結局体位の研究はあれっきりだった。それでも何とか空想を膨らませて官能小説の続きは書けている。それなりの読者もついている。離れてはいない。それはそれでうれしいことだった。
結局私は以前の派遣の仕事は辞めて、今は職探しの最中。野際さんは私が辞めることをかなり惜しんでくれた。私としては思いがけないことだったので、心が温まった。課長との一件は野際さんには話していなかったから、彼女としてはなぜ辞めるのか不思議だったようだ。お別れの日、野際さんは自分で作ったというきれいな文庫サイズのブックカバーをくれた。私は自分が本好きだということは人には話していないのに、どこかで私のカバンの中の文庫本を見たのだろう。ピンクのバラの刺繡の施された素敵なブックカバーだった。すぐに使う気にはなれず、机の上に飾っている。ふつうにつき合っていたけれど、職場だけの関係だったのに、こういう心遣いをしてもらえるのがありがたかった。
毎朝ネットで職探しをする。ハローワークのサイトに登録して調べているが、なかなか条件の合う仕事が見つからない。以前の仕事以上の給与水準でないと、家賃を維持するのに不公平感がでる。翔太とはきっちり折半したかった。翔太は自分の稼ぎで何とかなると言ってはいるが、私の気が済まない。かつ、自分の年齢を思うと、なるべく長く続けられる職場を探さなければならないと感じていた。
良さそうだと思った求人には申込み、面接を受けに行く。面接に行けば大体の雰囲気が分かる。仕事の忙しさや大変さなどは別にいいのだが、精神的に参るような雰囲気の職場は避けたかった。仕事であまりに頭と神経を使いすぎるのも嫌だった。考えてみると、こうやって私は翔太に甘えている気がする。一人だったら多少条件が悪くともすぐに決めなければならない。そこに猶予をもって臨めるのは翔太のおかげだ。心の中で感謝する。
面接の帰り、あまり手応えを感じないもやもやした気分のまま、春用のグレーのスーツスタイルで、スーパーのサッカー台で買った食材を袋に詰め替えていた。ふいに肩を叩かれて一瞬びくりとしたが、振りかえると翔太だった。
「綾香も買い物したの。連絡すればよかったね」
翔太の袋もいっぱいに詰め込まれている。最近は私が仕事に出ない分、夕飯をつくることが多くなっていた。だから今日も当然の気持ちで買い物をしていた。
「何買った?」
翔太は私の手元を見る。
「うわ、けっこう被ってるな」
「そう?」
失敗したと思ったが、今さら返すわけにもいかない。
私が詰め終わると翔太は袋をひょいと持った。
「え、いいよ。私が買ったのは私が持ってく」
「いいから、いいから」
「でも」
「綾香はこだわりすぎなんだよ。何でも負担を半分にしようとするけど、力は男の俺の方が絶対あるんだからさ」
そう言って翔太はさっさと歩きはじめてしまった。
慌てて翔太のあとを追いながら私は思いもかけなかった言葉に動転していた。男の方が力が強い。客観的に見て、それはそうだ。そのことと、今翔太に言われた言葉とは私の中でずっと別物だった。翔太は何げなく言ったのかもしれないけれど、私にははっとするような新鮮さだった。なぜだろう。
しかし、翔太に追いつき横に並んだ私の口をついて出たのは、
「家賃は絶対折半だよ」
ということだった。翔太は『はいはい』という感じで、
「それはもう分かったから」
と答えた。何だか軽くいなされてしまったようで極まりが悪い。
翔太は思い切り詰め込んだ袋を二つ両手に下げて歩いている。その横を私は面接に持っていったビジネスバッグを小脇にして歩いている。西の空はぼんやりと朱い。月は、いつかの張り付いたような大きな黄色い月ではなく、半欠けの白い平凡な月だった。翔太の両肩に目をやった。わりと瘦せ型で華奢な方だと思っていたが、肩は尖って今は力が入っている。背骨のくぼみが薄手のシャツを通して見えるようだ。翔太に初めて会った日のことを思い出す。その時は真冬だったので、厚手のセーターを着ていた。ケーブル編みのチャーコールのセーターと水色のシャツを思い出す。
間口の狭い居酒屋で、私は学生時代のサークル仲間と飲んでいた。そのうちの一人が、少し離れた場所に来て座った四人組の男女の一人と社会人になってからの知り合いだったらしく、その場のノリで私たちと彼らのグループは合流した。小さな酒場は半ば貸切状態。
たまたま隣に座った翔太を見た時、なぜかほっとした。人を警戒させない雰囲気だったから。初めて会ったのに、私たちはたわいないことから会話を続けた。いつも知らない人に感じる警戒心がその時の私には少しもなかった。
私にしてはだいぶ酔った方だった。でも、断じて理性まで吹っ飛んでいたわけではない。合同飲み会がお開きになって、それぞれに店を出た時、ちょっとした繁華街だったその場所で、同じような酔っ払いが楽しそうに行き交っているのを見ていた時、翔太に再び声をかけられた。
「実は名前言ってなかったよね。俺の名は三船翔太。住んでるのは三鷹なんだけど」
「ああ、三鷹なの。私は一つ先の武蔵境」
「へえ、じゃあここからは一本だね。一緒に帰っていい?」
「いいよ」
そう答えてからふと気がついて、
「でも三鷹なら総武線か東西線の方が楽じゃない、混んでなくて」
「いやいいよ。中央線でいく、せっかくだから」
『せっかくだから』という意味は不明だが、私はうれしかった。
他の人たちとは離れて、酔いの勢いであいさつもそこそこに二人で駅に向かった。予想通り中央線はぎゅうぎゅう詰めの状態だったが、背の高い翔太が必死につり革にぶら下がる私に上から話しかけてくるので嫌な気分も吹き飛んだ。翔太は自分のプライベートなことを気さくに話してくれた。栃木の出身で、大学進学のために上京し、そのままこちらで就職したこと。Webデザインの会社に勤めていること。両親や姉など家族のこと。実家で飼っていた犬のこと。最近その犬が死んでしまって、とても悲しかったこと。
ごくありふれた平凡と言ってもいい内容の話なのに、私の心は弾んだ。彼が話している途中で三鷹に着き、彼は降りた。何て短い時間だったのだろう。
「じゃあね、気をつけて帰って」
彼が手を振るのに、私は少しためらいながら振りかえした。