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春爛漫③

  『絶頂』ってどんな感じなのかなぁと思って、本棚からクリムトの画集を取りだす。その状態を描いたと言われる絵画をじっと見る。クリムトらしい金色をベースにした細工模様のような中に浮かび上がる女性は、私には安らいでいるように見える。幸福そう。こういうのでいいのだろうか。

 キイボードに指を当ててみるが、なかなか言葉が生まれてこない。幸せなセックスは幸せそのものの気分になるのだろうか。いやでも、クリムトだって男性だから、女性の本当のところなどきっと分からなかったはず。そうであるなら、私だって想像で書いてもいいはずだ。

 体位の研究、いや練習で翔太と抱き合っても、性的な喜びはなかった。それでも私は翔太が好きだ。けれども恋愛とも違う。友情というには近すぎる気もするし。何と表現したらいいのだろう。やっぱり交わりがないと分からないのだろうか。

 とりあえず、クリムトの描く女性を描写しはじめる。絵画の描写というより、そこから読みとれるこの女性の気持ち、気分。少しは筆が進みはじめた。閉じた眼、明るい頬、夢見るような口元。くらくらするものなのだろうか。クリムトの金色はそれだけで十分にくらくらするけれど。

「綾香ー、肉じゃができたよー」

 翔太の元気そうな声が聞こえた。

「はーい、今行くよ」

 そう言って私は再びPCを閉じた。

 気がつくと部屋の中にも肉じゃがの美味しそうな匂いがこもってきている。急にお腹が鳴った。

 祥太の用意してくれた肉じゃがは、ほくほくで出汁も効いていて、本当に美味しかった。つい私はご飯をお替りしたくらい。

「料理好きなんだよね」

 満足そうに笑って翔太が言う。

「でも一人のときはけっこう出来合いが多かった。やっぱり食べてくれる人がいるって、すごいモチベーションになる」

「何か悪いな」

「何で」

「私も立派なものつくらなきゃって気になる。でも私料理下手で凝ったものできないし」

「んなことないよ。旨いよ」

 食べ終わって食器を洗いはじめたあとも、翔太は食卓についたまま黙っている。私はお湯を出して、スポンジに匂いの強くない食器用洗剤を少し落として流しながら洗っていく。

 掃除も、翔太がマメにやっていてくれるようで、ピカピカとまではいかなくてもきれいなシンクだった。

 背中に声がした。

「ねえ、綾香さ、今度花見に行かん?」

「えっ」

 驚いて振り返ったが、翔太はちょっとイスからコケるような真似をした。

「えって、そんな驚くようなもん? 一応夫婦なんだしさ、たまには一緒に出掛けて楽しい時間を過ごすのもいいんじゃないかなと思ったんだけど。嫌?」

 嫌だという以前に、そういう発想が自分に欠けていたことに気づいた。そうなのだ。ごく簡単に夫婦になった私たちは、一緒に外出することも特になかった。別にいいんじゃない? 夫婦なんだから。心の声がささやく。

 私は「そうだね、土日どっちがいい?」と聞きながら、体は背中を向けながらも顔が緩んできた。何か無性にうれしい。

「開花予想が3月23日か24日でしょ」

「そうなんだ」

「その次の土曜がいいんじゃない」

「わかった」

 花見など、何年行っていないだろう。

「どこに行こうか?」

「神代植物公園もなかなか良かったよ、昔行ったことある」

「でも新宿御苑も一度行ってみたい」

「じゃあそうする?」

「楽に行けるのは小金井公園かな」

 けっきょく、私も翔太も人出が凄まじい場所はパスということで、知名度の劣る小金井公園にすることにした。

「翔太は行ったことあるの? 何か、花見スポットいろいろ詳しい感じだったじゃない」

「ああ、美愛と一緒にさ」

 こともなげに言うので、私は軽く不信感を抱いた。

「え、じゃあ、今年も美愛さんと行けばいいじゃない。何で私なの」

「最初言ったでしょ。夫婦なんだから」

 翔太を中心に成り立っているこの不思議な関係性を感じながらも、私はそこに踏みこんでいく勇気がなかった。それで、黙った。これ以上入り込んで、今の楽な状況を変えたくはないのだと気づく。美愛さんのことは気にならないと言えば噓になるが、それよりも今の翔太との関係性を大事にしたい気持ちが勝って臆病になってしまう。

 ことわざにもあるでしょう。藪をつついて蛇を出す。そういう無様なことはしたくなかったのだ。

 知らずに済めば、その方がいいではないか。

 その日は、お弁当をつくっていくことにした。こんなことを自分の人生でするときがあるなどとは思ってもいなかったので、戸惑うような、わくわくするような心地。要するに、これも新鮮な体験だったのだ。

 大したおかずはつくらないが、玉子焼きとかミートボール(もちろん冷凍食品)などの定番を詰め込み、炊き込みご飯でおにぎりを握った。おにぎりって、握るものなのだと再認識して掌の熱さに驚く。

 私が持っていたやや大きめのトートバッグにお弁当とお茶のポットを入れて電車に乗り込んだ。お弁当の匂いが外に漏れているのが少し恥ずかしかったが、電車は空いていた。

 よく晴れて、今日は気温もぐんぐんと上がるらしい。いつの間にか冬は去り、電車内でさえも陽の光があふれている。

 花小金井駅で降り、ここからやや歩く。バスに乗るほどの距離ではないらしい。駅の前には少しの店があるが、全体的に樹木が多い。そして来たことのあるという翔太についていくと、すぐに花に溢れた遊歩道に入った。散歩する付近住民らしき人たちとすれ違いながら歩く。

 『いい場所だな』

 素直にそう思った。

 やがて大通りに出て、翔太の向かうがままに、横に並んでついて歩く。

 『こういうの、悪くないな』

 思ったよりも歩いたあと、ようやく公園の入り口らしいところが見えてきた。

 門の向こうには、樹木が綺麗に並んでいる。視界に入った濃淡のピンク色に思わず歓声をあげていた。

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