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三寒四温③

 全部で百近くもある体位を全部試してみるつもりだった。けれども、何だか途中で虚しくなったし、思ったよりも疲れてしまって、途中で私はカーペットの上で大の字になった。傍らに翔太も寝転がった。

「どうだった? 何かつかめた?」

「うん。……これ、裸でやるんだよね。よく恥ずかしくないね」

 私はレギンスのまま股を開いて見せた。

「まあ、ね」

 翔太の顔は見えない。私は天井を見上げていた。

「体操みたいだった。疲れた」

「そっか」

 私の心は相変らず荒んでいた。

「あのさぁ」

「何?」

「いっそ、強姦してくんない」

 翔太は黙っていた。あまりにも長く黙っているので、私は翔太のほうに初めて目をやった。翔太はずっと私を見ていた。目と目が合って、私は思わず「ひゃっ」と叫んでしまった。

「ここまでやったのに、その悲鳴はないんじゃない」

「ごめん」

「やっぱり、何かあったんでしょ」

「え」

 そうか。翔太は私以上に私のことを見通している。体位の研究は思い付きだったけれど、そうしたくなった私の精神の乱れを感じていたのだ。

「言いたくないなら、言わなくてもいいけどさ」

「ごめん」

 課長とのことも、田中理来のことも、自分のことも、今は話せない。本当に辛いことは口に出せないのだ。私は翔太がすぐに退いてくれたのがありがたかった。食い下がられたら、私はこれ以上翔太と一緒に暮らすのは無理だったかもしれない。

 逆に言えば、こういう人だと思ったから、翔太と迷いなく結婚したのだ。しばらくお互い沈黙したうえで、翔太が言った。

「綾香、夕飯はどうした?」

「食べてない」

「何かつくったろか」

「いいや、お茶づけでも食べる」

 実際に食欲はまったくなかった。

 田中理来の最後の出勤日。彼女は自分の仕事が終わると、ずっと足元に置いていた紙袋から菓子折りの箱を取り出し、そこにいる全員に配りはじめた。

「お世話になりました」

 小さな声と、それに応える「がんばってね」という類の声が聞こえてくる。私は広い事務室の出入り口付近でその様子を辛抱づよく眺め、彼女の用が終わるのを待ちつづけた。

 そうしてお菓子を配り終わると、彼女は自分の荷物を入れた手提げ袋をもってこちらのほうに来た。私は声を掛ける。

「全部捨てなきゃだめだよ。会社の守秘事項もあるから」

 彼女は頷く。

「そこの個人情報用の箱に全部つっ込んじゃいなさい」

 彼女の手からA4サイズの印刷物がどんどん箱に入れられていく。最後に彼女の大事なものだった分厚いノート。

「それも、捨てちゃって。きれいさっぱり」

 これで彼女がここに残すものはなくなった。

 用が済んだのを見届けて、私はもう一度声を掛ける。

「今日はこの後時間空いてる? 小石川後楽園行かない?」

 思いがけないことを言われたというふうに田中理来は目を瞠った。

「だって、田中さん、千葉から来てるんでしょ。もうこの辺りあんまり来ないだろうけど。いい庭園だし、梅も見頃だから」

 彼女は少し考えて頷いた。

 勤め先から十分ほど歩くと、入り口が見えた。お金を払って中に入る。もう明るいとは言えない時間だが、それでもいいと思った。田中理来とはこれっきりになる。少しだけ思い出を残したかった。

「私、こういうところ来るの初めて」

「ちょっと年寄りくさい趣味かな」

「何言ってるんですか、三船さんだって若いのに」

 そう言って彼女は少し笑顔になった。

 趣きのある庭園の道を進むと、急に拓けた場所に出た。大きな池が目の前に見えた。

「あれー、東京ドームのすぐ近くなんですね」

 彼女は池の情景よりもそちらに驚いて声を上げる。私は微笑んだ。

「そう。東京ドーム、行ったことある?」

「うふふ、推しのライブで何回か」

 私の知っていた屈託のない彼女の表情が見えた。

「もう時間遅いから、梅だけ見て帰ろう」

「はい」

 池の反対側が確か梅園だったはずだ。私と理来は周りの観賞は忘れて道を急ぐ。

 今日の天気がよくて良かった。夕焼けに映える梅の花たちが色とりどりのもやのように浮かび上がっていた。

「わあ、いい感じですね」

 彼女はスマホを取りだした。

「梅ってあんまりじっくり見たことなかったけど、かわいい」

「私は梅が昔から好きなの。匂いかいでごらん」

 下まで垂れている枝の花に理来は鼻を近づける。

「あ、ほんとだ。匂いもする。いい匂い」

「でしょ」

 天気はいいが、夕暮れ時。ひやりとした空気を思い切り吸いこむ。梅の香りを体内に入れるように。

「こんないい場所があったなんて知りませんでした。三船さん、ありがとうございます」

「うん」

 私ももうあの場所で働きつづけるつもりはないから、当面はここにも来ないかもしれない。そのことは彼女には黙っていようと思った。

 本当に最後になった。彼女は総武線。私は地下鉄東西線。

「じゃあ、これからもがんばってね」

「はい」

 声が小さい。

「田中さんと仕事できて楽しかった。今回のは運が悪かっただけだから」

 本心だ。

「そう言っていただけて、うれしいです」

 田中理来はJRの方面に去っていった。

 その夜は私は睡眠導入剤を多めに飲んで眠った。

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