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三寒四温②

 その日の仕事は我ながら凡ミスを繰り返した。そういう自分自身の心の弱さが嫌いだ。自分では冷静に受け止めているつもりだし、結果だって予想できていたのに、それでも自覚している以上に今朝のことが心を乱してしまっている。そして課長の発した「お前」という言葉が何度もよみがえり、いかにも面倒臭そうなあの表情が瞼に浮かぶ。

 勤務中何度か田中理来の方をうかがった。彼女は思ったよりすっきりとした顔つきをして仕事をしている。実は私一人が勝手に憤って、余計なことをしただけなのではないか。そういう不安が頭をもたげる。でも、仕方がないではないか。そうせずにはいられなかった。

 時間が来ると、私は早々に勤怠入力をして職場を出た。野際さんにも田中理来にも声をかけず、その場所から離れた。けっきょく私はただのおせっかい焼きの滑稽な存在のように思えてきていたたまれない。


 私は電車に揺られながら、自分の弱さを噛みしめていた。対外的に無力であるということと、精神的に動じやすく弱いということと。前者は分かってはいることだ。後者は、どうにもやりきれない。

 自宅マンションに帰った。中は暗く、翔太はまだ帰宅していないようだった。すぐに眠りにつこうかととも考えた。私には薬がある。その力で寝入ってしまうのがいちばんだと思われた。けれど、なぜだか眠るのが怖くて、私は自室の机に向かい、PCを開いた。

 こういう気分の時に、公募向けの本当の小説は書けそうもない。R-18サイト用の続きを書こうと思った。

 現実の足を踏んでいるところとはかけ離れた、私にとっては空想のものである、いわばファンタジーの世界。なぜ私の作品がそれなりに読まれているのか、本当はよく分からない。経験もなく欲求もないがゆえに好き勝手に書き連ねている描写。昔付き合っていた彼との体験だけが現実のよりどころだ。結局うまくいかずに別れてもらったあの人。私はそうならないけれど、本当は女性はこうなるはず、ということを調べて、丹念に、そして情感たっぷりに書く。イメージさえ浮かばないオーガズムを空疎な言葉を並べて描写する。

 でも、本当は見抜かれているのかもしれない。いや、そうに決まっている。本当は知らない女が書いている、そのことに興味を覚えて読んでいるだけに違いない。

 そこまで考えて、どっと疲労感がこみ上げてきた。それを振り切るために、私は検索を繰り返した。何かネタになるような面白い話題はないだろうか。

 公募用の本当の小説では、ネット記事からすぐに書いたりはしない。たとえきっかけはネット記事でも、きちんと原典に当たって調べる。いわゆるエビデンスを確保する。だって、大切なものだから、少しも穴を空けたくはないのだ。でも今は、自暴自棄に近い気分になっていた。自分をある意味突き落としたいような気分。久々によみがえったこの感覚。

 どのくらいそうやって時間を過ごしただろう。玄関の鍵が開けられる音がした。私ははっとしたが、翔太がいつもしてくれるように自分が翔太を出迎える気になれなかった。深く考えた訳ではない。心が重くて、今顔を合わせたくはなかったのだ。一階から翔太が昇ってくる気配がした。私はPCを閉じて、ぼんやりとスタンドライトの灯りを見ていた。

「あれ、やっぱ、綾香帰ってたよね。ご飯食べた? 俺今日は残業だから食べてくるって連絡したけど」

 机の上で充電していた白いスマホに目をやる。スマホはまったく確認していなかった。

「あ、見てない? 夕飯は」

「夕飯は大丈夫」

 私は嘘を言った。

「それよりさ、お願いがあるんだ。あのさ、体位の研究したいから付き合ってくれない」

 さすがの翔太もあんぐりと口を開けた。呆れているのだ。私も突飛なことを言っていることは分かっている。自分でもよく考えて言ったわけではない。さっきまでネット記事で検索して見ていたことが脳裡にあっただけだった。翔太は少し遠慮気味に声を低める。

「あの、研究って? 俺、何すればいい?」

「あ、簡単なことなの。そういう描写をしたいから、いちど自分もそういう体勢をやってみたくて。一人じゃできないから」

 翔太は思いがけず笑い出した。その声は予想と違ってあっけらかんと明るく、私は初めて息を吐けた。

「綾香の小説に必要なんだろ。いいよ。ベッドに行った方がいいかな」

「まあ、ここでもいいけど。本当にやる訳じゃないし」

「ええと、服は?」

「着てて!」

 翔太は苦笑してシャツの上の上着を脱いだ。私も身軽になる。

「どうすればいい?」

 カーペットの上に両足を広げて腕をついた翔太が尋ねた。私はA4版のコピー用紙を机の上からとる。

 ネットから拾ってダウンロードした体位の例が図で示されている。

「まあ、正常位から順番にやってもらえると助かる」

「オーライ」

 本当は愛撫したりキスをしたりしていくのだろう。でも私はそれはすっ飛ばして股を広げて膝を立て、寝っ転がった。

「こんな感じでいいのかな」

「いいんじゃない」

 笑いながら翔太は私の上に覆いかぶさる。急に怖くなったが、翔太がいつもと変わらない表情なので、腹を決めた。そもそも翔太とは、私の真実を打ち明けて結婚したのだ。無理強いはしないはず。

 一瞬の惑いを私は振り払った。

「これが正常位なのね」

 そういって私は早々と体を起こした。

「これで満足?」

「ううん。全部やってみる。次は後背位ね」

 今度は私が四つん這いになる。翔太が後ろから私の腰をつかんだ。

 私はひゃっと悲鳴を上げる。

「フリだけでしょ。しっかりしてよ、官能作家さん」

 翔太に励まされて私は気を強くした。


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