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緑したたる①

 公募用の小説はさっぱり進まない。苛立ちを紛らわすように、私は官能小説の執筆を進めた。翔太が、しばらくは職探しをしないで小説に打ち込めばいいと提言してくれて、私は素直にその言葉に甘えることにした。以前はつっぱりがあって、早く仕事を見つけて経済的に翔太と対等にならねば、という焦りがあったが、自分でも不思議なほどその心の障壁は溶けてなくなっていた。まずは一カ月と決めて、思い切り執筆に専念しよう、そう考えていた。

 私の小説の主人公は、熱くねっとりとしたディープキスを楽しんでいる。喜びに恍惚としている。そうだ、あのクリムトの絵の女性のような表情を浮かべて、幸せの絶頂にいる。舌と舌を絡め合って、吸い合って、求め合って。そのあと、戯れながら、徐々にあのナイーブなところが熱を帯び、そして。

 経験がないのに、よく書けるものだ。

 それでも私は以前と違う、書いていることで幸せを感じていた。

 なかなか会心の描写ができたと息をつく。熱いコーヒーが飲みたくなって、キッチンに足を入れた。

 コーヒーメイカーがこぽこぽと琥珀の液体を落とすのを見るともなく見ていた。ふっと頭の中に黒い影が過り、私はそれを一瞬で無視する。じいっとコーヒーのドリップを見つめつづける。気がつくと、時計の秒針の音が鼓膜に響きはじめていた。紅い縁どりの時計は、結婚してこのマンションを借りた時、記念に買ったもの。アナログの丸い掛け時計が欲しいと、なぜだかずっと思っていた。その願いを叶えた。高価なものではないし、とてもささやかなことだけれど、そのことにも私は喜びを感じていた。

 いつの間にか、秒針の音が心臓の音のように聞こえてきた。

 ふと思い出す。

 子供の頃、自分の心臓の音が、それとは分からずに怖かったことを。

 どくどくどくどく。

 規則正しいその音はどこからくるのか。幼い私には分からなかった。古い木造の家で、それが聞こえはじめるととても怖かった。それは私が最初の眠りから薄く目覚めたときのことだった。

 隣に寝ている両親に声をかけようか迷ったけれど、起こしてしまうのは気が引けたので、私は身体をさなぎのようにまるめて、耳をふさいで布団のなかでじっと音が消えるのを待った。

 両親は寝ていると思ったけれど、どうやら起きてもいるようだ。耳をふさいでも音は続く。けれど、幼かった私はいつのまにかそのまま寝入ってしまっていた。気がつくと朝の光が差している。そういうことを何度か繰り返した。

 学年が上がるにつれていつの間にか私はその音が気にならなくなり、よく寝るようになった。私は寝つきがいいほうで、すぐに寝入り、朝まで眠った。

 小さな和室が家族の寝室だった。


 そんなことを時計の秒針から派生して薄らぼんやりと夢想していた。もうコーヒーのドリップは終わり、コーヒーメイカーは保温状態になっている。キッチンの棚からカップを出して琥珀色の飲み物を注ぎ、そこに牛乳を少し入れる。牛乳の甘さが私は好きだ。香ばしいコーヒーの香りを楽しみつつ、味は牛乳の甘さでまろやかになっている。今はとりわけすごく美味しく感じる。頭がすっきりとした。もう少し書けるだろうか。いや、せっかく翔太からもらった貴重な時間だ。できる限り書きたい。

 私は自室に戻りPCに向き合う。

 官能小説はもう一区切りにしよう。

 大切な公募用の小説のプロットをつくろう。なかなか手が出ないからこそ、どこかで踏み出さなければならない。私はプロット用のノートを出してページを開いた。

『両親のセックス』

 以前消した言葉が、今度は手書きの文字で現れた。私はとたんに苦い気持ちになった。私が本当に書きたいのはこれなのだろうか。こんな、誰にとっても面白くもなんともない出来事を書くことに意味はあるのか。

 翔太が言っていた、私のアセクシュアルは先天的なものではない、という趣旨の言葉。──本当は、心当たりがあった。思春期に見た両親のセックス。生々しくて気持ち悪くて、私は布団をかぶって寝たふりをしながら息を詰めていた。

 寝室は両親とずっと同じだった。それは何を意味するか。

 両親のセックスを目の当たりにするということ。

 そういう、両親の無神経は、著しく私を傷つけた。

 もとより、私は今現在両親と連絡を絶っていることに示されているように、両親を憎んでいる。血がつながっているという意識すらないのだ。けれど、気持ちの上で血のつながりを感じなくとも、遺伝という呪いがある。私は恐れているのかもしれない。両親のようになってしまうことを。

 こういう心理は極めて繊細で微妙なもので、自分でも己の中の回路のどことどこがどうつながったり切れたりして、今の自分を生み出しているのか分からない。分かりようがない。

 私は無意識に久しぶりの煙草を指に挟み、オレンジ色の百円ライターで火をつけていた。

 今私は冷静に考えているつもりだが、腹から胸の辺りがバクバクしている。やめた方がいい。そういう心の声が聞こえる。他方で、これに向き合わなければ私の小説は書けないのだという意識がある。自縄自縛に陥るこの感覚は、翔太と出会ってからしばし忘れていたものだが、なぜにか今、はっきりと湧き上がってくる。

 「性」の問題は、いい歳をしていても、私には鬼門だ。だから上辺の官能小説を書くことでバランスをとっていたのだ。そう、心の・精神の・魂のバランスを。

 「桜の花びらを吹いてとばすように、私は私の厄介な記憶を消すことを望んだ」。

 このフレーズは公募用の原稿に使おう。そう思って私はプロットノートに走り書きし、煙草の灰を空き缶に捨ててノートを閉じた。

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