「桜ってこんなにたくさん種類があるの? ていうか、すごいきれいなんだけど」
「だよ。実はソメイヨシノが一番地味じゃね」
それぞれの桜の樹木に札がついていて、種類を表示しているが、それを全部記憶しようとは思わない。けれど、次々と現れる八重桜たちの、その微妙なニュアンスを含んだ紅色の具合にため息がでた。
「まるで薔薇の花だね」
「桜はバラ科なんだよ」
「えっ、そうなの。詳しいね、翔太」
「うん」
小声で翔太は答えた。私が浮かれて樹木の間を見て歩くのを、翔太は少し離れたところから見ている。
そこで気がついた。
翔太は花ではなく、私を見ていた。しかも、眩しそうに眼を細めて。
まわりのピンクにまとわりつかれた。春の心地よい風が腕まくりした肌筋を通っていく。はらはらとした花びらが舞い降りている景色も見える。
翔太と目が合った。結婚までして、それから初めてここまでしっかりと眼を合わせたような気がした。
私はこれまでの約二カ月と少し、翔太は私と同じように、面倒くさいことが苦手で、気ままに生きたい人なのだろうと思い込んでいた。私は少なくともそうだ。面倒な性の営みはせず、けれども万一の場合には看取ってくれることを保証し、生活を分かち合うことでお互いに自由になる。ずっとそう思い込んできた。それは嘘ではない。誤魔化す気持ちなどない。そのように本気で思っていたのだ。
けれども、今の翔太の熱い眼はいったいなんだ。ねばりつくように、けれども優しいこの眼はなんだ。
はしゃいでいた私は、樹下に立ちどまった。
ゆっくりと歩いてきた翔太が、私の肩を抱き、私の唇に自分の唇を重ねた。抱きしめられたのは心地よかった。けれど、その先はやはりだめだった。舌先を入れられようとした瞬間、私は翔太を両腕で押し戻した。そして、自分の唇に手を触れる。翔太は薄く笑った。私も笑い返そうとしたが、うまくできない。
「ごめん」
翔太が表情を見せずに言う。
「こんなところで、することじゃないよね」
本当はそれを言いたいのではないのだろう。
私はといえば、羞恥心と怒りとのないまぜになったものの虜となっていた。怒りとは、翔太に対してではない。もっと暗く、自分の底の方にあるものへの怒り。私は熱くなるどころか、血の気が引いていって、肌寒さを感じた。
「座ろ」
声を押し出すように翔太に言った。
「あ、うん。疲れた?」
翔太は周りをきょろきょろと見渡す。本当は肩を抱いてもらいたいくらい私は心細かった。でも、さっきのことがあり、とてもではないがそんなことは口にできない。
「困ったな。ベンチ、どこもふさがってるよ」
「いい。地面でいい」
「地面? それはさすがに。そんなに具合悪い? タクシー呼んで帰ろうか」
私は激しく首を振った。
「じゃあ、この先に芝生があったと思うんだ。少し歩くけど、行ける?」
今度は私は頷いた。
ピンク色が覆いかぶさり、ちらちらと花びらが散っていく中を、私は翔太についてうつむいたまま歩いていった。
ピンクの森を意識しながら、見えるのは整備された地面と、通り過ぎる人たちの足、耳に入るのは人声と鳥のさえずりだけだった。
いつのまにか、私はほの暗い闇の中に沈みこんでしまっていた。
「ここの芝生、いいんじゃない」
そう言われてはじめて、翔太がそっと右腕を私のうしろに回していたことに気づいた。触れるか触れないかぐらい。そのくらい、私は心もとない様子で歩いていたのだということなのだろう。
私は翔太が小さいレジャーシートを敷いてくれた場所に素直に座った。隣に翔太が、芝生の上にじかに座った。
この場所からは、ボール遊びをしている小さい子供とその両親の姿が複数、遠くに見える。ボールを追いかける、とても足の短い、多分三歳くらいの男の子や女の子。子供はなんで、あんなに夢中で遊べるのだろう。中には親に抱っこされている子もいる。もう少し歳が下の子供か。きょうだいなのだろうか。何だか穏やかさを絵に描いたような景色だ。
「あの、さ。さっき俺が悪かったから」
どきりとして、否定しようと顔を上げた私を制するようにして、たたみかけるように翔太が言う。
「綾香は、その、何か傷があると思うんだよね。うまいいい方じゃないな。自分でも無意識に忘れてることかもしれない」
ゆっくりとその言葉を咀嚼して、ふと思い当たった。
「それって……私の、あれが……その、先天的なものじゃないということ?」
翔太が覆うように私に再び腕をかけた。
「そういうのはどうだっていいと思うんだ。で、思い出す必要もない。今は今だろ。俺と夫婦になって、俺と一緒に楽しく助け合って生きてて、綾香には夢があって、それを実現しようとしていて、俺は全力でそれを助けたいと思ってる」
翔太が何を言いたいのか、にわかにはつかめなかった。頭が理解することと、感情が理解することとの間に時間のずれがあるようだ。
「俺、綾香の夢のためなら、何だって協力するよ。体位の練習でも何でも。はは、あれはあれでなんか面白かったし」
ようやく私は顔が熱くなった。
「綾香が好き。だから結婚したんだよ」
最後の翔太の言葉は、風にのって飛んでいってしまった。いや違う。私が意識的にふうっと綿毛を飛ばすように飛ばしたのだ。これ以上の精神的なショックには耐えられなかったから。
桜の森に目を戻し、うっすらとした靄のようなピンクをどう描写しようかということに、私は神経を集中させた。