翔太の肩を見つめながら、過去の記憶に耽っていた。とは言っても、ほんの二カ月と少し前のことだが。
マンションのエントランスに入って、私はカバンからキイケースを取りだす。
「綾香ってせっかちだよね」
何気なさげに翔太が言う。
「家の前で出せばいいのに」
「私、何でもせかせかするタイプなの」
「うん。最近分かってきた」
翔太が私の些細な癖を見ていることに気づいて、少し驚いた。
「今夜は俺、夕ご飯つくるよ」
「ええ、でも悪いな」
「綾香も面接だったんだし。で、感触はどうだった?」
「うーん、雰囲気がイマイチ……。面接官も感じよくなかったし。ごめんね、すぐに再就職するって言ったのに」
「家賃は折半、ね。オーケー。綾香はほんと、頑固だね。嫌いじゃないけど」
どうしたのだろう、今日の翔太はいつもにも増して優しい。
「美愛さんとはうまくいってるの」
つい口に出してしまった。
「ああ、うん」
「でもさ、美愛さんていう彼女がいるのに、結婚してよかったの。私、知ってたらさすがに籍は入れなかったよ」
「美愛は了解済み」
「まさか、相手も不倫なの」
顔も見たことのない山本美愛という女性のことが気になる。
「いや、まあ、不倫じゃないけど」
翔太は言葉を濁す。
そうこうしているうちに、自宅玄関の前に着いた。私は鍵を開け、両手がふさがった翔太が入りやすいように、ドアを大きく開いた。
三和土に足を踏み入れながら、小声で翔太が言う。
「未亡人、てやつかな」
ふいに言われて私は言葉が出なかった。翔太は気にする素振りもなく、テーブルに食材を広げ始めていた。
山本美愛さんという女性は、夫を亡くした人なのか。翔太はなぜその人と結婚せずに、私と籍をいれたのだろう。私にとっての理由は、この結婚はとても便利だったからだ。翔太とは飲み会の翌日にも会って、さらに意気投合した。すごく波長が合うというか、相性がいいというか、一緒にいて楽だった。私はふだんはあまり人に本音を言わない方だと自分で思っていたのに、ついつい話が弾んで、自分には性の欲求というものがないのだということまで軽く話してしまった。かつ、実家の家族とは仲が悪く疎遠であることも。飲みながらだったので、ふだんはしない立ち入ったことまで話した勢いのまま、こう言った。
「でもさ、私には帰る実家なんてないんだけど、一つだけ気がかりがあって。何というか……孤独死が怖いの」
「ええ、でもまだ三十二歳でしょ。そんなことまで」
「人間、いつ何があるか分からないじゃない。でさ、孤独死って増えているでしょ。孤独死するのは別にいいんだけど、その後ずっと発見されなくて、体が腐り果てていくのは嫌だなぁって。怖いんだよ。人間が腐って液体化していくんだよ」
などという楽しい飲みの場にはそぐわないようなことまで言ってしまったのだ。物書きの私はノンフィクションをよく読む。かなり手当たり次第に読んでいる中で、そういう話もあったのだった。
「ふうん」
翔太は空気を読まない嫌なヤツ、というような気配は少しも見せずに、少し間をおいてから言った。
「じゃ、一緒に暮らさない。結婚しちゃおう。だったら、そういう不安はなくなるじゃない」
さすがの私も、その時は飲みかけのハイボールが気管に入ってしまい、しばらくの間酷く咳きこんでしまった。
翔太は今、買ってきた食材を丁寧に冷蔵庫や乾物用の箱に入れ替えている。翔太は私と違って、そういうところはマメな人だ。それを立ったまま眺めつつ、知らず知らず首を傾げていた。あらためて翔太との縁は不思議だった。しかも、結婚しても好きでない行為はせずに、楽しく助け合って生活できている。自分のこれまでの人生は、正直言って運やツキに見放されているようなところがあった。それがここにきて、うまくまわりすぎている。そうすると、怖さが自分の奥底から滲みだしてくる。この生活はいったいいつまで続けられるのだろうか。こういう気持ちは自分で理由を知っている。心の防衛反応だ。裏切られるのがすごく恐ろしいから、あらかじめ期待しない、諦めておく。怖さでバリアを張って、いざとういう時に備える。これが私のこれまでの生き方だった。そこに易々と踏みこんだ翔太は、私にとってとてもありがたいと同時に恐ろしい存在でもある。
「ねえ、人参とジャガイモと玉ねぎとあったら、何がいいかな、夕ご飯。綾香も俺も買ったから、大量だよ」
私の思案はそこで断ち切られた。
「うーん、カレールーもシチューの素もあるけど、今夜は肉じゃががいい気がする」
「よっしゃ、じゃあ、それに決まり」
「乾物の箱に麩も残ってたと思う。豚肉は冷凍庫にあるし」
「じゃあ、綾香は休んでていいよ。また小説書いてなよ」
私は自室に入り、ドアを閉めた。
どうしよう。最近、官能小説は適当に俳優さんとかのあてがきをしていたけれど、だんだん翔太がイメージに湧いてくるようになってしまった。なのに、私にはその気が起きない。れっきとした夫婦なのに。
『ふつうの夫婦っていうのは、どういうものなのだろう』
PCを開いても書き出せず、たて肘を突いてぼんやりとしてしまう。雑念が消えない。