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緑したたる②

 それから二日ほど経って、私は一人で散歩に出た。小説を書く人は分かると思うけれど、アイディアが浮かばないときは歩くに限る。ウォーキングのように健康のために歩くというよりは、ただ周りを眺めながら歩く。見える光景や行きかう人たちとはまったく無関係に、はっと何かが閃くことが多いのがこの散歩の時間だ。寒い冬の間はさぼりがちだったが、今日は爽やかな初夏に近い陽気。翔太は出勤している。一人で悶々とPCに向き合っていることにも飽きて、私は部屋着のTシャツにに半袖のパーカを羽織り、スリッポンで外に出た。スマホと玄関の鍵以外は何も持っていない。

 散歩をして浮かんでくるのは素晴らしいアイディアとは限らない。むしろ嫌な思い出が脳裡を過ぎることの方が多い。それでも周りを眺め、新鮮な空気を呼吸してすぐに忘れる。道路沿いの植え込みには濃いピンクと白のつつじが混じり合って咲いており、私は感嘆の溜息をもらす。つつじって不思議だな、ふだんは冴えない木なのに、花が咲くときだけまったく別のものになる。この上なく鮮やかな──。

 都内にありがちな緑化地区の近くでは、すでに新緑という時季をすっ飛ばして、緑滴る木々が風に揺れていた。少し遠方には青みがかった大木と深緑の大木が青い空色に映えている。『こういうのを描写する必要ってあるんだろうか』などとぼんやり考える。もう、人間の技を超えた存在にしか見えない。それでいいではないか。

 急に脈絡のない閃きが来た。

 恐ろしく肌の白い、古風の美人が目に浮かんだ。何かで見た大昔の映画女優かもしれない。そのイメージはモノクロだったから。でも、彼女に何かをしてもらう訳にはいかないだろうか。

 無意識にでも頭を占めていたらしい事柄から解放され、私は思いついたイメージを造形するのに夢中になった。PCを開く。『書ける』という予感。あの女性のイメージをとことん肉付けしてやろうと思う。まずはイメージトレーニング的に、大判のスケッチブックの広いページにボールペンで思いついたことをどんどんと書き出す。

 私は設定やプロットをつくるのが苦手で、つい途中で投げ出し、執筆に入ってしまうのだが、なぜだか今回はするすると言葉が出てくる。この女性の生きた時代、生い立ち、美しさのポイント。心の影。何が好きなのか。どういう価値観を抱いているのか。

 それをずっと夢中でやっていて、気がついたら日が傾きはじめていた。

 こんなに没頭できたのは久しぶりだ。しかも官能小説ではなくて、公募用に書きたいもので。時代は昭和初期くらいか。下調べが念入りに必要だ。それさえ、出来る気がして奮い立つ。昭和初期を生きた女性。聡明で、意志の強い女性。いつの間にか自分の理想像を描いている。でもありふれているか。いや、それは私の手腕による。

 突飛なことは書くまい。あくまで一人の人間の存在感や生き様を描きたい。私の本来書きたいものはそういう作品だ。

 夢から覚めるように夕焼けがまだまぶしい外の色を眺めている間に、ふと翔太が帰宅することを思い出した。急に現実に帰る。翔太は今日は出社の日。晩ご飯を用意しなければ。

 時間のあるときは凝った料理に挑戦してくれる翔太とは違い、私は時間があってもルーでつくるカレー。でもその代わり、具材は大きめに切る(これは本当は面倒なだけ)、さまざまのスパイスを投入する(当然スパイスコーナーにある小瓶のそれ)。一緒に暮らし始めて何度目かになる私のカレーだが、翔太は玄関のドアを開けるなり、「外までいい匂いがしてる、カレー、カレー」と歌うように言って喜んでくれた。

 翔太と私は変わらない。

 私は大事なことを記憶から消している。そのことの自覚はあるが、あえて思い出さない。翔太も忘れたふりをする。

 それでも、あの言葉は私には初めてのくつろいだ幸福感を与えてくれている。

 ほかほかのご飯をカレー皿によそう。

「そういえばさ」

 何気なく言う。

「ご飯粒の立ってるところって、見たことある?」

「あ?」

「美味しいごはんってそういうじゃない」

「うーん、そう? 知らないけど。茶柱は知ってるよ」

「ああそう」

 そういう意味のない会話を楽しめるようになっている。

 翔太が荷物を置いて着替えて、食卓につく。私は搾った布巾を渡して、「テーブル拭いて」と頼む。大人しく吹きはじめる翔太の姿が心を安らげる。

 私は思う。

 ──ずっとこのままだったら、いいのに。

 一瞬浮かんだ考えを、また私は意識から消してしまう。

「あ、俺、また持ち帰り残業あるから、先に寝てて」

 軽い口調で翔太が言う。

「ああそう。分かった」

 私も軽く答える。

 お皿を洗って私は自分の部屋に、翔太は彼の部屋に。

 壁を隔ててそれぞれの「仕事」を始める。

 ご飯を食べたせいか、頭が疲れたのか、先ほどのような集中力や充実感が身内に出てこない。

 仕方なく、再び官能小説に切り替える。少なくともこれはわずかながらお金になるのだし。

 書いていないと別のことを考えそうなので、書くことに集中する。

 今は無感動に、エロ話を読み漁りつつ。

 壁の向こうにいる翔太は気配がない。いつもは机やいすのがたんというような音が時折聞こえるのに。いや、自分が書くことに集中しているから気がつかなかっただけだろうか。

 いけない、いけない。

 気を散らさずにいこう。息抜きの側面もある官能小説。翔太にもらった時間をちゃんと有効活用しなければ。

 そろそろ23時。寝ようと思って二人の寝床に向かうが、まだ翔太は来ていない。持ち帰り残業ってそんなに多いのだろうか。何かトラブルがあったのかもしれない。そういうことを翔太はあまり口にしない。仕事の愚痴のようなものは。

 私は一日自分の執筆に頭を使ったので、いつもにもまして疲れている。すぐにあくびを噛み殺す羽目になった。もう、着替えもいいからこのまま寝てしまおう。外の仕事をやめてから、ずいぶんと自堕落になった気がする。部屋着のストレートのワンピースのまま、ブラジャーだけ外してほっぽりだし、すぐ布団の上に大の字になった。翔太が来た時のスペースは空けないと、と思いつつもそのまますぐに寝入ってしまったようだ。

 はっとして目が覚める。目が覚めてから、外に仕事に行く必要はないと思いだして、ほっと一息ついた。時計は6時をまわっている。慌てて起き出して階下に降りると、キッチンに翔太がいて、テーブルで食パンを齧っていた。

「ごめん、翔太。朝ご飯位用意しておけばよかったね、せめて。私働いてないんだし」

 すまなく思って言ったが、翔太は「働いてるじゃん。官能小説は順調に進んでるんでしょ」と笑う。

「ああ、うん、あの、最近どうかな」

「……最近って?」

 心なしか翔太の表情に緊張が走った。

「いや、何ていうか、面白く書けてるかなぁ、と」

「あー」

 翔太の間の抜けたため息がよく理解できなかった。

「面白いよ。ちょっと気になるんだけど、綾香の作品の読者、男が多いの、女が多いの?」

「えー、あんまり意識したことないけど、やっぱり女性が多いんじゃないのかな」

「だろうね」

「え、なになに、気になる。それってどういう意味?」

 翔太は飲みかけのコーヒーをむせそうになり、必死にこらえている。私がそのままの姿勢で待っていると、

「ごめ……。パンが気道に入っちゃったみたいなんだ。でね、何というか、面白いんだけど、すごく面白いんだけど、イヤらしくないからさ」

「えっ」

 私は絶句する。

「それ、どういう意味。仮にも官能……というのは気取っていってるだけで、エロ書いてるんよ。なのにイヤらしくないの?」

「男性の書いたエロ小説とかいちど見てごらんよ。小説でなくてもいいけど。いかに綾香のものが品がいいかよく分かるから。ああ、でも俺は綾香の作品が好きだからね」

 今朝の翔太はどこかいつもと違う。


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