「ここで、あってるよな?」
『incontrare』
英語なのか、はたまたイタリア語?ドイツ語?最低限の勉強を最低限にしかしてこなかった亮輔には店の名前の意味がわからず、アルファベットを一文字ずつ確認した。
「イン、コントラレ?」
よし、間違ってない。
ふぅ、ひとつ大きく息を吐いてから亮輔は黒いドアノブをそっと押した。
カランカラン!
懐かしい喫茶店みたいなベルの音が鳴り、
オレンジの電気が薄暗く光る店内をそっと見まわした。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
いわゆる、一般的なBARのような店内。
入ってすぐに横に長いカウンターがあり、そこは、おそらく10名くらいが座れそうだった。
そのカウンター越しに黒髪短髪、口元は整えられたヒゲが男に色気を添えている。おそらく40代くらいだろうか?
出立ちからして、マスターらしき男が亮輔に席を手で案内した。
他に客は3人だけだった。
よかった、空いていて。
亮輔はマスターから案内されたカウンターに腰掛け、持っていたスマホをテーブルの上に伏せて置いた。
「お客様、当店初めていらっしゃいますよね?」
「あっ、はい!あの、えーっと…」
まさか、『誰も落とせない美男子がいる。なんならゲイバーで働いてるくせに、ゲイなのかどうかも怪しいくらいガードが硬い男がいる店って聞いたんですけどー』
なーんて、言えるわけがなく、
亮輔は言葉がうまく出てこず、目線を泳がせた。
「大丈夫ですよ。何かお好みのお酒がございましたら…仰ってください」
と言いながら、何か全てをお見通しかのようなマスターは真っ白なおしぼりを亮輔に手渡した。
そんな客、多いんだろうな。
まぁ、ゲイの集まるSNSで噂になるくらいだから……。
亮輔は冷たいおしぼりで手と、額に滲んだ汗を拭き取った。
その噂の美男子は店内に見当たらず、まさか、今日休みの日だったか…と亮輔は肩を落とした。
勇気出して来たのに、タイミング最悪じゃん。
心の中で毒づいていると、マスターが静かな声で亮輔の前にドリンクリストを差し出した。
「お飲み物、いかがしますか?」
「あ、えっと、すんません。俺、酒めっちゃ弱くて…ビールとか、サワー的なのしか、飲んだ事なくて…」
マスターはふわりと優しく微笑む。目尻に刻まれたシワがマスターの人の良さを伝えていた。
「大丈夫ですよ。それでは、私からのご提案させて頂きますが、生ビールか、生グレープフルーツサワーどちらがお好みですか?サワーでしたらアルコール度数も調整できますし。または、ソフトドリンクでしたら、オレンジジュース、コーラ、サイダーなどもございますよ」
マスターなだけあって、さらさらと優しい言葉が流れてくる人だ。
亮輔はいやいや、と首を軽く振る。
さすがにこんなオシャレなBARに来て、ソフトドリンクだなんて、みっともなさすぎる。
「あ、えっと、じゃあ、生グレープフルーツサワー、…アルコール少しにしてもらえ、ます?」
ってアルコール少なめを頼んでる時点でもみっともないか。亮輔はドリンクの注文だけで1週間分の体力を使い切ったくらい、どっと疲れた。
「もちろん大丈夫ですよ。少々お待ちください。こちら、おつまみメニューもよろしければ」
そういって、ラミネートされたおつまみリストを手渡して、マスターはドリンクを作りに亮輔のそばを離れた。
ふぅぅ。
紺色の襟付きのカジュアルなシャツの下に着ている、白いTシャツが汗で肌にへばりついてくる。
慣れない事するもんじゃねぇーな。
手首に着けている夏のボーナスで買ったばかりの黒の腕時計も汗でぬるつく。それを右手で回しながら、さっき見たばかりの時間を確認する。
もうすぐ20時か。明日は休みだけど、調子乗って飲まないようにしないと。
まじで酒の弱い自分が嫌になる。
はぁ。頭を抱えながら、片手でスマホのロックを解除する。
会ってみたかったなぁ。
難攻不落の美男子とやら。
いや、俺がどうこうできるとか、お近づきになれるかも…なんて、そんなわけがない。
マッチングでしか男と出会ったことがなく、何度かマッチング相手に付き合おうと言われた事はあったが、ビビりの性格が優ってしまって、その人を幸せにできる自信がなく…全てお断りしてきた。
25年間生きて来て、彼氏が出来たこともない。
でも、そろそろ恋人とか欲しいんだよなぁ。でも、やっぱり踏み出す勇気なんて、俺にはない。
でも、性欲だけはなぁ、こればっかは…。
亮輔は慣れた手つきでマッチングアプリのアイコンをタップした。
美男子にも会えなかったし、この店の近所で…いねーかな。
地名を入力して、いくつか出て来た相手をスクロールしながら確認していく。
「マスター、おはようございます」
画面をいじっていた亮輔の手が止まった。
鼓膜をパーンと突き抜けるような透明感のある声だった。
亮輔が慌てて顔を上げる。
『こんな綺麗な男が実際に存在するのか…』
日本人…だよな?
オレンジの電気にも反射するサラサラの黒髪。
肩幅や、白シャツをまくった筋肉の筋の入った腕など、身体の作りは男らしさがあるのに、顔だけを見たら、女性なのか、男なのかわからないはずだ。
スッと通った鼻筋。顔面に対して、目の占める割合が大きすぎる。猫っぽいというのだろうか?アーモンド型のくっきりとした二重に、視力に影響ないのかと思うほど、長いまつ毛。
「カエデ、おはよう。こちらのお客様にこれお願いできるかい?」
「生グレ?」
「そう、おつまみもお伺いして」
「OK」
マスターと、その『カエデ』と呼ばれたその美しすぎる男のやり取りを
亮輔は頭の中が真っ白になりながら上の空で聞いていた。
その美しすぎる男が亮輔の前に立ち、微笑んでいる。
あぁ、天使って、いるんだ。
亮輔にはカエデの身体の周りが白く発光しているように見えていた。
「お客様、お待たせ致しました。生グレープフルーツサワーです。 おつまみのご注文ございましたらお伺い致します」
カエデは亮輔のスマホを避けるようにして、木製のコースターの上に炭酸の弾ける透明なグラスを置き、目の前で半分に切られたグレープフルーツを絞り上げ、静かにグラスに果汁を注いだ。
「……。」
あまりにも美しいその所作に、亮輔は口が開いたまま、塞がらない。
「お客様?」
カエデが困ったように作り笑いをして亮輔に問いかける。
亮輔は目の前の天使が作ってくれた生グレープフルーツサワーのグラスを両手で掴むと、一気に胃に流し込んだ。
ぷはっ!!
カランカランと氷がぶつかるグラスを握りしめて、亮輔はカエデの目を見つめた。
「……付き合って下さい!俺と!!」