひどい形相になっていたようだ。翔太が尋ねる。
「何かあったの?」
言われるまでもなく、私はこの怒りを誰かに話したくてしようがなく、ざわつく心を押さえつけながら帰りの電車に揺られてきた。今日ばかりは各停しか停まらない駅であることがもどかしかった。
「うちの職場の派遣の子が辞めちゃうって」
鼻息荒くぶちまける。
「辞めるって」
「実質辞めさせられたの。あの子……」
田中理来のことだ。今日彼女から今月中に辞めます、と打ち明けられて本当に驚いた。彼女は泣きそうな目をしていたが、顔は笑っていた。いつも明るく屈託がない子だと見ていた私は、気づいていなかった彼女の裏の表情を知った。
「何で? あんなにがんばっていたのに」
本心だった。彼女は器用ではなかったが、仕事には真摯に向き合っていた。分厚いノートいっぱいにメモを残しながら。
「向いてないんだと思ったんです」
本心ではない。そう思ったけれど、彼女がそう自分自身にも言い聞かせようとしているのが痛いほどに伝わって、言葉が出なかった。でも、私は彼女に辞めて欲しくない。それが本当の思いなのに、うまく言えそうになくて、
「まあ、派遣だから、向いてないと思ったら辞めるのもありだよね」
と、つい言ってしまった。
失敗だった。彼女の目に涙が浮かぶのが見えたから。
「で、実際には何で辞めるのかな」
翔太は冷静に、でも心配りしながら私を促す。
「派遣元からさんざん酷いこと言われたらしい。でも元を質せばあの職場の人間、ていうか、正社員が誹謗したんだよ、彼女のこと」
「そういう子なの」
「私から見たら、素直で一生懸命なかわいい子だった。でもさ、やっぱり派遣て弱い立場だよね。どんな理不尽でも、派遣先で誰かに睨まれたら、反論の余地さえない」
翔太は少し考えてから、
「口添えはできないの」
「私だって所詮派遣……」
言いかけて、思いついた。
「あのさ、私今の仕事やめてもいいかな。すぐ再就職先探すから」
翔太は目を見開いて私を見る。こういう彼の目が私は好きだ。私が真剣にものをいうとき、彼は絶対にはぐらかしたりしない。受け止めてくれる。
「明日、抗議する。課長に談判する。で、まあ、クビになるだろうし、いやその前に派遣が物いうのは派遣元だって言われるだろうけど、そんなのかまわない。今回のことが全くの意地の悪さから来たことだって、一言突きつけなきゃ気が済まないから」
翔太はまた少し考えていた。
「ダメ? 私まだ貯金あるよ。職探しもすぐにするから」
「いや、そんなことどうでもいいよ。恥ずかしながら俺だってまあまあちゃんと収入はあるから」
そう区切って、
「綾香がそうしたいんならすればいいと俺は思う。ただ、綾香はそうやって傷つくかもしれない」
「慣れてるから」
切って捨てるような言い方になった。腹の底でうずくものがぐっとせり上がってきた。
「もう、慣れっこになってるから」
「そう」
翔太はそれ以上は深く聞かなかった。私はもう明日どうやって課長をつかまえて切り出すかを算段しはじめた。
翌朝は、仕事に行くというより課長と直談判するということで頭がいっぱいになりながら職場に向かった。いつもは長く感じる電車の時間があっという間だった。
こういう時、案外すぐにその機は巡ってくる。朝の段階で、更衣室のある二階への階段を大股で昇っている時に、踊り場でちょうど降りてくる課長と出くわした。
「おはよう」
前を向いたままそう言ってすれ違っていこうとする課長の背中に声をかけた。
「課長。ちょっとお話したいことが」
つい上擦ってしまった声が恨めしかった。
課長は少しおどけたような表情をして振りかえった。
「え、何」
私より少し年長くらい。こんな会社で必死に昇進コースに乗るためにあくせくしている男の顔だと、その表情を見て思った。私がいちばん嫌悪する類の……。
「派遣仲間の田中さんのことなんですが。田中理来さんの」
課長は表情をほとんど変えはしなかったが、眉根が少し寄ったことに私は気がついた。
「田中さんが何か?」
「辞めると聞いたんです」
「ああ、そういう希望を出してましたね」
「それ、彼女の本意じゃないはずです」
明らかに表情が変わった。面倒な奴だ、とでも言いたげな表情。はっきりとその本心は感じとったが、私はもう立ち止まれない。
「田中さんから聞きました。派遣先に酷い報告がされてるようです。たとえば......教えたことをメモもしないし覚えようともしていない、とか」
課長は無言だ。
「彼女の持ってる分厚いノートを見たことがありますか。必死に仕事を覚えようとして書いて、何度も読み直しているノートです」
「あの、そういうことは、三船さんには関係ないですよね。彼女は○○スタッフに雇用されているのだし、われわれの職場にたまたま来てもらっていたわけで」
「秋野さんは、田中さんを嫌ってました。だから嘘の報告を」
秋野さんというのは、いわば派遣社員たちを統括するようなポジションの女性社員だ。この人も私と同じくらいか、少し若い。私は気づいていた。彼女が田中理来に対して不当に物言いがきついことを。私から見たら、何がいったい気に食わないのか理解できなかった。他の派遣社員の仲間も、特に田中理来を嫌っているような様子はないのだ。
だが、私の思考はそこで止まった。課長が聞こえるか聞こえないくらいの声で「お前は」とつぶやいた。
「お前」。
この男の本音。でも、悪いけれど、私は誰にも「お前」呼ばわりされる覚えはない。私は心の中で舌打ちした。おそらく、ここで「秋野さん」を名指ししたことが許せなかったのだと思う。きっと、どういう立場でモノを言っているんだ、という気持ちなのだ。そう思ってつい我を忘れそうになったところへ、別の女性社員が降りてくるのが目に入った。彼女は「おはようございます」とにこやかに微笑んで見せた。課長はさっきまでの表情が嘘のように、「ああ、おはよう」と笑って応じた。その表情のまま、彼は私の方にまた顔を向け、
「すみませんが、三船さんは○○セントラルの人ですよね。田中さんは○○スタッフの人だし。ちょっとお門違いではないでしょうか」
すでに私には言葉がなかった。こうなることは分かっていた。私も、物の道理が分からないのではない。でも、どうしてもこうせずにはいられなかった。それだけだ。私が何を言っても無力だし、見下されて自分の身分を突きつけられるだけだ。
それでも、私はどうしても言わずにいられなかった。そして、あまりにも予想した通りの結果を得た。
ただのおせっかいだろうか、自己満足だろうか。
それでも、どうしてもこのままやり過ごすことはできなかったのだ。